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人生の醍醐味  142

Image by Olia Gozha

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若い頃、 なぜかロシア文学が好きになり、 トルストイの「アンナカレーニナ」、「戦争と平和」や、ドストエフスキーの「罪と罰」やプーシキンの「ユージン オネーギン」等を、日本語訳で読んだ。  


ある日の事、びっくりするような電話。 「会議通訳の仕事で、モスクワ行きだ」との事。


ちょうど、ソ連邦がグロスノスチ、ペレストロイカ等、改革解放ムードに流れ、ゴルバチョフ大統領時代、世界の新聞社の重鎮を、モスクワに呼び、新生ソ連を、世界に知らせようと、世界大会が開かれ、同時通訳の仕事が、回ってきたのだ。 これは1989年の出来事。  


ソ連から亡命して、ワシントンD.C.郊外に住んでいた、娘のバイオリンの先生に、レッスンが終わった後の雑談で、 「今度、通訳の仕事で、モスクワへ参ります。」と話すと、来週手渡すので、「ある物を、私の親戚に手渡してほしい」との事。  喜んで引き受ける私。


次の週、車で、バイオリンの先生のところへ、娘を連れて行った。 美しいバイオリンの音楽を、いつものように聴き、涙が出る程感動した。  


レッスン終了後、封筒に入った物を、私に手渡し、モスクワで会う、女性の名前を教えて下さった。  私は仕事中、滞在予定のホテル名を、先生に教えた。


ニューヨークから、フィンランドに飛び、フィンランドから、ソ連の航空機に乗り換え、モスクワ入りする予定だったのだ。


9時間以上の待ち時間があったので、フィンランドのヘルシンキまで、バスで行ってみた。  重々しい石造りの建物が並び、生まれて初めて、ヘルシンキの街並みを、歩き回ってみた。航空へ戻るバス停だけは、しっかり確認しておいた。


お腹が空いたので、 安そうな、中華料理店に入り、 なんとか焼きそばもどきを注文。  請求書を見てびっくり。 米ドルで28ドルも支払った。  


北欧の、揺り籠から墓場までの、社会主義的政策のためか、 高い昼食代だったが、 何せ生まれて初めて、フィンランドを歩いているだけで、心は躍動していた。


航空機出発時間より、2時間前には、無事、空港に戻り、ちょっと時代がかった、ソ連の航空機内の人となった。


翌日、赤の広場近くにある、国際ホテルのロビーで、若い女性を探した。 と言っても、初めて会う人で、顔も分からない。


ホテルのロビーは、人で溢れていた。  多分バイオリンの先生が、その親戚の人に、私の事を説明しているから、向こうから、声を掛けて来るだろうと、辺りを見回した。


30分程して、やっと若い女性が、私に近ずいてきた。  私はロシアが話せない。 先生の親戚の方は、英語がほとんどは話せない。 


でも合言葉のように、 両方が、先生の名前を言い、私は、彼女が先生の親戚の人だと確信、先生からの預かり物を手渡した。  


仕事は翌日から始まる。時差調整もあり、その日の午後は、予定がなかった。 マリアは「 何処か行きたいところは」と、片言の英語で聞いてきた。 即座に、「トルストイの家」と、答える私。


モスクワの市バスに乗り、トルストイがモスクワに来た時、滞在していたトルストイの家に行った。 


みしみし音を立てる廊下、奥でロシア語の会話が聞こえた。  歴史的建物として保存されていて、一般人にも見せてくれたのだ。


バイオリンの先生の、親戚の方と別れ、翌日からは、仕事に専念した。 運良く、仕事の合間に土曜日、日曜日が入っていた。 日曜日の午後からは会合があったが、1日半まるきり自由時間だった。  


ロシア語で、赤の広場と、紙にそのまま写した。安心して、赤の広場地下鉄駅の階段を、降りて行った。 


開放化の兆しが、見え始めたとはいえ、 ソ連はまだ共産国、自由資本主義本家本元の、アメリカの首都から、仕事の為出張していたが、自由に地下鉄を乗り回して良いのかと、ちょっと気にかかったが、 47歳の私は、好奇心の塊で、ソ連の地下鉄のプラットホームに、降り立った。 


突然の文盲で、 ロシア語の読めない私は、どこ行きの電車であるかも分からない。  ロシア語で、そのまま写した「赤の広場」と言う紙だけは、しっかりバックの中に、入れてある事を確認した。


地下鉄のプラットホームは、とても上品な雰囲気であった。1935年から、ソ連の市民が利用している地下鉄。  私は勇敢にも、行き先もわからないまま、やって来た地下鉄に乗った。  


数駅乗り越して、適当な所で降りて、階段を上り地上に出た。  どんよりと曇った空。私は歩行者の後をついて行った。  


小児科医院の中に、その人は入っていた。  各部屋の入り口に、部屋の目的を、簡潔に示す絵があった。 絵のお陰で、小児科医院の待合室に、自分がいる事が分かった。


そっとその待合室を出て、しばらく真っ直ぐ歩いた。  地下鉄駅を、見失う事が無い範囲で歩いた。 歩道の向かい側にお店らしい。


珍しさにつられて近づいた。 やはり壁の上に絵が出ている。コップ、お皿、鍋、薬缶と言った具合。雑貨屋さんだった。  


店員さんに、品物を見せて貰う形式で、直接商品には触れられない。客数は少なく、展示されている商品も多くはなかった。  


ーーーーーーーー


また、歩道を歩いている人の、後についていた。数時間前、雨が降ったのか、道はぬかるみ。その人は、12階建の建物群の一つに向かって、歩き続けた。 まさか、アパートの中まではついていけないので、私は踵を返し、もときた道を歩き続けた。


歩道の隅で人の集り。  興味を引かれ近づいてみた。  美味しそうな香り。そう俄仕立ての、自家製パン屋さん。 


ロシア語は全然分からないが、 見様見真似で、私もそのパンを買った。


私は「これほど美味しいパンは、今まで食べた事が無い」と、思うほど美味しかった。  共産主義社会にも関わらず、少し小売店の自由化が、始まったのかもしれない。             




 



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