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もう一度、万が一、人生を与えられたら、もちろん、そんな事はありえないが、どんな人生を選んでいただろう。
出たとこ勝負的人生だった。 「人生って、何なんだか」なんて事も分からないうちに、自分の人生は始まっていた。
「他の人同様、父母の揃った、私の家族が欲しいよ。」と考えても、現実は全然違った。
この世の中、 21世紀にも、 私のような宿命を背負って、この世に出現した人もいるだろう。
自分の家族だけを大切にする事で、誰かが、悲しみのどん底に沈むかもしれない。
と言う私も、自分の家族をやっと持てると、 その家族を守る事で必死だった。
片親しかいない子供達の事を、心底考える余裕も無かった。
所詮、義理の母を責める権利など私にはない。みんな、 ある状況に置かれると、 ほとんど本能的に、自己保存の気持ちが強くなるよう、人間はできているのだろう。
与えられる運命は、なかなか自己統制はできないが、それをどう解釈し、その運命をどのように、乗り越えてゆくための努力をするかの点は、本人次第の面が、多々あるような気がする。
ある意味、母なしと言う運命を背負った私は、当時の「世間の空気を読む」と言う呪縛から、ある程度開放されていたとも言える。
当時の常識に従う良い子ぶる必要は、わたしの場合少なかったのかもしれない。
父が、社会の常識の見本のように、わたしの前に立ちはだかったが、 私は私なりに全力で、父に反抗し続けた。
親方との相撲練習のように、反抗すればするほど、ある意味で、私は強くなった。
遅まきながら、 父にも心から、感謝すべきなのだろう。
他国で、第二言語を操る生活は、 文化の根本的違いもあり、人種差別も根深く存在する社会で生き抜くという事で、 根本的強さが必要なのだ。
人種差別的行動をとるアメリカ人に、間違って出会ってしまっても、 私は「あら、かわいそうな人。 皮膚の色や背の高さ位しか、自慢できない哀れな人ね」と、心の内で思うので、傷つくこともほとんどない。 余裕があるのだ。
女性も経済力を持つ事は、21世紀のように、 変化のスピードが加速化している今、 誰も未来を予測し難く、 どんな状況に置かれようと、生き残れる力を、日々日常的にやしなっておく事は、益々大切になるのではないだろうか。
危険分散と言う考え方も、一考の価値があるような気がする。 夫が、どんなに素晴らしい大企業勤務と言えど、安心出来ない時代の到来だ。
1970年、私が渡米した時、 アメリカ社会は、大変化期に入っていた。 男子も女子も独立した収入を得る事が、重要な時代がやってきていた。
世界経済の大きな流れ、人災、天災、AI
( 人工知能)、ナノテクノロジー、クリスパー(CRISPR)、その他、信じられないような速度で、技術革新も進んでいる。
日常的基盤を揺るがす、要因が揃いすぎているのだ。
21世紀の今、 私だったら、もう通訳業務を選ばないだろう。
通訳業は20世紀後半から、21世紀初頭に咲いたあだ花に過ぎない。 運良く、その波に乗っけてもらえただけに過ぎない。
これからの時代、通訳業も翻訳業も、AI にお任せするのが賢明な選択だ。
時間の問題で、AI を使った通訳の方が、1段と優れた成果を産むだろう。
私も、この21世紀に、どんな職業選択が良いのか、一世代前の人間であるから、わからない。
どの時代も、人間は力強く時代の変化に、自分を合わせる力を保持していた。
特に、若い人々は、 身体に本来備わっている、第6感のアンテナを十分駆使して、自分の道を開拓して行くに違いない。
21世紀の人々も、きっと、与えられた一度しかない人生を、有意義に過ごすだろう。


