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我が人生は、英語ときってもきれない関係がある。 高校時代、英語の面白さに目覚め、真剣に英語の勉強を始めた。
大学受験に失敗、1961年、東京に住む父方の叔母の勧めで、東京YMCA英語学校に、叔母の家から通いはじめた。 授業料も出して貰ったし、ただで泊めてもらい、食事も食べさせていただいた。
高校の制服と、セーターぐらいしか無い、私のため、叔母は布地を購入、仕立て屋さんに連れてゆき、 ワンピースと、女性用上下の洋服を、作ってくださった。
高卒の18歳、当時は、女子高生のアルバイトも、禁止されていた関係もあり、一文無しの私は、全て、叔母の慈悲に、頼ってしまった。
宮城県立第三女子高校生の時、 東北大学を受験、見事に落ちてしまった。
明治生まれの父は、古い考えの人で、「女性は大学へなど行く必要無し」の、一点張り。 なんとか東北大学は、自宅から通える上、 国立大学なので、授業料も安く、 その学校の受験のみ、渋々許してくれたのだ。
試験に失敗後、行き場を失った私を心配して、大田区蓮沼で小さな医院を開業していた叔母が、助け舟を出してくれたのだ。
朝から夕方まで、英語三昧の、専門学校生になった。 同級生の一人は、モーターバイクで学校に通い、時々、私を後ろに乗せてくれた。神田近郊を走り回った。ちょっとした私の青春だった。
また他の同級生は、 楽しい未来の話を、
目を輝かせて話してくれた。 彼の夢は、「六人も子供のいる家庭を築きたい」と、言う。
「そんなにたくさん、子供を産めない」と声には出さないで、心の中で囁いた。
一年半の、英語学校生活は終わり、ジャパンタイムズの新聞広告で、東京の都心部にあった、米軍の将校会館内の、バイリンガルウエイトレスとして、採用された。 寄宿舎がついている点が、気に入ったのだ。
敷金前金等、払えるはずも無い、一文無しの私には、 寄宿舎付きは、魅力的であった。
YMCA 英語学校は、キリスト教系の学校で、生まれてはじめて、キリスト教の御説教を、学校内で聞いた。 自由参加であったが、物珍しく、朝10時の礼拝に、殆どかかさず、参加していた。
本屋さんで、聖書を購入した。 ウエイトレスをしている内に、「身を持ち崩すまい。」と言う、私なりの決心で、 毎日、聖書を紐解き、 「道を誤るまい。」と、心に誓ったのだ。
お金がないので、しばらく、寄宿舎生活をしながら、女給として働いて、「お金を貯めよう。」と、単純に考えたのだ。
その大食堂は、将校の家族も食事をする場所で、結果的に、大勢の多種多様なアメリカ人と、接する事になり、 良い英会話練習場でもあった。
数ヶ月達、やっと仕事に慣れ始めた頃、 父が、宮城県仙台市から急に上京、私に内緒で、職場の人事課に直接怒鳴り込み、 私の許可も無く、勝手に仕事を取り上げてしまった。
強制的に、父は私を、仙台に連れ帰った。 地元の新聞である、河北新報の広告を見て、 宮城野球場近くにあった、日通に採用された。
総務課の、係長付け事務職員になった。 仕事量は少なく、真面目に仕事をしてしまうと、一月に10日以内に、与えられた仕事は終わってしまう。 あとはお茶汲み、机の上の整理整頓、電話の受け答え、ゼロックスを使う位だった。
課長、二人の係長が直ぐ近くにいたが、退屈のあまり、 アメリカ文化センターで借りた原書を、こっそり読み耽ったり、 近くにあった、公園のブランコに乗ったり。
毎月少なくても、月給が入る事は嬉しく、 仕事が終わると、「ベルと共に去りぬ」と言う、渾名をもらいながらも、ユネスコ会館で開かれている、英会話教室に通った。
東北大学、白百合学園、宮城学院大学等、夜間英語教室の学生は、大学生が多かった。 私のような社会人もいた。
