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人生の醍醐味 245 仕事冥利

Image by Olia Gozha

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通訳の仕事は、有名人に会う場合もある。  キヨセラの稲盛氏には、 二年に一回の場合もあったが、大概毎年、ワシントンD.C.訪問の際は、会合の通訳として雇って頂き、 色々親切に教えてくださった。  


部長、 社長,会長と、とんとん拍子で出世した稲盛氏。  仏教にも造詣が深く、通訳業のお陰でお会いできた、素晴らしい方の一人だ。




2011年に起きた、福島原子力発電所爆発から数年後、首相の座を降りていた、菅直人元首相がワシントンD.C.を訪問、エネルギー省を訪問し、役人と会談した時、アメリカの代表者達は、拍手で菅直人氏を迎えた。 菅直人氏の労をねぎらって、思わず拍手となったようだ。


ブッシュ大統領の奥様であるバーバラ ブッシュ夫人の通訳をお受けした事もあった。  スピーチのうまさは舌を巻くほどであった。  


ヒラリー クリントン大統領候補者の通訳をもさせて頂いた。 理論整然とした話の展開で、通訳のやり甲斐があるスピーカーだった。


キッセンジャー高官、チェイニー長官等、 連邦政府行政府訪問時の通訳も、普通なら私のような庶民が逢えるはずもない、米国の上層部の人々とも同席し仕事をした。


クリントン大統領の通訳にあたった時の事。 私はどの時もそうであるが、 通訳現場には早めに到着、周りを歩き回り、 トイレのあり場所を確認して置くのが常だった。  


ワシントンD.C.での事。日本からのお客様も大勢参加した大会で、クリントン大統領が演説する事を知り、私は、早めに仕事場である会場の、後ろの壁近くにあるブースに、着席した。 


メモ用紙とペンを数本揃えて、 水入りコップも準備した。  普通、米国では同時通訳の時、 二人一組で仕事をする。 15分ずつ、かわりばんこに講演者の通訳をするのだ。  


運良く、今まで何度も米国各地で通訳を一緒にしてきた、同僚の中村氏だったので一安心。 


初めて出会った通訳者だと、お互い気心も分からず、警戒心が頭を擡げる場合もあるのだ。  所詮通訳は一匹狼。 生き残りをかけて、 睨み合う場合だってある。


大統領が演説となると、会場の準備が大変だ。カーテンの裏、部屋の隅々まで隈なく探して、安全性を確かめるのだ。 


背中にライフル銃を掛けた秘密警察官が、大会場を虱潰しに調べ回っていた。  一旦会場に入った我々労働者は、 安全性確認後、部屋から出る事を禁止されて、狭いブースに缶詰になってしまった。  



だいぶ前であるが、ある商務省の日米会談の時、 「数年前、雅子様が素晴らしい通訳を、過去のこの会合でなさった。」と、米国側代表が懐かしそうに話していた時もあった。 遠い昔の思い出の一つとなって、今でも脳裏に残っている。



当時、 東京電力は十人ほど社員が働く、 大きな東京電力の支所が、ワシントンD.C.のど真ん中にあった。  日本からのお客様の多い支所で、お陰で通訳業務を、沢山請け負わせて頂いた。  


連邦政府関係者と ワシントンD.C.近郊で会議を開く場合もあったし、 日本から来た企業戦士と、米国の原子力発電所を訪問、使用済み燃料の今後の処置等に関して、話し合いが持たれた。 


使用済み燃料が、きちんと水没しているプールも見学した。  そんな時は、被曝しないように、特別の白い制服を身を纏い、原子力発電施設のプール脇から、外部に出る前に、被曝程度を測定、万が一その測定値が、決められた数値より高い場合は、全て着ている物を放棄、シャワーを浴びて、再度測定、安全だと確認できて初めて、外に出ることができた。 


普通の人が入れないような場所にも、通訳と言う特殊な職業のため、入る事も可能で、多くの事を学んだ。 通訳冥利なのだ。


スリーマイル島の、原子力発電所事故後の施設見学に、同行した事もあった。既に、原子力発電所事故20年近く過ぎてからであったが、発電所のあった建物内外を見学、説明を聞いた。


勿論、 とっくの昔に、事故を起こした原子力発電機類は建物内から、撤去されていて、 中はも抜けの殻だった。  


川洲の真ん中にあり、 住民の居住地から、遠く離れた所に発電所があったことは、せめてもの幸運だった。 


後に起こる福島原子力発電所爆発事件とは違い、ペンシルバニア州ハリスバーグにあったスリーマイル事故は、発電機一機だけの爆発だった。


通訳の内容は幅広い。 時々、私は心の隅で、私は凡人で神様でもないのだから、ありとあらゆる分野の専門用語を、 しかも2ヶ国語で知る事は不可能と、叫びたくなった事もあった。  


自分の知る範囲に仕事を絞れば、 無理が無いのは道理であるが、 教師経験があると言う意味で、教育関係が専門と言えなくも無いが、 そんなに狭く分野を絞ると、 一年に一回当たれば良い方だ。  


それでは収入を得る仕事とは言えない。  その上、 一年に一回こっきりでは、通訳者に必須の口の動きが、スムースにいかなくなる。


  常に、マイクの前で喋り続ける事で、 脳内の神経細胞もハッスルして、活躍してくれるのだ。


負けず嫌いの私は、 正社員である夫の収入に、出来るだけ近づきたいと言う野望も、胸に秘めていたから、 挑戦ムードで、多種類の分野の通訳業に挑んでいた。 兎に角、 「仕事をしながら学ぶ」と言う、意気込みだったのだ。


学生時代は、授業料を払って、大学などで専門家になる為の知識を学ぶ。  仕事の場合は、給料を頂きながら、 冷や汗をかき、 死に物狂いで継続的に独学しながら、 学ばせていただくのだ。




IBP, アイオア州にある肉牛解体工場での通訳の仕事。 自動車工業は、部品類を徐々に組み合わせて、 最終的に完成された自動車が出来上がる。


それに対して、屠殺工場は自動車生産の真逆なのだ。  牧場で育った完璧な牛を一万頭も、大工場に集結、眉間を狙って殺害、皮を剥ぎ、肋骨の間に検査機を挿入、病気の有無を検査、また、脂肪のつき具合などを検査する。 


ステーキ、ローストビーフ用の肉の塊、ハンバーグ用の挽肉等に識別分類して、最終的にスパーマーケットに並ぶ仕掛けだ。


民間の食肉輸入業者、 厚生省の役人など、 米国の食肉輸出元を、 実際に目で確かめ、 専門家からの説明を受ける時、通訳の出番なのだ。


大型トラックが、砂埃を上げて屠殺工場の左手入り口につぎつぎと到着、見学者の我々は衛生管理上、会社側が提供する白衣に身を包み、室内に集合。 全屠殺工場の建物が冷凍庫になっていて、 歯がガチガチ言うほど寒かった。 2時間程の苦行を続行、見学終了。  


白衣を脱いで、 普通の会議室に移動、質疑応答が始まった。  日本は牛肉輸入の大口顧客であるから、アメリカの対応も丁寧で親切であった。


この見学は21世紀初頭の事だった。  米側の説明によると、20世紀の後半長く、大工場内に、連邦政府食品薬品局の職員が在住していて、法規制に準拠しているか、監視していた。


けれども、1981年から1989年まで大統領であったレーガン大統領時代頃から、自主規制政策に転換、それ以来屠殺工場でも、 連邦政府職員の姿は消えて、社内独自のの検査方式で推移しているとのこと。



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