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海風を体に受けながら、木陰で、作文を書くのも悪くない。 高校時代、読書感想文コンクールで、毎日新聞社賞を、受賞した経験もあったが、 文章を書く事を、長年疎かにしてきた。
一番エネルギーのある朝、自分用の料理を作る。 献立も出来るだけ、健康維持を意識して、根菜類、緑の野菜、魚、にんにく、生姜などを利用する。
野菜を洗ったり切ったり、料理する間、
オーディブル(Audible)を通して、英語版朗読を聞く。
長年、アメリカ人と偶然結婚していた為、毎日、英語で会話をしてきた上、 英語を操る仕事に、長年従事してきた関係もあり、折角取得した英語力を、急速には、失いたくないと言う気持ちから、英語で行われる講演、朗読を、意識的に選択したのだ。
今は、クラウド アンダーソン(Claud Anderson)の「答えが分かった」(“We’ve got Answers ”)を聴いている。
米国の人種問題を取り上げており、多くの専門家、弁護士、政治家、有識者、大学教授等とのインタビュー形式の作品だ。
偶然、ニューイングランド出身の、白人と結婚した関係か、知らぬ間に、白人の価値観で、黒人をみていた可能性も、完全には否定出来ないことを悟った。
自分からこの問題を 客観的に学ぼうとする努力が、全然足りなかった事も、痛切に感じた。
高齢化にも利点が多い。 若い頃の様に、 生活の為、我武者羅に働く必要は無い。 のんびりと知らなかった事を、じっくり学べる時間だけは十二分に有る。
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1970年、私は初めてアメリカの土を踏んだ。 結婚後一年で、米国に住居を変えたのだ。 カリフォルニア州サンディエゴでのアパート生活。
五ヶ月後、娘が誕生。 南カリフォルニアは温暖な地方で、自宅の裏庭にプールがある家も多い。
娘が1歳の頃、YMCAプールで、幼児水泳教室に参加した。 サンディエゴに住み始めて数ヶ月で、銀行からお金を借りて、小さな住宅を購入した。 隣の家の裏庭にプールがあった。
水泳ぐらい出来ないと、水の事故に出遭うと大変と思い、幼児用水泳教室に参加させたのだ。
そこで、偶然、同じクラスのブレントと我が娘、ブレントの母親と私が友達になり、たまたま家も近く、お互の家に遊びに行くようになった。 ママ友だ。
ブレントの家の裏庭には、立派なプールがあった。 ブレントの母親はアリスで、年齢も私に近く30歳。 アリスはアフリカ系アメリカ人だ。
私はまだサンディエゴに住み始めて2年弱。 日本時代、青山女子短期大学英文科卒で、中学の英語教師の経験もあったし、外資系企業でバイリンガル秘書も経験したが、まだまだ英語力は十分では無く、アメリカ生活初めてだったので、アリスの優しさはとても嬉しかった。
それから一年も経たないある日、アリスが、我が家に顔色を変えて、やってきて、「私達離婚するの」と言った。
寝耳に水で、私はびっくり仰天。 私の目には幸せそうに写っていた、3歳の可愛い子供のいる家族が、散り散りばらばらになると言う。
1970年代は、アメリカで離婚が急速に増えていた。 アリスの場合は、運良く、すでに看護士の免許を持っていたので、直ぐに就職はできる。
当時の私は結婚すれば、三食昼寝付きと言われていた主婦業に、安心し過ぎていたが、 私と夫が万が一離婚すれば、英語も覚束ない私が、「小さな子供を抱えて、どうしてアメリカで生きてゆけば良いのだろう」と、考え込んでしまった。
私は州立大学に入り、まず、四年制大学卒業者になる、決心をした。 車の運転もした事が無い私。 高速道路を飛ばして、大学に通わなければならない。
移民が多く、車社会であるアメリカでは、成人自動車講習会も、安い値段で受けられた。 運転試験に、二度目にやっと受かり、夫はモーターバイクを購入、それで新聞社に通い始めた。
我が家の中古車で、オタオタと自分で運転、3歳の娘、おしめ鞄、大学の教科書等を車に入れ、心臓をドキドキさせながら、高速道路を車で走った。
運良く、当時のカリフォルニア州立大学は、授業料がめちゃくちゃ安かった。 現代とは雲泥の差だ。
その上、離婚社会の関係か、大学構内に、託児所まで設置されていて、安い値段で、子供を授業中預かってくれた。 我々母親大学生も、授業の合間に、託児所の仕事を手伝った。
大学の専攻は、アジア研究を選択した。 日本の短大では、英米文学を学んだが、 米国の大学では、アジア出身で、アメリカ人より少しはアジアの事情、歴史等を知っているので、「戦いやすい」と思い、選んだのだ。
アジア研究を選択すれば、太平洋戦争は、当然、避けて通れ無い。 1941年12月7日、日本が真珠湾攻撃を行い、アメリカも参戦に踏みきった。
第二世界戦争に関する授業中、英語力不足にも関わらず、思わず手を挙げて、日本を防御する意見を述べてしまった。
大学生活の始めは、日本風におとなしくしていた。 出すべきレポートなどの期日は、きちんと守ったし、試験前はしっかり勉強もした。
でも、教授は私に「B」と言う成績を出した。 筆記試験は98点、レポートも良い成績。
私は教授室に行き、何故私の成績が「B」なのかと質問した。 その教授曰く、「君はクラスで殆ど質問もしなかった。」
それから、私は、どのクラスでも前の席にすわり、教授のクラスに近ずく足音に耳を澄まし、手を挙げる準備をした。
先頭を切って質問する事で、授業の方向さえ変更させる可能性があった。一度他の学生が質問すると、授業の流れが変わり、質問の機会を逸して仕舞う、場合が多かったからだ。
四年制大学卒業のため、 どの学生も取らねばならない、必須科目が幾つかあった。 青短の単位は、ほぼ認めて貰えたので、 大学3年生に編入できたが、 生物学、米国史、数学は、夏季講習で集中的に、一年分の単位を取得できた。
同学年の学生で、多くの学生が数学の授業中、割と単純な質問をしたので、私は少し自信を持つ事ができた。
他の学生に比べて、英語の会話力、読解力等では、相当の遅れをとっていたが、 数学に関しっては、ちょっと私の方が、余裕があったのだ。
生物学だけは、完全にお手上げだった。 遺伝子組み換え、二重螺旋、細胞内のミトコンドリアなど、概念も全然分からない。
運の良い事に、アメリカ人の夫は、大学時代、生物学を専攻したので、基本的生物学は、簡単に教える事ができた。
我が家の中に、家庭教師がいたのだ。 図を書いて、夫は優しく、遺伝子組み換え等の、説明をしてくれた。
日本で英文科短大卒とは言え、生物学を英語で学んだ事も無かった。 一行目から、知らない単語のオンパレード。
でも、私にとって、 大学教養程度であれ、生物学は面白かった。 私の知らない事象ばかり。 でも、ご安心。 こちとらは、無料家庭教師付きと来ている。
現代中国史も面白かった。 何せ、日本では自国の日本史は、興味深く学んだが、 現代中国史は、元英文科の人間には、知らない事だらけ。
しかも、日本は侵略者。 教授は中国系の年配者で、英語の中国風アクセントが多すぎて、理解するのに四苦八苦。 でも、内容はとても興味深く、熱心に授業に聴き入った。


