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日本文学朗読にすっかりはまった。 今度は、夏目漱石の「三四郎」を朝から一日中聞いていた。
熊本県出身の三四郎が、東京に出てくる汽車の中から、物語は始まる。 何度か日本に遊びに行ったとは言え、合計40年以上在米期間が長い私には、日本文学は新鮮だ。
時間が十二分にある事に感謝、 昨年の外出ばかりしていた生活様式と一変して、室内で、ユーチューブで朗読文学を聞くことに、集中している。
日露戦争が終わり、日本が一等国に仲間入りしたと、新聞が囃し立てていた時代、 三四郎は熊本の高校を卒業、大学受験にも成功、 東京帝国大学に入学するため、上京した。
汽車の窓から、初めて富士山を見る三四郎。私は宮城県出身なので、 九州の事は分からないが、 小説の中で、何度も九州人、熊本の人を指して「田舎者」という言葉が乱発されていたのには驚いた。
「田舎者」と言うのは、単純に東北人の事と思っていた。 時代は当然、私の場合、もっと三四郎より現代よりであるが、 私も初めて汽車に乗り、東京に出たのを良く覚えている。
第1回目は、中学時代の修学旅行であった。 私的旅行で、数回、仙台と東京を行き来したが、 特急、急行、鈍行と三種類の切符があり、一番安い鈍行(各駅停車)を私は利用した。
待ち合わせと称して、特急や急行が通り過ぎるまで、 鈍行はしばしば小さな駅で待っていた。
三四郎が、赤門をくぐり大学に入学したのは、「9月であった。」と、小説の中で描いている。
明治時代は、国を挙げて、西洋化路線をひた走りに進んだ日本。 当時は新学期も9月であったのだ。
東京帝国大学の教授陣も、 外国文学部は、全て西洋人だった。
大学生達も教授から学んだり、書物から西洋文明を齧り、 知識人である事を強調すると、 英語、フランス語、ドイツ語の単語や概念が、会話の中に飛び出した。
明治生まれの父方の叔母は、 東京女子医専に入学した。 叔母の家にお世話になっていた間、叔母が自分の若い頃の話をしてくれた。
教授はドイツから招聘したそうだ。 医学の授業も、ドイツ語であったとか。 江戸時代の次に始まった明治時代、明治の人々も、西洋化の波に流され、溺れまいと必死で力んだ事だろう。
とは言え、三四郎の時代、まだ、実際に、外国に留学した人は少なかった。 当然、一般市民の間には、西洋化の波はあまり押し寄せていなかった。
1970年、遅まきながら、やっと米国の地を踏んだ私は28歳だった。
その私が、78歳にて、やっと本格的老後の生活構築の為、オアフ島に住み着き、二年目に、何の運命か、 日本文学に浸ってる。
人間は何かに夢中になる事が大切だ。 それが生き甲斐になるからだ。 一年目は、 新しく住む事を決めたホノルルを、自分の目と体でしっかり知りたいと夢中で過ごした。
ふっと気が緩みかけた時、ユーチューブで日本文学朗読を発見、 人工知能が同情して、私に提示してくれたのかどうかは分からないが、 私の予定には無かった事であるが、 しばらくは日本文学を味わってみようと思う。
若い頃に、英米文学ばかり、辞書を引きながら、冷や汗を流しながら読んだものだった。
「三四郎」を読んでいても、地方出身の 日本女性の多くは、自分が食べて行くために、下女として、煮炊き洗濯掃除を専門にする住込みさんが多い。女性の地位がまだ低い時代だった。
三四郎はまだ熊本から東京へ出てきたばかりの大学一年生、全ての出会いが物珍しく新鮮だ。


