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1962年、 私は成人式を迎えた。 その数ヶ月前、父が大きな風呂敷包みを抱えて帰ってきた。 成人式に着る着物一揃い買ってきたのだ。
滅多に、無駄な散財をしない父が、大判振る舞い。お陰で仙台市内で開かれた成人式に、着物姿で出席出来た。
着物用ハンドバッグ、着物用履き物、肌襦袢、帯、帯留め等、私は全く諦めていた着物一式を、父は買ってきた。
長い人生で、父の優しさを感じる機会は少なかったが、着物購入は余りの驚きのため、きょとんとしてしまった。
写真館に入り、専門家に着物姿の写真も撮ってもらった。
小学時代の殆どを、祖父母の家で育ち、 大阪で新所帯を持った父とは、数年しか同じ屋根の下に住んでいない。
その上、 小学5年生の時、 私と兄の意見も全然聞かず、突然、大阪府豊中市に呼び寄せた。
原因はわからないが、兄、昭夫は大阪に住み始めて8カ月で、腹痛を3日間も訴え続けた上、 やっと医師の指示で入院したが、入院したその翌日早朝死亡した。
兄が死んだ後に、今更どんなに考えても無駄ではあるが、 「父親が大阪に呼び寄せさえしなければ、 兄はもっと長く生きる事が出来たであろう」、と考えてしまい、心の何処かで、父を許せなかった。 小学高学年、中学、高校と、私は父に反抗的な人間になってなっていった。
高校2 年生の時、 我が高校の国語教師の提案で、ペンパルクラブ活動が始まった。 遠くに住む知らない人と、文通を通して親睦を深める趣旨であった。
私は、当時、図書委員であったぐらい、読書好きであった。 「文通も楽しそう」という軽い気持ちで、そのクラブに参加した。
学校生活に忙しく、 入会後ペンパルクラブの事をすっかり忘れていた。 ところがある初秋の夜、血相を変えて父が怒り始めた。 私に対してだ。 「男子から手紙が来るとは何事だ。」と父。
私宛のペンパルクラブ員からの私信を、勝手に開けて読んだらしい。 私はそんな手紙が舞い込んだことさえ知らなかったのだ。
「本人宛の手紙は、本人が開けるのが正しいのでは」とまず考えた。 どんなひどい手紙であったのかはわからないが、 「私に怒りの矛先を向けるのは、お門違いでは」とも思ったが、 咄嗟の出来事だったので、 急遽私はトイレに逃げ込んだ。
ズボンのベルトで私を殴ろうと構えた父。 トイレに逃げ込む私。 どうして抜け出たのか今でもわからないが、 夢中で、 トイレの窓を開けて裸足で暗い夜道を急いで、歩いて行ける距離にあった(バス停8つ目位)の、従兄弟の家に向かった。
従姉妹は12才年上で、偶々従姉妹の夫は自衛官、本能的に身を守ってもらいたかったのだろう。
夜も遅かったので、 その自衛官が私を家まで送り届けてくれた。 流石に、 親戚の前では感情的にならず、 その日の事件はおさまった。
要は父が誤解しただけだった。 私が早熟で、 「男友達を作ったのでは」と邪推しただけだった。
どんな内容だったのか、私は生涯知ることはないだろう。 学校の活動の一つであるから、親に咎められるとは夢にも思わなかった。
文通を通して、文章力を強化、色々な人々と親睦を深めるのが目的だった。
「いやらしい、気持ちから文通を始める人がもしいたのなら、クラブ員の権利を取り上げる処置をすべきで、偶々そんな手紙を受け取った女子高生を親が真っ赤な顔をして怒るのは、お門違いも良いところだ。」
大学進学も反対し、何度も「進学組補習の授業から私を外すよう」、高校の職員室に怒鳴り込む父。
でも、私の友達は皆受験組。 ほとぼりが冷めると、そっとまた受験組の補習教室に顔を出した。