その教室に通う前に、東京で一年半程英語を勉強した私は、クラスでも、英語は出来る方であったが、悲しいかな、わたしには専門分野が無かった。 理学部、歴史学部、経済学部、教育学部等、大学生は専門分野を、当然持っていた。
一年後、 クラスメートの中には、大学卒業者もいて、 就職で上京する人もいた。
フランスの女性、シモーヌ ボバール夫人の「第二の性」を日本語の翻訳で読み、「女性も大学教育を受けるべき」と、考えていた私は、英語クラスの級友にも刺激され、再度、東京へ行く決心をした。
父が反対する事は、明らかだったので、事務職で貯めたお金を元手に、夜逃げ同然、再度、東京に住む叔母の家に、転がり込んだ。
運良く、大学受験の、願書申し込みきりきりの時期であり、叔父が急遽、青山に出向いて、願書の書類を手に入れてくれた。
叔母達は、受験して落ちれば、「諦めて、仙台に帰るだろう」と、鷹を括っていたが、 偶然、試験結果は合格。
1963年の4月、晴れて、青山女子短期大学生になった。 私立短大であるから、入学金も高かったが、開業医をしていた叔母は、文句も言わず、入学金、授業料、教科書代等全てを、出してくださった。
卒業後、1965年、千葉県館山市第二中学の、新米英語教師として、赴任した。 授業開始と指定された日、私はスーツケース一つで、職員室に顔を出した。
校長は慌てて、小使さんに、宿泊先を探すよう指令を出した。
金欠病の私は権利金、敷金等の必要なアパートは借りられない。 運良く、小使さんの機転で、学校の裏側近くに、元教育委員の未亡人が一人で、一軒家に住んでいたので、そこの部屋を借りる事になった。
新米教師も、一年ほど教えている内に、 教師らしい体裁も少しでき、鏡湾のある館山市内での生活も、板につき始めた。
所が、翌年の4月、勤務先が変わり、三芳村立三芳中学の英語教師になった。教育委員会の命令で、館山市立中学教師で満足していたが、転勤命に、順わざるを得なかった。
市立中学より、とてもサイズの小さな中学校ではあった。村立中学での生活に慣れた9ヶ月目、校長曰く、「隣村の小学校に、今から直ぐ行くように」、との事。 同僚の車で送ってもらい、私は小学6年生の担任になった。
受け持ちだった先生が、早朝、学校へ向かう途中、バイクが電信柱に激突、急死してしまったのだ。
寒い一月の朝、 夜半の雨が凍り、バイクがスリップ、運悪く打ちどころが悪く即死。
中学の英語を、2年弱しか教えた経験の無い私が、卒業数ヶ月前の、小学6年生達のクラス担任に、任命されてしまった。
小学校では、先生は各教科全部を教える。 中学のように、先生の仕事が専門化ていない。
国語、算数、社会は何とか教えられるが、 理科はお手上げ。 他の先生に代わっていただいた。 音楽、体育も教えなければならない。
急に担任の先生が死亡してしまい、悲しみにくれている6年生。 中学生になれば、英語を学ぶので、基本的な英語も少し教え始めた。 生徒は大喜び。 子供達は、好奇心が旺盛なのだ。
その小学校では、毎年6年生が卒業の時、演劇を披露する。小学校校長の説明に、 急いで図書室に行き、 6年生に適した演劇を選択した。
クラスの生徒数24人。役者は7人。後の生徒は、音響係、大道具係、小道具係、総監督といろいろな役割を考え、全員が、なんらかの形で参加できるよう、工夫した。
役者さんは、暗記力の有る生徒を選び、総監督には、クラスの一番の腕白坊主を、指名した。
まだ当時は、 「仰げば 尊し」と「ホタルの光」を歌う事になっていた。
元々、高校時代、英語学校時代、短大時代、それぞれの合唱部員であったので、卒業の歌も、二部合唱をする事にした。
授業時間は、音楽を教えた後直ぐ、トイレで(田舎の学校で、着替え室はなかった)トレパンに履き替え、 笛を吹きながら、校庭中を生徒と走った。
何とか無事、小学校の卒業式を終え、その4月から、元の中学に英語教師として勤務した。
