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ホノルルで初めてサーカスを見に行った。 前半が終わったが、 動物は出てこなかった。 まだ、綱渡りも、空中ブランコも無い。
私がイメージしていた、古いタイプのサーカスではなさそうだ。 やたらとモーターバイクを使った演技が多く、屋内が排気ガスの臭いで充満した。
サーカスが始まる前に、子供達の顔に特別の化粧をしてくれていた。 親が何某かの金額を払うのだ。 光り物のおもちゃ、例えば剣の形をした光り物なども、一つ25ドルで販売していた。
もう随分昔になるが、 米国の首都郊外であるメリーランド州ベセスダに住んでいた頃、 サーカスを見に行った事がある。 私がイメージしていた通りのサービスであった。
子供時代は戦後直後の日本だったので、 経済的余裕もなく、 親に連れられてサーカスに行ったことはなかった。
25歳の時、 偶然アメリカ人の記者と渋谷で出会い、 彼はデートに誘ってくれた。 夜8時から始まる、訪日中の世界的に有名なサーカス団の切符を二枚、彼は買ってきていた。
当時、 金欠病に苦しんでいた、しがない女子事務職員であった私は、親元から職場に通っていた。
自立するほど金銭的に余裕がなかった。 もちろん、生まれて初めてのサーカスを25歳の私は、喉から手が出るほど見たかった。
けれども 明治生まれの父親は、長女の私に厳しく、門限は夜の9時だった。
当時、親達は東京の郊外に住んでいたが、 夜8時から始まるサーカスを見てから帰れば、 絶対に門限には間に合わない。
本心は行きたかったが、家から追い出されるのが怖くて、サーカス行きを断った。
折角高いお金を払って、二枚切符を手に入れた彼も、心外だったに違いない。 当時の英語力では、私も心を込めた断り方も出来なかった。
彼は私の目の前で、その切符を破ってしまった。
私と行くためにだけ買ったのだった。
次回のデートで、朝から夕方まで遊園地に出かけた。 「夜はだめだ」と理解してくれたようだ。
まだ現役の仕事をしていた頃、フロリダでの仕事が回ってきた。 サーカス団員用の教育機関だった。 ピエロになる為の訓練や、綱渡りや高い天井から吊るした空中ブランコ乗りの練習場であった。
私が通訳として訪問した時は、教養として一般人も募集、心の苦しみをたとえ抱えていても、ピエロになったつもりで、 観客を喜ばせる演技の練習に集中している内に、自分の悩みが幾分軽くなる場合もあるようだ。 興味本位で参加している人も多い。
人生も所詮サーカスとあまり変わらない。 危険に挑み、恐れる気持ちを克服しながら、 他者の喜びを目的に、身の危険を犯してまで、練習に励むのだ。
今回のサーカス見学で感じたのは、 商業主義が全面に出ていた事だ。 始まる前、中休みの時間を利用して、映画館同様、ポップコーン、綿飴、アイスクリームなどを必死で売っていた。
サーカス団員の数も限られていて、 一人で数役こなす場合が多かった。
コロナ蔓延の2年間は公演もできず、 されども、未来のために、実力は磨き続けなければならなかったサーカス団員達の苦労は、大変だっただろうと思う。
サーカス見学者は、若い夫婦と子供達が多かった。 見たところ、高齢者の見学者はほとんど見つからなかった。