東京に出て、英語学校を卒業後、宿舎付きの仕事を新聞広告で見つけたが、それも数ヶ月後、父が人事課に怒鳴り込み、「良家の娘が働く場所ではない」との理屈。
英語学校を出ただけで、寄宿舎付きでない仕事は無理であった。 金欠病である私にとっては、下宿代を払い、自立して30日間食べ物を自分に供給するのは至難の技だ。
父の家には帰りたくなかった。 叔母にこれ以上迷惑をかけるのは、流石の私も忍びない。
その結果、新聞広告で、寄宿舎提供の文字に私は単純に有頂天になったのだ。 「これで、なんとか自立した生活が出来る」と私は思った。
でも、この件に関しては父が正しかった。 港区にあった米軍の将校会館で働けば、 身を持ち崩す可能性が大である事も否定できない。
本屋に飛び込んで、 聖書を購入、聖書を何度も読んで、「道を外さないようにしよう」、とは決心していたが、 鶏が、集団狼の中に自分から飛び込むのは、賢明な事ではない。
何事も起こる前に、東北本線に乗り、父に連れられ仙台に帰ったのは正解だったろう。
新聞広告で、名の知れた日本通運に就職も決まり、退屈ではあるが安定した生活が始まった。
仙台市内にあるユネスコ英語学校の夜学に通い、宮城県内の大学に通う学生とも、英語学校で 級友になった。
英語を一年半学んだだけでは、一人前に英語が話せるなどと、私は思っていなかった。
ユネスコ英語学校の級友が大学を卒業、東京で就職した。 私は勉学が続けたくて、 また、心の隅で好きになった級友の後を追うように、再度東京に出た。
運良く、青山学院女子短期大学の学生になり、卒業。
千葉県館山にある中学の英語教師として就職、同僚の一人が結婚を申し込み、 まだそんな気分になれなかった私は、いづらくなった中学教師の仕事を辞めて、 外資系企業に就職した。
やっと、下宿先も見つけ、 その外資系企業の待遇も良く、 ゆったり少しお金を貯めながら、 日々の生活を営んだ。
ふと知り合ったアメリカ人夫妻と英語、日本語の交換授業を始めた。
テキサス州出身で、 夫は新聞記者、 ご夫婦とも テキサス大学で修士号をとっていた。
私は基本的日本語の日常会話を教え、彼らはエドガー アランポーの作品である「Raven」(カラス)を、原文の英語で読みながら、解説してくれた。
私にとって、米国の文学作品を、二人の米人教師から学ぶ、幸運が巡り来た。
数ヶ月、週末に行われた英語の授業は継続。ある日、そのテキサスの先生方曰く。 来週高尾山にハイキングに行く予定だが、 「一緒に行かないか」 との誘い。
外資系企業勤務の同僚数人に声をかけたら、3人が参加する事になった。
渋谷駅のハチ公前で待ち合わせた。 テキサス人も、米国人の友人を誘っていた。総勢7人で新宿駅まで出て、乗り換え高尾山の麓にある駅から、緩やかな坂道を 歩き始めた。
それは、私が25歳の時であった。 テキサス人夫妻の友達は、マサチューセッツ州出身で、やはり新聞記者だった。 仕事の関係で二週間ほど滞在、マサチューセッツ州に帰るという。
ハイキングが終わった数日後、 マサチューセッツ州の記者が、サーカスの切符を購入誘ってくれた。
二週間はあっという間に過ぎ、 彼はマサチューセッツ州へ帰った。 普通はこれで この件は 一件落着という所だが、 一週間ほどしたある日、マサチューセッツ州から絵葉書が届いた。 一年ほど文通を続け、 日本で仕事を見つけた彼は、再度、東京に来た。
東京の虎ノ門にある、共同通信海外部で働く事に決まった。 渋谷の青山4丁目に、会社側の計らいでアパートを借り、仕事に集中した。
