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聞くところによると、父方の祖父母は、長男がなんらかの病気になり、 仕事につくほどの元気がなかったので、日本画の先生に自宅に来てもらい、日本画を少し勉強していたようだ。 その伯父は20代後半、病死してしまった。
祖父母の3男坊は、父の弟であるが、結核に犯され、子供3人と奥様を残してあの世に旅立った。
叔父の奥様は、当時の大概の女性同様、主婦であったので、夫が戦死してから、生活の目処が経つまで、 相当苦労したようだ。 戦後、髪結屋さんになった。
その叔父様に私の従姉妹達がいたが、父の妹で東京女子医専を卒業、医者として働いていた叔母の家で、その従姉妹の一人は同居していた。
1943年、1944年の戦争末期、幼かった私も、その医者である叔母家族のお世話になっていた。 従姉妹が、防空頭巾を被り、泣き叫ぶ私をおぶって、防空壕に何度も逃げて隠れたそうだ。
その戦死した叔父の末っ子は、洋服の仕立て屋に住み込みで働いていた。 ようは、父の弟の子供達三人は、散り散りバラバラになったのだ。
祖父母も病死した二人と、相次いで悲劇に見舞われていたのだ。 子供だった仙台時代、祖父母の心の奥にあった深い悲しみを知る由もなかった。
私の場合は戦争末期、母が病死、また、小学6年生の時、2歳年上の兄が病気で亡くなった。
私も、身の回りの人々の死の悲しみが、深く心に突き刺さっていたのだ。
若い頃は、 学校の学友の大半が両親が揃っているのが、心の奥で羨ましかった。 なぜ、 「私だけ、母がいないの」と、心が捻くれてしまっていた。
今頃になり 祖父母も、悲しみに耐え抜いていた事に気がついた。 父も叔母も、自分の兄弟が病死や戦死で嘆き悲しみながらも、強くその悲しみを乗り越え、父は86歳、叔母は96歳まで生き抜いたのだ。
若い頃は、自分の心の動きしか感じられず、自分だけが悲劇の主人公のように思ってしまっていたのだ。
生きるという事は、喜びも一杯あるが、 それと表裏一体で、悲しみも避けて通れないのだ。
人はそれぞれの運命として、悲しみも、喜びも全てを受け入れて、 この地上で呼吸をしたり、歩き回り、多種多様な出会いを楽しみ、それら全てをひっくるめて、人生であると受け入れられるように成長するまで、 地上に滞在するのかも知れない。
見えなくとも、どの人も、死と隣り合わせの生活をしていて、 日常生活の喧騒に気を取られ、気がつかないでいるか、意識的に死と言う現実から目を逸らしているか、死と隣り合わせである現実を直視できているかの違いだけだ。
今は、「太平洋の海風を胸一杯吸い込める幸せを、噛み締められる余裕のある生活を続けたい」と、思いながら、一万歩を目指して歩き続けた。


