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悲喜交々の人生を長年味わい、ふと居場所をがらりと変えるのも一興と思い、 ホノルルへ移住してはや三ヶ月が過ぎた。
青空、海、椰子の木、バンヤンの木、南国の太陽、パイナップル等、好きなものに囲まれた日常生活、これぞ幸せと言うのだろう。
米国の東海岸、首都の郊外であるメリーランド州ベセスダに、1980年に居を構えて以来、時は新幹線の様な速さで過ぎ去り、21世紀の9月、太平洋のど真中で深呼吸をしている自分がいる。
高校時代、最高に素晴らしい英語教師と出会い、外国語である英語の勉強の面白さに気づき、中学時代の3年間サボっていた英語に、俄然力を入れ始めた。
本の虫であった私は、数学の授業中に、机の下に本を隠しながら、夢中で読んでいた。 数学教師が目の前に立っていても気づかなかったくらいだ。
その時は偶々「チボー家の人々」と言うフランス文学の翻訳本を読んでいたが、その教師は「読み続けて良いよ」と、だけ言って黒板に戻った。
その後、シモーヌ ド ボバールの「第二の性」と言う本なども、何度も頷きながら読んだ関係か、1942年生まれの旧世代人間ではあるが、女性も自立するために、経済力を持つべきだと強く信じていた。 紆余曲折の末、自由業である通訳を35年以上続けた。
宮城県の茅葺きの家で育ち、周りは田んぼと田舎のお百姓さんの家ばかりで、農家の人が飼っている山羊の乳を、毎日小さなお鍋で沸かして飲んでいた私が、外国に出るなど夢にも思わなかった。
人生は不思議なもので、ずうずう弁をしゃべっていた私が、結果的に、通訳業のお陰で十数ヶ国に出張、仕事をしながら、他国の生活も垣間見ることができた。
英語を母国語とする人々の演説、講演会、座談会、密談等にも、仕事上同席出来たが、国際会議では、英語が第二言語である方々のスピーチも、湯水の様に浴びる機会に恵まれた。
全てを忘れ、無我夢中で壇上のスピーカーの話に、全力を傾け、内容を理解しようと集中、集中する事の大切さを学んだ。 また、「集中力は体力と正比例する。」と気づき、空き時間を利用して、兎に角、歩き回る努力も始めて、早30年。
話は戻るが、1970年、米国人ジャーナリストと結婚後、私は生まれて初めて、母国日本を後にして、夫とハワイに降り立った。米国本土へ行く途中に、数日観光を楽しんだのだ。
母と兄を早く無くし、仙台市の祖父母の家で育った私は、父が再婚して新家庭を大阪で作り、異母姉妹が二人いる複雑な家庭であった為もあり、割と複雑な気持ちで毎日を過ごしていた。
ワイキキのホテルに泊まり、ワイキキ海岸を二人で歩き回り、ダイヤモンドヘッドをみたり、ポリネシアの食べ物を食べ、ポリネシアの出し物を見たり、フラダンスを楽しんだ。 私には、全てが眩しく明るかった。
それから、米国の西海岸、東海岸、南部での生活や東京での生活もあったが、夢の様に過ぎ去り、我が夫も天国に旅立だった。
残された人生の過ごし方として、私はホノルルを選び、新しい人間関係を増やすため、太平洋のそよ風に促され、毎日邁進中だ。