それから、10ヶ月ほどで我々は結婚した。 念には念を入れ、まずは渋谷にあるカトリック教会で、ほんの小さな結婚式を挙げ、渋谷区まで出向いて、日本政府に対しても結婚を知らせ、米国大使館でも、 結婚した事を正式に伝えた。
これは1969年の事だった。米国の歌手ボブ ディランが人気はくしていた時代だった。
1970年3月、 ハワイ経由でアメリカに渡る決心をした。 二人とも28歳。 私は生まれて初めての渡米。
ハワイの二月は東京に比べて暖かった。 ポリネシア村を訪れたり、ダイヤモンドヘッドに行ったり、ワイキキ海岸を歩き回ったりした。妊娠5カ月目で、安定期に入っていた。
日本で、英語を学んだとはいえ、合計5年程に過ぎない。 アメリカには住んだ事もなかった。 本土に渡り、西海岸側から、 彼は就職活動を始めた。
サンフランシスコ、ロスアンジェルス、 サンディエゴと降り、 サンディエゴのイブニングトリビューンと言う新聞社が雇ってくれた。
これで収入源が決まり、住む所に関しては、一時的にアパートを借りた。
彼は正社員になった。 これで医療保険も受けられる。収入も安定するから、安心して一戸建ての家も探せる。
不動産屋に頼み、小さいながら一軒家を見つけた。 職場へも、車で30分ほどで行ける便利な場所にあり、しかも中産階級が住む住宅街であった。 これで安心して子供が産める。
日本と違い、当然の事ながら全て英語だ。 電話の宣伝もよく聞き取れず、「はい、はい」と言っている内に、私はスポーツ誌を一年分購読に承諾を与えたことになったり、タクシーで私が一人で出かけ、運転手の英語が分からず困ったり、 私が行き先を英語で言っても理解してもらえなかった。
子育て用に庭付きの家を欲しがった私の願いを叶えてくれた夫殿。 軽薄にも、 日本人の自分が、米国に住む時の苦労を、全然考慮していなかった。
もう後戻りできない。 娘が9か月になった頃、私はカリフォルニアで四年制大学を卒業しようと決心した。
1970年代のアメリカは離婚全盛時代だった。 我々の親の世代は、 「父は何でも知っている」(Father knows best) と言う番組は、1954年から1962年頃まで放送された人気番組であった。
1945年 世界大戦が終わり、大勝利に沸く米国は、未来に明るい夢を持ち、核家族化も進み、父親が一家の頭として、収入の全責任を負い、 子育てと家事運営が母親の役割であった。
1960年代は、公民権運動、ベトナム戦争、反戦運動が盛んになった時代だった。 世代間の生き様の違いも目立ち始めた。
1970年の初春の2月に、生まれて初めて、米国本土のカリフォルニア州に夫と渡り、 生活の基盤を築き上げていった。
離婚が日常茶飯事になり始めているアメリカでは、うかうかしていられない。 経済力のない女性が離婚されると、途端に経済苦に苦しむ可能性が、無限大にある事に私は気づいた。
生まれて初めて、自分の家族を持てた私は、よっぽどの博打か、 大酒飲みか、家庭内暴力を振るう夫でない限り、「一生自分の家族を大切にして行こう」と、心の中で決めていたが、相手側である夫の気持ちが変わらないという保証は誰もできない。
現に、近所の仲良し夫婦と、私が勝手に思っていた若夫婦も離婚した。
英語力不足を痛感した私は、州立四年制大学卒業をまず目指したのだ。
卒業後、履歴書をソニーサンディエゴ支社など数社に送ったが、なしの礫。 そうこうする内に娘は4歳になった。 子供の教育に目を向け始めた。
命を守るため、 水泳教室にまず通わせ、 プールでなんとか泳げるようになった。 大学で知人から教わった、鈴木真一氏の「どの子も育つ、育て方時代」と言った内容の本を読み、母親としての責任を以前より自覚するようになった。
