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人生の醍醐味  76

Image by Olia Gozha

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若い頃は、当然長い人生が延々と前に連なっているので、 じっくりと長期計画を練るのが、賢明な考え方だろうと思う。


一方、 70代後半に突入した高齢者には、長寿化が加速しているという現実があるにせよ、短期計画を何度も練り直す事が、より現実的なのかもしれない。


今日一日だけの予定を考え、予定通りに出来たら万々歳という所だ。


調子の良い時は、一週間位の計画を、事前に作るのは良いが、 体調に合わせて、柔軟に変えられる余裕が必要だ。


今日は、自由になった土曜日を利用して、ドキュメンタリー映画を見る予定を立てた。 


イスラエル出身の、ユバル ハラリ教授の講演をユーチューブで聴き、 初歩のモーツァルト作曲の譜面を見ながら、ピアノ練習をした。 


海風が優しく背中をそっと撫でて行く。  海側である南側の窓を開け放しておいた。 


ホノルルのど真ん中に位置する小さな部屋。 最初はピアノ音の騒音を、近所迷惑になるのではと心配したが、 大きなスーパーマーケットの裏側に位置している関係か、 大型トラックが荷下ろしの為、良く出入りしていて、 バックアップする時など、大騒音の連続。


その上、そこへ、 救急車、パトカーがサイレンを鳴らして、通過する。 かと思うと、 若者がモーターバイクの騒音を最大限上げながら走り去る。 まるで、騒音のオーケストラ演奏。


少し弱めに設定した私のピアノ練習音などは、 蚊の鳴く程度の騒音貢献だと気付いた。


高校時代、我が家にはピアノなどという高級品は無かったので、 初歩的ピアノ曲の練習の為に、バスを乗り継いで、日曜日に高校に行き、日直の先生に音楽室の鍵を借り、自己流に下手な手付きで、ポロンポロンとピアノを弾いた。


複雑な家庭環境を忘れられる、その時間が好きであった。  


社会人になり、東京で下宿生活をしていた頃はピアノと縁が切れていた。


偶然、房総半島の館山近辺の中学で英語教師になった。 真冬に、ちかくの小学校の先生が、バイクで朝の通勤中、雪道の為スリップ、運悪く電信柱にぶつかり即死した。


そんな事件も知らず、 新米英語の教師である私は、 中学生に教科書通り英語を教えていた。 


教育委員会の命令であると、中学の校長は、まだ新米で受け持ちのクラスが無かった私を、 その小学校に転勤させた。


目を白黒させながら、 受け持ちの先生が、交通事故で急死した小学六年生の担任として、クラスの前にたった。  


小学校教師は、基本的に全科目を教える。英語しか教えていなかった私。 受け持ちの先生が急死したため、悲しそうな顔をした小学六年生の子供達。


国語、算数、社会は何とか、前日のにわか勉強で教えることができた。 トレパンに履き替え、体操の時間は生徒達と校庭を走った。


音楽の時間は、高校時代に自己流なりに、

少しピアノ練習をしておいたのが急に役立った。 


小学校6年生の単純化した伴奏も、前日放課後練習しておく事で、 何とか授業を進められた。 


理科だけは、お手上げで、 他の先生にお願いした。


やっと、私も生徒達も新しいい状況に慣れかけた時、校長の声。「卒業式の仰げば尊し、 蛍の光の伴奏の準備をしておけよ。 それから、この学校では、 毎年卒業演劇を披露する習わしだ。 6年生は学校、教師陣に感謝の気持ちを込めて演じて、5年生一同は送別の気持ちを演じる。演劇の内容は先生の自由裁量で。」


大慌てで、学校の小さな図書室に潜り込み、小学六年生に相応しい演劇を選択した。 初めての経験のオンパレードに四苦八苦する私。 冷や汗タラタラ。  


「どうせやるなら」と、覚悟を決める私。 登場人物は僅か7人。学級の生徒達は28人。ふと頭に思いがよぎる。 「全員、何らかの仕事を分担する事。」


音響効果係、大道具係、小道具係、舞台監督の総責任者など、 思いつくままメモに書き留めた。 


暗記力のありそうな、いわゆる勤勉な生徒は役者さん。力のありそうな運動好きの生徒は大道具係。 演劇全体の背景音楽選曲係は音楽が好きな生徒に当てた。


一番私の手を煩わせていた、難しい生徒を舞台の総監督に選ぶと、俄然、彼は張り切りだした。 


優等生が、 暗記した台詞を練習中、「声が小さいぞー」と、部屋の後ろから、大声で叫ぶ監督。


大道具係も張り切り、村の竹藪を切り取って来たり、バケツに水彩絵の具を溶かして、舞台の背景になる景色を、大々的に絵にした。 


いつのまにか、クラスの気持ちは一つになり、卒業式を楽しみにする気持ちさえ芽生えた。 


そうそう、俄かじたてのピアノ伴奏もしましたよ。 どうせ歌うのなら、「二重唱にするぞ」と欲張り、放課後練習に力を入れた。


私が高校時代、学校の合唱団に入っていたのが役にたった。


卒業式も無事終了、 お亡くなりになった先生のお墓に全員で、卒業報告を兼ねてお参りした。 


若い先生の奥様も、 背中に乳飲み子をおんぶして参加していた。それは、 晴れた寒い三月末の事であった。



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