156
第15代将軍徳川慶喜の朗読を聴き始めた。 歴史小説の大家、司馬遼太郎の作品である。 NHK朗読特集で、ユーチューブで聴ける有り難さ。
最後の将軍である、徳川慶喜を、綿密に長い年月をかけて、調べ上げて書いた作品のようだ。
今は21世紀。 150年前の日本では、大政奉還の動きが起こり、江戸時代が終焉、明治政府が樹立された。
1860年には、水戸藩浪士、薩摩藩浪士の企てで、桜田門外の変が起こり、井伊直弼が殺害された。
1853年に、米国のペリー総監督が、黒船で来日、鎖国をやめて、外部に日本を開けと迫る。
世界情勢の大きな流れの前に、 300年に及ぶ鎖国政策が崩壊して、日本も新しい時代に突入する。
慶喜は一橋家に養子に入り、実父、水戸斉昭の野望もあり、 慶喜は最後の将軍になるべく、運命が徐々に鮮明化する。
そんな事情もあり、若年の頃から、9科目の特訓を、それぞれ専門家から受ける。
文武に優れた慶喜は、挨拶の口上も抜きんでていた。
それに対して、徳川家の大老井伊直弼は、御殿政治の手腕に優れ、しかも、経験も断然多かった。
井伊直弼の起こした安政の大獄で、日本横領の咎、陰謀、謀反ありなどと、多くの人を陥れた。
多くの大名、旗本も罰せられ、吉田松蔭、西郷隆盛も犠牲者だ。 慶喜でさえ、自宅謹慎の刑を受けたが、2年後、その禁が溶けた。
尊王攘夷派と開国派の戦いが起こり、日本国中が騒然とした。
井伊直弼が殺されて、2年の年月が流れ、慶喜は「救国の王」と、持ち上げるものが増えた。
京都の朝廷側は、勿論、尊王攘夷派であったが、時の将軍家茂は、若年17歳で、おとなしい性格であった。 紆余曲折はあったが、慶喜が将軍の後見役の職におさまった。
外圧に威嚇を感じながら、日本の外交方針を決める必要があった。 慶喜は鎖国を守り抜く事が、不可能であると悟ったが、 反対分子も多い時節故、 手練手管を使わざるを得なかった。
強制的であったとは言え、一度結んだ条約を一方的に破棄すれば、 母国日本が、植民地化する恐れもあった。
隣国、清国の二の舞を避けるためにも、 いくつかの港を開放して、西洋が求める、商取引を認めざるを得ないと考えた。
表面には、周りの空気を読み、尊王攘夷論を展開、密かに開国の可能性を探り続けた。
この時期、農家生まれの渋沢栄一(1840年-1931年)が、開国派に加担するようになる。 日本の実業家として、生涯で500以上の事業の関わった。
この朗読特集の二回目は、2019年(平成30年1月1日)に放映された。 それをホノルルで、 同年5月末に聞いている。
最近、夏目漱石の作品を、いくつか続けざまに聞いたので、江戸時代末期から、明治時代の大変動期の歴史にも、興味を覚えた。
慶喜の実父、水戸藩の水戸斉昭は、正妻がよし子で、 子沢山であった。 当然、正妻以外にも、数人の女性と関わった。
正妻が、宮家出身であったので、 天皇家との繋がりが深かった。
当時、大名の子供達は、人質同然、江戸在住を余儀無くされていたが、 水戸藩の子供である彼の兄弟姉妹は、京都で生活できた。
しかし、 父親の強い方針で、慶喜は無骨な藩士のもとで育てられた。
慶喜が10歳の時、久しぶりに実家に帰ることを許されたが、 父親の躾は厳しかった。着るものも、絹はダメ、 麻か木綿だけを許した。
朝食前に、四書五経を学ばねばならなかった。 武芸の練習も厳しいものであった。
お灸を据えたり、座敷牢に入れたり、食事を与えない事さえあった。
1950年、小学低学年の頃、2歳上の兄も小学生、近所で悪戯をした事を、近所の人に告げ口され、祖父に土下座を強要され、ひどく叱られていた光景が浮かんだ。
「書は体を表す」と言う諺がある程で、運良く慶喜は、書道に特に秀でていた。