今度は中学一年生B組の担任に任命された。 初めて英語を学ぶ、中学一年生の英語クラスは、教える側も楽しかった。
でも、一学期、二学期と時が過ぎるにつけ、 文部省(今の文科省)の推薦する速度で、英語を教えていると、落伍する生徒が、どんどん増えている事に、気がついた。
新米教師は、文部省の指導要領通り、教科書を進めざるを得ず、 矛盾を感じ続けた。
課外活動の一環として、村立中学に、英会話クラブを作り、英語の好きそうな生徒が集まった。
クラブは 正規の授業と違い、自由度がより高い。 クラブ員達と校庭に出て、山を指差し、「mountain」、川を指差し、「river」、空を見上げて、「sky」雲を指差し、「clouds 」風を皮膚で感じると「wind」と大声で発音した。
中学校の直ぐ近くに、小川が流れていたので、クラブ員を2組に分け、川岸の両側に分かれて立たせ、 右から順番に大声で、英単語を発音させ、川向こうの生徒が、それを聞き取り、大声で同じ単語を発声させた。 ゲーム形式であり、聞こえないと、ゲームが続かない。
段々、生徒達は大声で、単語を発音するようになった。 また、スピーチコンテストとまではゆかないが、 短い文章を暗記させ、クラブ員の前で大きな声で、発表させた
アナウンサーの卵が練習するような、口の周りの筋肉の運動も取り入れた。「ういあ ういあ」と、何度も口の周りの筋肉を意識して、初めはゆっくり、徐々にスピードを上げていった。「オエ、オエ」も然り。
数ヶ月後、館山市とその近郊の、中学スピーチコンテストもどきが開かれ、 普段から大声で、英語を発音する事に慣れていた我が中学英語クラブ員が、地域で一位に入賞、県大会出場権を手に入れた。
村立中学初めての大賞。 校長は予算を組み、付き添いの教師である私と、英語クラブ員全員と、もう一人の男先生が、護衛の為付き添う、費用を出した。 千葉大学で、 千葉県英語スピーチコンテストが、開催された。
房総半島の館山市から、電車で千葉市まで出向いた。 全県大会のような、華やかな所に出た事のない、我が村立中学の生徒達。
市川市立中学校が、その年は優勝、我々は電車で都会に出た事、クラブ員全員で、遠足擬きを楽しんだ事で、十分満足だった。
数ヶ月後の午後、校長に偶然廊下で出会い、立ち話。 「金曜日の夜、我が家に遊びに来い」、との話。メモ帳に住所と電話番号、降りるバス停の名前も教わった。
何の事かわからなかったが、校長宅へ金曜日に出向いた。 古い日本建築であるが、 家の中は掃除が行き届いた、住み心地の良さそうな、住宅だった。
校長先生の奥様が、私のために鍋物を準備してくださった。
校長先生は、晩酌に日本酒をチビチビ飲みながら、たわいも無い話をしながら、夕食の鍋を囲んだ。
話は、学校の同僚であるK先生が、私に「結婚の申し込みをしたい」と、校長を通して、伝えて来たのだ。
数回、若手教師同志、喫茶店へ行ったり、ダンス場に行ったことはあったが、 同僚同志の親睦会としか、私は思わなかった。
千葉大学理学部卒業である男先生は、気に入った部類に入る方だが、 教師歴も浅い私は、仕事を覚えることに気が向き、 結婚はまだまだ先位にしか、考えていなかった。
その男先生の父親が、彼が大学卒業後病気で亡くなり、 母一人子一人になった彼は、東京での有名企業での就職を断念、母親の住む村の、中学校の理科教師に収まったと言う。
思いもよらない申し出に、私は悩み、 結果的にその中学を辞め、 東京に舞い戻った。
ジャパンタイムズと言う、英字新聞の広告を見て、運良くIBM アジアコーポレーションに入社、市場調査部長付バイリンガル秘書になった。
中学教師となんと言う違い。 お給料がまず約2倍プラス8ヶ月分のボーナス。年20日の有給休暇。人事課が、20日有給休暇を取ってないと、早く取るように勧めるくらいの違い。
渋谷の祐天寺駅近くに、下宿先を見つけて、東京での生活が始まった。直属の上司はアメリカ人で、アジア全体を統括している関係で、出張が多い。