娘が4歳の誕生日を迎えた7月から、娘に母親の母国語である日本語を教え始めた。 仙台に住む従姉妹に頼み、 漢字練習帳、子供の歌のレコード、絵本等を送ってもらった。
当時のサンディエゴには日本書店がなく、 ロスアンジェルスまで車を走らせ、リトル東京まで数回夫の運転で行った。日本語に飢えていた私は、日本語で書かれた文庫本などを購入した。
大学の学生であった頃、現代中国史を教えていた チュー博士が、 授業中、たまに5歳になる息子がバイオリンを習っていて、「バッハの曲が弾けるんだ。」、と話した。 大学の音楽学部で、音楽の幼児教育が行われていると言う。
それを聞いた私は、中国史の授業終了後、即座に音楽学部の事務室に向かった。
大学構内にある書籍店で、 鈴木真一先生がお書きになった本を、まず2冊読むようにと勧められた。 先生の意見に賛同できる場合は、申込書を提出との事。
本屋で指定の本二冊を購入、一気に読み通した。 涙が出るほど感動した。
急に私は以前より娘に注目した。 バイオリン教室に入会手続きを済ませ、 教材とレコード(当時はまだレコードでござい)を購入、指示通り毎日教材のレコードをかけておいた。
「キラキラ星、蝶々」等。4歳の子供に相応しい曲が多かった。 別に専門の音楽家にしようとは、当時は、考えていなかった。
習い事のひとつで、「音楽的教養をつけられたら幸い」程度に考えていた。
大学の音楽学部では、 スズキメソードと言う、新音楽教育法として、その頃、注目されていたらしく、音楽学部長自ら、 夜、大学の教室で、生徒たちが集団で練習するのを、指導した程の熱の入れようであった。
音楽学部の大学院生を、長野県にある鈴木音楽教室に留学させて、鈴木メソードの真髄を学びとろうとした。
二年近く、日本に留学していた、クリック先生が私の娘の指導教師になった。 若い大学院生で、二年日本で生活している内に、日本語も話せるようになっていた。
アメリカに来てまだ、4年程しか経っていない、付き添いの私にとっても、 日本文化を身をもって学んできた先生に当たり、ほっとした。
バイオリン教育は、素晴らしい先生に恵まれたためもあり、娘はバイオリンを弾く能力を、どんどん伸ばしていた。
娘が5歳に近づき、覚えの早い娘は 自宅学習で4歳から一年ほどで、すっかり平仮名と片仮名を書けるし、読めるようになった。
また、仙台の従姉妹にお願いして、小学一年生用国語の教科書も送ってもらった。 一年生で学ぶ漢字を教え始めた所、見る間に覚えた。
でも、私ははたと困った。どうすれば、 「畳、襖、障子、下駄、お寺等を教える事が出来るのだろう」と考え込んでしまった。絨毯の上に座って、絵本を指差して、これは「畳みよ」と言ってもとても不自然だ。
やはり素足で畳の上を歩いたり座ったりして、肌感覚で感じる事も、本当の理解には重要だと考えた。
教育熱に目覚めた私は、いつものようにあと先も考えず、娘を小さい内に、日本で住んだ経験を持たせたく思った。
夫に私の考えを打ち明けると、呆気ないほど簡単に、「それは良い考えだ」と賛成。
サンディエゴで購入した小さな住宅を、近所の人に世話を頼み、貸家にした。
数カ所に就職活動をした夫は、運良く共同通信社の海外部に勤務が決まった。 千葉県習志野市の自衛隊近くに、運良く最近転勤の為、空き家になっていた庭付き一戸建て住宅を、借りる事に成功した。
背高のっぽのアメリカ人である夫は、日本ではとても目立ってしまう。 1976年の事だ。今と違って、帰国子女も極めて少なかったし 日本の一般市民は、まだ、普通のアメリカ人を見慣れていなかった。
