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父の思い出は余りない。 仕事を人生の中心に置いているタイプの人だった。 当時としては、出世派だったと思う。
私の中学時代は、一番暗い時期であった。 兄が亡くなり、大阪から兄なしで仙台に帰り、兄が通っていた同じ中学に入学した。
兄の同級生も中学3年生で、全員そろっていた。
職員室には、兄の中1時代の、受け持ちだった先生もいた。
学校内ではみんな、私が、大阪に行って死んでしまった昭夫の妹であることも、知っていた。
その上、父達の家族も同居、祖父母の家の雰囲気が、がらりと変わってしまった。
あの元気な祖母も、彼女の古い昔風の台所を取りあげられ、しょんぼりしていた。
古い板の間と土間が、現代風二間と台所に、改築されたのだ。
確か中学1年生の初秋、 仙台市の東一番町にあった薬局で、睡眠薬を生まれて、初めて購入した。
全てが嫌になり、 中学一年の頭で考え、自殺しようと思った。
研究不足のため、「睡眠薬を多量に飲めば死ねるだろう」と、単純に考えたのだ。
家人が留守中、部屋の真ん中に布団を敷いて、睡眠薬を多量に飲み、横になった。
何時間かが過ぎ、私は目を覚ました。 まだ、この世にいたのだ。 死に方さえ、ろくに知らなかったのだ。
そのような事があってから、不思議と、自殺はもう考えないようになってしまった。
それから、時は流れ、父が80代に入り、膵臓癌になってしまった。
当時、 私の家族は、米国の東海岸に住んでいた。 入退院を繰り返している事を知り、私は日本を訪れ、父を見舞った。
仙台市立病院に入院中の父は、 洋服に着替え、革靴を履き、病院のすぐ近くにあった老舗のお寿司屋さんに、連れていてくれた。
カウンターに二人で座り、父はもうほとんど食べられなかったが、私に「好きな寿司を、どれでも注文したらいい。」と言う。
生まれて初めて、寿司屋さんに父と入ったが、父の病状を、医者から説明を受けたばかりだったので、 流石の私も、その時は、食欲がなかった。
その6ヶ月後、 再度仙台を訪れた。 その時は、自宅の布団の上に座っていた。 父の奥様も、お年で疲れた様子。
私は航空会社に電話を入れ、事情を説明、帰国を延期する事にした。
遠方に住んでいた異母姉妹は、当時、大学や高校受験生の子供達を抱えている時期だった。
我が家の場合は、すでに娘も就職、夫も仕事中で、私が一番、時間的に余裕があったので、看護の手伝いをしようと決心した。
でも、隣の部屋で、父の奥様の声が聞こえてしまった。 「あなた、財産を狙っているのよ。」と、父に訴えていたのだ。
その日の内に、荷物を持って、「帰ります。」と、父に話した。 玄関まで送る父、「さようなら」 と、父を最後に見た。
米国では、残念ながら、離婚、再婚は日常茶飯事で、複雑な家族構成の家が多い。
それがどんな影響を、アメリカの人々に与えているのか、私は知らない。
私は「離婚だけはしたくない。」と、強く考えていたので、 我が家は、いったて単純な核家族だ。
亡夫の母親が、敬虔なカトリック教徒で、その影響もあり、夫もそう易々と、離婚に踏み切るタイプではなかった。
人の心は、本人も他人も行し難い。 私の運命は、複雑な家族構成を与えられ、 四苦八苦してしまったが、 時が流れ、全てが過去に飛び去った。
我が父親の奥様は、私に対して以外には、優しく親切で、思いやりのある方であったと思う。
私は、彼女の目の上のたんこぶだったのだ。 遥か彼方の外国生活を選択して、その呪縛から、本能的に逃れたかったのかもしれぬ。
自分の娘さん二人には、とても優しいお母さんであった。
時ほど良い薬は無い。 全てが遠くへ遠くへ流れ去り、 今はのんびり、心に何のわだかまりもなく、 海と空を見続けている。