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人生の醍醐味  86

Image by Olia Gozha

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まだ未熟な若い頃は、父を嫌っていた傾向があった。 そこには、子供なりの理由が沢山あった。


でも、長い人生の道のりを、ゆっくり歩み続けているうちに、父に対する考え方が、少しずつ変化していった。


「父こそが、私に最大の贈り物をしてくれたのだ。」と、80歳まで後三ヶ月になる私はやっと理解した。


私が中学生のある夏、 父の発案で、海辺の家に一ヶ月も住み、早朝から、波打ち際の砂浜を、心を躍らせながら、裸足で歩き回った。 


その時の幸せ感が、後押ししてくれて、 一人で住み慣れた米国の東海岸から、夫が病死後、引越して来た。


女子高生時代、ある夕方、新品のテニスラケットを父は私に買ってくれた。


眼鏡をかけ、本ばかり読んでいた私に、「少しは運動もした方が良いよ。」と言う、メセージを込めて、 ラケットの持ち手部分が、赤い皮で巻いてある、値段が高そうなラケットを購入してくれたのだ。


その時は、率直に課外活動であるテニスクラブ員になり、夏にはテニス合宿にも参加して、練習を重ね、秋にはダブルスにさえ参加した。


40代に入り、家庭生活も安定し、私の仕事も軌道に乗り始めていた。


とは言え、言葉を操る自由業であったから、主婦的に自宅にいる機会も多く、新聞社勤めの夫が、当時夜勤の為、午後から寝ていたので、「音を立てて起こしてはまずい」と思い、遊歩道の散歩を日課にしていた。


いつの間にか、軽い運動が習慣化していた。 これも、父がそっと間接的に、運動の大切さを、テニスラケットで教えてくれたからだ。


20歳の時、一月の始め頃、 父は大きな藍染の風呂敷包みを抱えて帰宅した。 1月15日の成人式用着物一式を買ってきたのだ。


父と私は無口な親子で、普段から無駄話をするような親子ではなかった。 捻くれていた私は、 無数の反抗ばかりしていた関係もあり、 父も呆れ返っていたのかも知れない。


生まれて初めて、正式の着物を着込み、専門の写真店で記念撮影をお願いした。 


勿論仙台市で開かれた成人式にも、心躍らせて参加した。


25歳の時、偶然米国の男性と知り合い、彼が帰国後、一年ほど文通を続けていた。 20歳の時取った着物姿の写真も彼に送った。


一年後、そのアメリカ人はジャパンタイムズ社に入社、マサチューセッツ州から日本に再度やって来た。


数ヶ月後、渋谷にある大きなカトリック教会で結婚式を挙げた。


父が買ってくれた着物も、 夫を見つけるために大きな役割を果たしてくれたようだ。


話は少しさかのぼるが、 二人で結婚することを約束したので、 当時、東京の郊外に小さな一軒家を借りて住んでいた父の家を、彼と訪れた。


アメリカ人のその男性には、「父は頑固親父で、アメリカ人との結婚に反対する可能性が高いが、こそこそと隠れて結婚したくないので、 報告を兼ねて紹介したい。」と、前もって説明しておいた。


約束の日、 父の家の玄関の戸を開けると、中から父が招き入れてくれた。 怒鳴られるわけでもなく、水をぶっかけられる訳でもなく、すんなり米人は畳の上でかしこまった。


小さな冷蔵庫からビールを出して勧め、将棋盤を出してきて、将棋の指し方を教え始めた。 


優しい顔の父親の側面を全面に出し、 私が入れ知恵した、頑固親父的側面を全然出さなかったのだ。


父も86歳になり、医者の診断で膵臓癌のため、入退院を繰り返していた。  米国から見舞いに来た私のため、寝巻きから外出着に着替え、革靴を履き、仙台市立病院の近くにあった、老舗の寿司屋に連れて行ってくれた。


その時、生まれて初めて、父と寿司屋に入った。

父曰く「何でも好きな鮨を注文して良いよ。」


大食いであるさすがの私も、その時はすっかり食欲を失くしていた。  医者から「父の余命が数ヶ月」と言う、説明を聞いたばかりだったのだ。


私が2歳になる前に亡くなった母が、どんな人であったか、子供の時から何時も聞きたいと思いながら、口に出せないでいた私は、折角の二人きりの時間にもかかわらず、言い出せなかった。


高齢化して、夫を亡くした私が、 それでも割と前向きに生きていられるのは、 父の隠れた暖かさを、今頃身に染みて感じられるからだ。





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