その上司はたまたま優しい方で、 秘書らしい仕事も余りなかったので、 読書を許してくれた。
米国の企業は、社内の仕事分担がはっきり分かれていて、 私はあくまで、市場調査部長の、命令にだけ従えばよかった。
1968年頃は、安保闘争が吹き荒れていたが、 九段坂にあった、IBM社の入居しているビルの8階は、赤い絨毯も敷いてあり、のんびり読書しながら、 お給料を頂いていた。
偶に、英文タイプライターで、書類を作成した。 何度も打ち間違い、白インクで間違いをを消却した。 まだ、ワープロの出現前だった。また、日本人の顧客がお見えになると、通訳の真似事をした。
また、日本IBM社に、上司のお供をして出かけて、社内通訳の仕事をした。 電話の用件を上司に英語で伝えたり、上司の伝言を、日本人の方に日本語にして伝えた。
居心地の良い職場であったが、先輩の秘書である、お姉さん達をみていて、なんとなく悲しみと悲哀が、顔に出ているのを見て、長年、「この仕事をするべきではない。」と感じていた。
ひょんなことからから、 米国新聞社勤務の、アメリカ人男性に出会い、インタビューの通訳のお手伝いをした。
仕事が終わり、彼は米国東海岸に帰り、両親の家から地元の新聞社に通い、 時を見計らって、アパートを探す予定であった。
私は東京、彼は米国の東海岸。 もう会う可能性は無かったはずだが、 ある日、一枚の絵葉書が、我が下宿先に舞い込んだ。
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文通が一年ほど続き、彼はジャパンタイムズ社で仕事を得て、再度日本へ来た。
渋谷のカトリック教会で、結婚式を挙げ、渋谷の青山4丁目に、小さなアパートを借りた。
私は九段坂にあった、IBMアジアコーポレーションで働き、彼は田町にあったジャパンタイムズ社で働いた。 結婚後しばらくして、私は妊娠していることに気づいた。
仕事は続けていた。 産婦人科にも定期的に通った。 我々が住んでいたアパートは、二階にあり、二人の通勤には、とても便利な場所であったが、 私は急に、これから生まれてくる赤ちゃんの事を考え始めた。
小さな子供は、庭のある一戸建ての家で、のんびり成長させてあげたかった。 私自身、仙台の祖父母の家で、小学、中学、高校時代を過ごした。
茅葺きの古い、農家風の家であったが、祖母が家庭菜園を世話していて、新鮮な野菜類が食事の時でた。
大都会である渋谷のど真ん中で、 しかも、我らの二階の部屋の窓を開けると、常に渋滞している、高速道路のトラックの運転手の顔が、見れるような場所での、子育ては不適当と判断、急遽、 妊娠5ヶ月の安定期を利用して、アメリカに引っ越す事にした。
元々、「アメリカに住もうなどと、考えた事さえなかったが、「アメリカなら、庭付きの家を買えるよ」の、夫の一言に、決心をしてしまった。
勿論、初めは、東京で庭付きの家とも、瞬時考えたが、都内では不可能。
我々はハワイ経由で、米国本土のカリフォルニア州に到着。サンフランシスコ、 ロスアンジェルス、 サンディエゴと南下しながら、夫は新聞社に出向いた。 「1ヶ月後に空きが出来るかも」と、言った反応もあったが、若い我々には、1ヶ月も、ただのほほんと、待つ余裕はなかった。
サンデイエゴのイブニングトリビューン紙が、「来週の月曜日から」との事で、即決。 アパートを借り、アメリカ生活が始まった。
日本時代、英語学校で英語を勉強したり、青短の英文科を卒業した上、 中学校で英語教師をしたり、東京で外資系企業でバイリンガル秘書もした経験があったが、実際にアメリカに住むのは、生まれて初めての経験。
電話がかかってきても、英語が聞き取れない。タクシーに乗っても、運転手の英語が聞き取れない。 私が行先を英語で言っても、聞き取ってもらえない。