アパートでは、 人目が多過ぎて、彼が窮屈な思いをすると懸念、ちょっと通勤には時間が掛かるが、庭付き一戸建て住宅を借りた。
地元の木の実幼稚園に4月から、娘は通い始めた。年長組に編入した。 虐められる事を心配、若い千葉先生に「娘がいじめられたら、大人である先生の責任ですよ」と必死に懇願した。
相手は5歳児。 大人である先生の指導次第で、いじめを防止する事は可能だと信じた。
運良く私の心配は、 空振りで終わり、友達もできクラスに溶け込んだようだ。 平仮名、片仮名、小学一年生が学ぶ当用漢字も読み書きができたし、 文部省唱歌や童謡も割と沢山知っていた。 4才から仕込んでおいてよかった。
娘が小学一年生になる時期が近づき、幼稚園時代と異なり、 近所の小学生と一緒に学校へ通う事になるので、 年上の男の子に虐められるのではと気にかかった。
良案が浮かんだ。 夫は、アメリカからアメリカのオーブン付きストーブの新品を持って来ていた。 沢山クッキーを焼き、近所の子供達、特に男の子を我が家に招待した。
子供達は珍しがって、 ドヤドヤやってきた。多分本物のアメリカ人を見るのは初めての子供達。 夫が通勤で出掛けたり帰宅しているのを、見かけた子供達も多いに違いない。
我が家を解放する事で、 彼らの好奇心を満足させ、我が家の娘はみんなと同様、日本語が普通に話せる事を、自然に知ってもらいたかったのだ。
夫が初めて通勤する時は私が同行した。 電車の乗り換え等に慣れてもらうためだ。 夫と娘の生活が少し安定したところで、 ジャパンタイムズ紙の求人募集を探した。
運良く、神田外語学院で専任講師を 募集していた。 それより以前、前の経験を活かし、再度中学の英語教師になろうと考えて、教育委員会に問い合わせ、教師になる為の試験に関して質問した。 「何歳ですか」と係の人。「34歳です。」と私。
「年齢制限を上回っているので、公立中学校教師としての就職は不可能です」と曰う。
折角カリフォルニア州立大学を、優秀な成績で卒業してきた上、 6年間も実際にアメリカ生活を経験した私は、 英語教師として、 より適していると自負していたが、年齢制限で軽く拒絶された。
教育委員会様に感謝。 中学教師の道を閉ざされたお陰で、もっと広い道が開けたのです。 運良く、試験と面接で合格、めでたく神田外語学院の専任講師に着任した。 週20時間教える仕事だ。
子供が6歳、 完全に放っておく年齢ではない。 夫と相談して、彼は水曜日と土曜日を休日にしてもらった。 夫が自宅にいる水曜日は、安心して私は朝の部、昼の部、夜の部も休み時間を挟みながら、長時間働き、月曜日と日曜日と金曜日は、私が休みを取った。 月曜日、水曜日、金曜日、土曜日、日曜日は片親が自宅にいるよう工夫した。
私の20時間勤務は我が家にとって、理想的勤務形態だった。 しかも、私は6年ぶりの日本生活。足が宙に浮いたように張り切っていました。
神田は場所柄、歌舞伎座にも近く、暇を見つけては歌舞伎座に入り浸った。 文楽にも興味が湧き、 文楽座で狂言、能等も楽しんだ。
日本生まれで、 27年間一度も海外に出る事もなく、 ひたすら日本文化にどっぷり浸かっていたが、 1970年から1976年迄の6年間カリフォルニア州で暮らしたので、 改めて、海外と比較しながら、日本文化への興味を深めたのだ。
上野公園で、裏千家の茶道が開かれている事を知り、休日娘を連れて、茶道教室に参加した。娘は廊下側で、茶道のレッスンが終わるまで、大人しく待っていてくれたが、 茶道の先生も気を利かせて、 娘に季節ごとの 茶菓子を 下さった。 形が綺麗な上、 甘くて美味しい。 娘はいつでも喜んで、茶道教室に一緒に来てくれた。
