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ドストエフスキーの「罪と罰」の朗読を聞き始めた。 数日かけて、はじめの7時間分を聞き終わった。
外は男性の心のように、コロコロと変わり、晴れたかと思うと雨。大雨かと思うと再度晴天。
朗読をじっくり聴きながら、外の天気の変化を見ているのも、楽しいものだ。
また、朗読を聞きながら、小さな部屋の掃除もしてしまえる。
朗読を聴く時間は長いので、ゆっくり、例えば、けんちん汁の下ごしらえの時間にも使う。
里芋の皮をゆっくり剥き、 ごぼうの皮を削ぎ、人参、大根、こんにゃくも切る。
主人公をはじめ登場人物は、貧しい人々が多い。貧乏人に、金を貸す老婆が登場する物語だ。
主人公は、色々悩み逡巡した上、 最後には下宿先の台所にあった斧で、金貸業の老婆を殺してしまう。
その殺人事件を隠そうとするが、最終的にはばれてしまい、好きになった女性と、シベリアに流刑となる。
人間の心の微妙な動きを、上手く表現し、極貧が長く続くことで、人間の心が折れてゆくということも、言いたかったのだろう。
ロシアの作家であるドストエフスキーは、登場人物の心情を、とても巧みに表現、英訳で聞いているが、本人の吐息が聞こえるほど、臨場感がある。
スタインベックの「怒りのぶどう」も、時代も国も違うとは言え、貧しい人々の心情を、良く表現している作品だ。
旱魃に襲われた、農業地帯の農民達が、止むに止まれず、噂に聞く、素晴らしいカリフォルニア州へ、脱出を企てるのだ。
幌馬車に、身の回りの物と家族を乗せて、死に物狂いで、荒野を何日もかけて通り過ぎ、 山越えもする。
老人や病人は、生き残れないような厳しい条件下でも、 幌馬車を進めざるをえなかった。
文字通り、死ぬか生きるかの決死の旅路であったのだ。
人間は頭の中で、常に思索をしているものだ。ロシア人の主人公も、例外ではない。 貧しさゆえもあり、孤独な生活を余儀なくされている内に 心の中に悪い考えが生まれてくる。
心の内に交錯する諸々の考え、独り言などを、微妙に上手く表現している。
「罪と罰」の主人公は、元学生で、金欠病に苦しみ、遂に退学に追い込まれる。
たまには、家庭教師のような仕事にありつくが、それとて収入は知れている。
インターネットの時代に生きていて良かった。お一人様になっても、全然退屈している暇もない。
世界の文学を、聴きたい時に聴ける。 ハワイの物価高ゆえ、必須条件である節約に関しては、長年経験を積んできたので、お手の物だ。
ユーチューブで、無料の朗読を聞くのも、節約になる。 お金を使うだけが、幸福の道ではない。
1986年頃、偶々通訳の仕事で、グラスノチ、ペレストロイカ等、ソ連の新しい時代を、世界中のジャーナリスト達に、肌身に感じてもらうという企画の、国際会議が開かれた。
10日程の短い旅であったが、生まれて初めての経験、意気揚々と、仕事用スーツを新調して参加した。
国際ホテルの側に、モスクワ川が流れていた。夜、一人でホテルを出て、モスクワ川にかかっている橋の真ん中に立ち、夜空を見上げると燦々と輝いている月が見えた。
「日本、アメリカ等で見た月と同じだ。」と、一人感慨無量であった。
ゴルバチョフ総書記の奥様である、ライザさんも出席する場面があった。 遠くからではあったが、ボルショイ劇場で、前列に着席した姿を垣間見た。
我々はボルショイバレー団の「白鳥の湖」を見た。
そう、あの由緒あるボルショイ劇場に入ったのです。 トルストイの小説「アンナカレーニナ」のアンナが、夫と観劇したと同じ劇場だと思う。
赤いビロードの分厚いカーテンを、お押し分けて、二階の貴賓室に、我々は入れていただけたのです。
「アンナ カレーニナ」の小説で、 アンナがこっそり、オペラグラスで、一階の中央の席に座っている、ウロンスキーと母親を見つめていた場面が、目に浮かんだ。
そんな関係もあり、今ゴルバチョフの伝記を読んでいる最中だ。 分厚い本なので、持ち歩きに不便なので、朝の内に、自分の部屋で音読している。
又、チヤイコフスキーの伝記の朗読も聴いている。 そして、ユーチューブで、チャイコフスキーの音楽も聴き入っていた。 ロシアという共通点で括って見ている。
こんな贅沢も可能な時代だ。 そのためには、好奇心が旺盛である事が必須条件だ。
今の所、運良く好奇心は泉のように湧き上がってくる。
ホノルルに越してきて良かった。 有り余る程時間があるが、インターネットのお陰で、退屈する事はない。
多種多様な事に、興味さえ無くさなければ、充実した時間を、過ごす事も可能な時代だ。
何という幸運。 小鳥の声が聞こえる。 真っ青な空。 波の音も聞こえる海辺の散歩道。 海風がサーと通り過ぎた。