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夫が66歳、 退職後の事。 カリフォルニア州での通訳業務が入った。
もう、認知症の夫を一人で家に残しておくのは危険だと判断、専門家に相談して、然るべきところから、 一時的に病人を世話してくださる、看護助手の方々を雇った。
1日24時間、一人一回の勤務時間は8時間。泊まり込みの出張だったので、 1日に3人雇わなければならなかった。
通訳業務で入る収入よりも多額の出費で、仕事をする事で赤字になったが、自由業の通訳は、どんな理由にせよ断ると、段々仕事量が減少してしまう。
長い目で見て、仕事を長く継続するための、少々の犠牲も覚悟した。
航空機が離陸した。 身体が急に軽くなったような気持ちがした。 認知症のお相手は、世話人にも、ひどいストレスになっているのだ。
一時的にせよ、 それから解放され、 航空機の窓から青い空を見続けた。
今までは通訳業務が、ストレスだと思っていたが、 自宅で病人の夫を世話するのは、それ以上のストレスが、身体に絶えずかかっていたと気がついた。
夫が施設に入居してからも、必死で、通訳業務に携わった。 預金通帳の数字が確実に減っているので、 このままだと、 自宅を売るのも時間の問題だった。 その半分は夫の療養費に、瞬く間に消えるだろう。
「ホームレスになる覚悟も必要だ」と、感じ始めていた。 その点でも、 ワシントンD.C.郊外より、暖かいハワイの方がましなようだ。
そんな時期に、夫が施設内で転んで、 運悪く骨折入院となった。 メディケア(米国の高齢者医療保険)は、病状により入院日数にも限度がある。
限度を超えると、自費診療になる。 米国で、自費診療を受けると、医療破産が現実性を帯びる。
夫の場合は、 限度内で退院、機能回復運動等リハビリは21日まで、メディケアが使える。病院ではなく、リハビリ専門施設に入院する。
万が一、21日以上滞在すると、恐ろしいかな、それは自費なのだ。 と言って、リハビリの中途で、元の施設に帰ろうとすると、「以前以上に手が掛かり、人手不足で対応できない。」と、追い出される。
今回、夫のリハビリは21日で済んだ。 元のインド系アメリカ人経営の施設に帰った。
10か月以内に、再度骨折すると、入院費もリハビリ費用も自費だと言う。
夫がそれから、10か月間、転んで骨折をしないよう、世界中の全ての神仏に、祈るような気持ちだった。
運良く10か月以内に、夫は骨折をしなかった。1年3か月目に、再度転倒骨折入院後、リハビリのお世話にもなった。
ハラハラドキドキしながら、仕事が入ると、夢中で飛び回った。 我が家沈没の可能性がチラついていた。
いつの間にか、逆境に強くなっていた我が人生に、この時程感謝した事はなかった。