勿論、 学校が休みの時などは、娘も歌舞伎座に連れて行った。 日本文化に触れて欲しかったのだ。 休憩時間に食べる、幕の内弁当をすっかり気に入ってくれた。私も同様舌づつみを打った。
4年の月日は見る間に流れた。 娘はランドセル姿で、毎日小学校に通い、運良くいじめにも遭わずに済んだようだ。 絵が得意で学校で賞を貰ったくらいだ。
バイオリンに関してだが、初めはサンディエゴ時代のバイオリンの先生が推薦してくださった、亀戸に住む佐藤先生宅に毎週一回通った。
自宅からバスに乗り、津田沼駅から電車で亀井戸駅迄、夕方の満員電車に揺られて通った。
5、6、歳の子供を、親がついているとはいえ、満員電車で毎週通うのは、決して良い環境では無いと懸念したが、 先生は素晴らしい方だった。 でも、事情が分かってくると、100人近くの生徒がいると言う。
子供が小さいので、一人の個人レッスンは15分だったが、学校が終わる午後3時から、ひっきり無しに、生徒にバイオリンを一人一人教えている。
レッスンの合間に、奥様が水の入ったコップと薬を、教室の部屋にもってくるのを目撃してしまった。
一家が生活できるほど収入を確保するには、一人の先生が、100人の生徒を教える必要があったのかもしれないが、不自然さを感じ、私は新たに、自宅の近くにある音楽教室を探す事にした。
運良く、歩いて行けるところに、音楽教室があった。 元々、教養程度に音楽がわかれば、「人生に深みが増すだろう。」位の考えであったから、 その音楽教室を選び、 授業料を払った。 自宅の近くなので、一人でレッスンに行ける。
数週間後、 その音楽教室の職員から電話が入った。「土曜日だけ、東京の音楽大学の先生に、出張授業をしてもらう事になり、生徒を募集中との事。 我が娘を、その先生につけるよう勧めて下さった。」
娘は、一人で毎週、その新しい先生からレッスンを受け続けた。 私は、神田外語の仕事に気持ちを集中できた。
娘と私は日本生活の滑り出しも良く、 すっかり日本生活に溶け込んでいった。 でも、娘の英語教育も重要視した。
今度は、夫が東海岸に住む夫のお母様と妹さんに、小学1、2、3年生に似合った本類を、送ってくれるように頼んだ。 ナルニア物語の1、2、3、4巻を送って下さった。
借りていた割と大きな一軒家の茶の間で、仕事から帰ると、夫はその本を音読してくれた。 私にとっても、初めての冒険物語、家族全員で英語で書かれた本を、アメリカ人の夫が朗読するのを熱心に聞いた。 私の英語ヒヤリングの良い練習にもなった。
ところがである。4年ほどして、 文句を言わないタイプの夫だが、 身近に見ていた私は、まるで魚が木の上に登ったように、日本文化に溶け込めず、口をパクパクしている事に気がついた。
そろそろ、お魚を海に返してあげるべきだと私は悟った。 次回アメリカに住む時は、仕事をするべきだと思い、ジャパンタイムズ紙の求人募集広告を毎日注意深く見ていた。
ありました。 「アメリカで働きませんか」と言う文字が飛び込んできた。 募集要項を読み、京都の本社に経歴書を送付した。 間も無く、電話が入り、「京都に面接に来なさい」との指示。
めでたく、 日立マクセル社に採用になった。米国の南部ジョージア州に進出するため、社長、工場長、経理、技術者4人がジョージア州に工場建設後、工場の運営をするが、 7人の日本人は英語が全くほとんどできない.故に社内通訳を雇う決定がなされたようだ。
私は、再度渡米後、米国で仕事をしたいと考えていたので、両者の思惑が偶然完全に一致、私は採用された。