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5月5日はこどもの日。 日本では、鯉登りを,’風に靡かせる家庭が多い。 伝統的催し物なのだ。 3月3日は、お雛様を飾る雛祭り。
5月の鯉登りは、急流に逆らっても、川をのぼる勇敢な鯉のように、「男の子が元気に育つように」との、親の願いがこもっている。
でも、今は21世紀。 女子も、川の流れに逆らっても、上流へ上流へと、強く泳ぎ続ける鯉のように、なれると良いのだが。
当然の事ながら、長い長い伝統文化を守りながら、我々は次世代に、その伝統を受け継ぐ努力をしてきた。
しかし、知らぬ間に、時代遅れの考え方も、次世代へ、バトンタッチしてしまう可能性も大きい。
例えば、昔の事であるが、私の父は、私が高卒後、大学進学を希望した事を、大反対した。
御丁寧にも、私が通っていた、高校の職員室に出向いて、 受験用の補習授業から、私を外すよう強く談判した。 「女は、大学教育等不必要」と。
勿論、これは大昔の話。 1960年の事だ。 流石に、現在は、日本も進化、女子が大学卒業する事も、珍しくなくなった。むしろ、男子より、女性の大卒が増えたとも聞く。
とはいえ、見えないところに、まだまだ男尊女卑的考えが、人々の心の奥に、隠れているような気がする。
アメリカに1970年に引越し、州立大学で
学び無事卒業した。 アメリカ人の夫が、「君も収入の入る仕事をしてほしい。」の一言で、まずは英語力強化のためにも、母親大学生になった。
30代後半から、同時通訳の仕事をしていた事が、我が家を救った。
私の仕事は通訳で、非正規雇用の典型であったが、 正規社員に比べ、働く日数は少なくてすみ、 しかも収入はまあまあだった。
世界中を飛び回る仕事だった。 南アフリカのケープタウンにも、出張で出かけた。 仕事中は、海に面した豪華なホテルの中。 世界中から、代表者達が集まり、 総会、分科会と、忙しくブースの中で働いた。
仕事の無い日には、 一人で市バスに乗り、南アフリカ人が実際に住んでいる、隣村のタウンシップ」と、言われる住区に行った。
人種隔離生活が終わって間もない時期で、1996年に、私はケープタウンの町を、歩き回った。
1994年、法的に、人種隔離政策は廃止されたが、現実に、黒人が住むタウンシップに行くと、道路は舗装されていない、住宅は手作りの俄仕立て、黒人のための小学校さえ、これから作ると言う。とても貧しい生活である事は、見え見えであったが、 住民は 明るい。
同じ人間でありながら、白人の子供は、当然の事のように、学校に通い、黒人は長い間、学校にさえ行けなかった。 政策的に、黒人を文盲にしておく事で、現状の政策に、抗議する知識さえ無かったのだ。
これから、「黒人が通う小学校を建設する。」と言うのだから、 子供達が少なくとも高等学校卒業するまで、20年は掛かる。
仕事で泊まったホテルは、何ら先進国のそれと引け劣らない。 国際会議が開かれる場所だけに、五つ星の、豪華絢爛たるホテルだった。
あまりの格差に、私は言葉も無かった。 日本のように98%、単純に単一民族であると国の統治は、正常に稼働し易い。
アフリカ大陸の中でも、白人が権力を牛耳り、黒人を安い肉体労働力とし駆使して、良心の咎めも無かったのだろうか。
とは言え、私の父方の祖母は文盲だった。 明治の始めに生まれた祖母は、学校にも行った事が無かったのだ。
祖父は、毎日奥座敷で正座して、和紙閉じの書物を読んでいた。 江戸時代、明治のはじめも、男子は寺子屋か何処かで、読み書き算盤を学んでいた。 男尊女卑の典型だ。
文字こそ読めなかったが、 祖母は家事一切、何でも良くできる人であった。
一家の一年分の梅干しを、自分で作った。梅干し作りに必要な紫蘇も、自宅の菜園で育てた。
白菜と大根は、近所の農家からまとめて購入、一年分のお漬物を、大きな樽と、重い重石用石を使い、お漬物を作った。 大豆を茹で、 他の材料を混ぜ、味噌も自家製だった。
家中のお掃除も行き届いていたし、 とうもろこし、ニラ、枝豆、さやえんどう、 ねぎ、茄子なども、自宅の庭で、草取りをしながら育てた。
仙台市南小泉にあった、祖父母の家には、イチジクの木、柿の木、梨の木と胡桃の木もあった。
柿の木は渋い豆柿であったが、 秋には縁側に座り、丁重に皮を剥いて、干し柿を作ってくれた。
野菜類ばかりではなく、芍薬、牡丹、あやめ、ダリア、薔薇、菊の花なども、大切に育てていた。
長男である、私の父の嫁(私の母)が病死したようだ。 敗戦色の濃い、当時の事、結核菌に侵されていたのかも知れぬ。
私が小学生2、3、4、5年生の時、そして、兄が4、5、6年生と、中学一年生の時、我々を四年間程育ててくださった。
文字が読めない事だけで、人を判断する事は、大きな誤ちを犯す。 祖母が良い例だ。
南アフリカの黒人達も、 政府の政策のため、文盲であったが、タウンシップで、他の人の為になる仕事をした、立派な人々も、多かったに違いない。