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アメリカの首都、ワシントンD.C.近郊に、夫の仕事の関係で、住む事になったのは、後で振り返ると、自由業の通訳者にとって、超優れた場所を、住居に選んだ事になる。
例えば、日本の生産本部の米国支所が、ワシントンD.C.にあった。 生産性の優れた企業に、米国はマルコム ボールドリッチ賞を授与、日本企業は、生産性の高い米国企業から学ぶため、各種大企業、中小企業は、研修社員を大勢送り込んだ。
生産性向上を果たした、受賞企業の発表大会が、高級ホテルの大会場で開催される。 日本の企業代表団が、波のように押しかけた。
大会は、ワシントンD.C.のホテル内で、大概開かれたが、 カリフォルニア州やイリノイ州シカゴ市、テキサス州のヒューストン市等で、開催される事もあった。
日本から来た会社の人々は、大会終了後、受賞企業を、実際に訪問する場合が多かった。 偶然、 ワシントンD.C.にある、生産性本部支所の所長さんであった原田氏が、 通訳を必要としている事を知り、経歴書を持参の上、 ポトマック川向こうの、バージニア州まで出向いた。
元々、 ワシントンD.C.は、特別行政区で小さな地域だ。 人口約67万人程で、 その75パーセントが アフリカ系アメリカ人だ。
実際、ワシントンD.C.にある、連邦政府諸官庁職員の多数は、 隣州のメリーランド州か、バージニア州に住んでいるのが現状だ。
であるから、 日本の生産本部ワシントンD.C.支所も、広域ワシントンD.C.内にあると言う感覚だ。
20年近く、運良くその生産性本部から、定期的に通訳の仕事を頂き、 企業の生産性向上の大切さを学んだ。 6シグマ,原因結果の図式、デミング博士の事等、学ぶ事が多かった。
1980年代、1990年代は、日本の景気も良く、 企業で良い業績を挙げた社員を、ご褒美も兼ねて、海外研修に出す場合が多かった。
結果的に、通訳である私の仕事も、嬉しい悲鳴をあげたくなるほど、うなぎ登りに増え続けた。
1990年代に入ると、日本企業側が、デミング博士の生産性向上手法等を、米国企業に教えるケースが増え始めた。
例えば、関西電力の上級管理職の人々が、フロリダ電力の上級管理職の人々に、生産性向上の秘法を、伝授する講習会が開かれた。
米国各地域で開催された、武蔵野大学の石川 薫博士の講演会に、米国企業の中堅社員が、大勢熱心に耳を傾けていた。
また、1990代の終わり頃から、2000年代にかけて、生産性本部では新しい企画を組み、生産性本部主催の、通訳養成教室も開かれ、講師の一人になった。
自由業である通訳者には、決まった退職年限がない。 遅咲きである私は60歳近くなり、 ますます通訳の面白さ、 生涯教育の重要さを痛感し、 退職は全然考えていなかった。
現に、国際会議通訳者として、アフリカ、ヨーロッパ、ラテンアメリカ等へ出張で出向き、他言語の通訳者にも随分出会った。
スペイン語の通訳者の中には、70代の人も、誰にも負けず、元気な声で、通訳に勤しんでいるのを目撃した。
私は日英、英日の通訳者だ。 例えば壇上で、スペイン人が当然のように、スペイン語で演説している。 それをスペイン語と英語の通訳者が英語に訳してくれる。 その英訳を聞き取って、私は日本語に直すのだ。
というわけで、 多言語の通訳者の英訳を、しっかり聞き取る必要も多々あるのだ。 そして、年老いても、 身体が健康であれば、通訳業は自由業である分、強制的に退職を迫られる心配はなく、 己の自己管理能力次第で、70代後半まで、働き続ける可能性大であった。 スペイン語通訳者が、身を持って示してくれていた。
1980年代から本格的に通訳業を始めた。 私は1982年には40歳を迎えていた。 専門職を確信したのは、人よりとても遅れを取っていたと思う。
人生の寄り道が多かった。 でも、不思議と全ての寄り道で経験した事も、 通訳の仕事に有益であったと今では思える。
ワシントンD.C. は、ニューヨーク市と違って、皆も知る政治の中心地だ。 けれども、大企業は、 ワシントンD.C.近郊に、事務所を開設している場合が多い。
米国議会の法改正で、 自分達の企業に直接、間接的に影響を与える法案が、審議されている場合、その結果の報告等を、いち早く日本の企業本社に、伝える仕事があった。
また、企業と関係のありそうな、連邦政府官僚と、普段から、人脈作りの努力も、怠ってはならなかった。
その上、ワシントンD.C.のk通りは、弁護士事務所が軒を連ねていて、ロビー活動のためにも、 繋がりを持つ必要もあった。 そのような時も、多くの場合、通訳の出番になる場合もあったのだ。
1980年代、1990代は、 21世紀の今程、帰国子女の人数も少なく、海外在住経験者も限られていたので、 ワシントンD.C.近郊で開かれる日米会合でも、 通訳の要請が多かった。
また、ワシントンD.C.周辺に住んでいる、通訳者の数も限られていた。 通訳者一人一人に、割り当てられる通訳業務は、自然と多くなったのだ。
人生には運、不運がつきものだが、 適切な時期に、ワシントンD.C.に住む事になったのも、幸運だった。
1980年に10歳になった娘は、もうあまり手がかからない年齢になり始め、 私の仕事量の増加に従い 11、12、13、14歳と娘も大きく成長していった。
私の年齢層の日本人男性と違い、アメリカ人の夫は、妻が働く事にとても理解があり、本当に協力的であった。
カリフォルニア州で、通訳業務を終えて、夜遅くダラス空港(バージニア州)に降りたつ時もあった。
夫は、どんなに時間が遅くとも、空港まで迎えに来てくれた。 新聞社の忙しい仕事で、彼自身も疲れていたにも関わらずだ。
家族の協力が無いと、主婦は出張の多い仕事などできない。 通訳業を長く継続するためには、女性の社会進出に理解を示してくれる、アメリカ人の夫が、必要だ。