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夏目漱石の「三四郎」を読み終わった。 日本文学の朗読を聞いていると、私の頭で、神経細胞が忙しく動き、さまざまな思い出が蘇った。
他国の小説を読む時は、 知らない国、行った事の無い国に対する好奇心が、 胸の中で沸き起こる。
人生最終回に近づき、自分の生まれ育った国を、じっくり再考するのも楽しいものだ。
また、 合計31年 実際に生活した、日本生活を思い出し、じっくり味わう良い機会だと思う。
小説の会話の中で、イタリアのベニスが話題に上ると、運良く数回訪れた事のある、ベニスを目に浮かべる。
話の中で、バイオリンも話題に上る。 明治23年の明治憲法発布以来、20年以上経った時の、帝国大学関係者や、その知り合いの話題に出てくる楽器だ。
私の娘も、偶然バイオリンを4歳から始め、今では、 20年以上、米国のある交響楽団員として働いている。
明治の後期には、 知識階級や上層階級の家族の中には、 子供にバイオリンを習わせる人々も、出始めていたのだ。
小説の中で、日本製バイオリンという話も出るが、 鈴木眞一先生の父親が創設した、鈴木バイオリン製作所に、関係あるかもしれない。
小説の主な舞台は、 明治後半で、当時の日本の情景として、若い男女が二人連れで、繁華街に出ることさえ少ない時代だった。
私が20歳の頃、偶然仙台の親元から、英語学校へ夜通っていた。
昼間は、しがない女子事務員として、生活費を稼ぎ、夜になると俄然目の色を変え、英会話の勉強に励んだ。
まだ、一般人が、英会話学校に押し寄せる時代ではなかった
「三四郎」の小説の中で、電報や電話の話も出る。
21世紀の我々が、当たり前に使っている携帯電話も、インターネットも夢想だにしなかった時代だったのだ。 時の流れと共に、 全てが大変化を遂げる。
登場人物達が、観劇に行く場面もある。 シェクスピアーの翻訳版「ハムレット」だ。
明治の知識人は、 西洋文明に強い興味を示したようだ。
私は、長年米国の東海岸に住んでいた関係、また、もともと演劇が好きであったので、 良くワシントンD.C.にある、シェクスピアー劇場に足を運んだ。
明治時代の人々も、外国への興味を深め、西洋の翻訳劇を観劇したのだろう
主人公の「三四郎」が風邪を引き、往診を頼む場面もあった。
たまたま、 父方の叔母は開業医で、 その家で学生時代居候をしていた時期があった。
真夜中でも、 病人の家族から電話がかかると、1960 年代も往診をしていた。
小説の中で、東京で開かれた絵画の展覧会に、三四郎や友人知人が、絵画鑑賞に出かける場面もあった。
西洋画の油絵の模写が多く展示されていたが、 日本にも洋画家が出始めて、 女性の人物画を展示するほど、絵の力をつけ始めていた。
母方の叔父は、 若い頃、大きな客船に乗りフランスに渡り、油絵を学んだ。
その叔父はすでになくなったが、 長野県の美術館に、彼の作品が展示されている。
叔父は画伯と呼ばれていた。 東京都の二子玉川園に叔父のアトリエ付き自宅があり、時々遊びに行った。
話の中で、西洋文明に関する議論が時々出てきた。 「自然派」だとか、「浪漫派」だとか。 日本の当時の熱気や息吹を感じた。
「三四郎」という小説の最後近くに、登場人物の女性の一人、みね子さんがキリスト教会に行く場面も描写されている。
この小説の中で、何度か「迷える羊(stray sheep)」 という英語が飛び出す。 宣教師が日本に住み、教化活動を広げ始めていた時期だろう。
東京の叔母は、 開業医をしながら、 患者の来ない合間に、ピアノの練習をしていた。
しかも、若い頃は、 時折、教会にも顔を出したそうだ。 ピアノの上に、 聖書と教会の賛美歌があった。
「三四郎」の朗読をじっくり聴いた。 明治以来一心に、日本が西洋化路線を走り始めた様子が、良く出ていた。
夏目漱石は、 ある意味で、 冷静かつ客観的に、日本の空気が変わりつつある様子を、書き留めたようだ。
私の人生も、 今振り返りと、その大きなながれに流されていた、一枚の枯れ葉に過ぎない。
でも、 それは、心を踊らせる冒険に満ちた、楽しい人生であった。