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彼が68歳になった秋、 夫は超小型養護施設である、インド人宅の住民になった。 私は専門家から頂いたアドバイス通り、予告なしで、午前、午後、夕方など違った時間帯に、最初のうちは毎週訪問して、小さな施設の様子を観察した。
いつでも、同じ人が働いていて、平和で安全な雰囲気だった。 毎月一度、医者の往診もあった。 外部から、正看護師が月一度、定期的に訪れ、脈拍、血圧等を測った。
これから長年お世話になるので、そこで働いている人が安定していると、夫も安心感を持てると考えた。
認知症の病人は、世話に時間が余計にかかる分、普通の患者以上に高額の謝礼を、毎月払わねばならない。
メディケア( 連邦政府の医療保険)は、あくまで直接の医療行為にのみ支払われる。
トイレに行く付き添い、シャワー室での介助、食事の手伝いと言った、日々の看護は自費、また、宿泊費, 食費なども、当然自費であるから、お金は新幹線の速さで消滅する。
私は、腕をまくり、覚悟を決め、これからも長年通訳として働くと誓った。
万が一、 家を担保に医療費のために、借金を始めれば、 高い金利のためもあり、見る間に資産は目ぼりしてしまう。
その状態をできるだけ、遅らせる為にも、 毎月何らかの収入を得る必要があった。
また、自宅を整理整頓、少し直して、下宿屋も始めた。 日本に住んでいた若い頃、下宿の部屋を借りていた事があった。
その経験のお陰で、 思い付いたのだ。 一番小さな部屋を、自分の部屋と決め、ドアに鍵を取り付けた。
金属製の金庫を購入、地下室に添えつけ、重要書類をまとめて入れた。 偶然、我が家から歩いて行ける距離に、NIH( 国立衛生研究所)があった。
一時期は、日本全国から、450人もの医療研究者が渡米して、研究に勤しんでいたが、 現在(2009年)は、250人ほど、NIH で研究中だ。
運良く、夫が施設にお世話になっている間、入れ替わり立ち替わり、若手の日本人研究者が2人滞在してくれた。
我が家の場合、素人下宿屋で、 営業用のアパートのように、一年契約等の条件が無い。 6か月でも、 1、2年でも、研究期間だけ滞在できる、柔軟な下宿屋だ。 勿論、 敷金、礼金なし。
その上 米、味噌、砂糖、醤油、食用油等は、家主(私)がまとめて買っておき、台所が乱雑になるのを避けた。
また、ほとんど毎週、 腕によりをかけて、金平ごぼう、煮物、けんちん汁等を作り、自炊をしている若者達に、一品料理を追加のサービスとした。
一人っきりになっても、同じ屋根の下に、日本からの優秀な研究者が、同居してくださっていたので、心強かった。 下宿代は、夫が滞在中の施設利用費の一部として使われた。
若手のの優れた内科医様も、結構長期間滞在、専任のお医者が、我が家にいる雰囲気だった。
米国に長年住み、米国人と結婚していた関係もあり、日常の会話も英語であった。
米国の首都は東海岸にあり、我が家は首都の郊外であるから、日本は距離的にも気持ちの上でも、長い間ある意味で、遠い存在であった。
日本生まれで、普段は日本在住の若い人々と、同じ屋根の下で過ごせたのは、日本を身近に感じる良い機会だった。
夫が施設に入居してから、少し心の余裕ができ、自分の今後の身の振り方をじっくり考えた。
認知症は緩やかに悪化するので、 十二分に、自分の行く末を考える余裕があった。
米国の東海岸に住み始めて、すでに29年も過ぎていた。 夫がもともと東海岸出身である上、彼の職場がワシントンD.C.内であったので、メリーランド州のベセスダに根を生やしていた。
いつか自分が一人になった時、このまま、同じ家に住み続けるのかどうかと、何度も何度も考えた。
ワシントンD.C.の冬は寒い。北海道やボストンほどの寒さではないが、自分は寒さに弱い事を悟った。
その上、 高齢化してからの、雪道の運転は怖い。 自宅の庭の雪掻きも歳と共に辛くなる。
そればかりではなく、60代から、夫は緩やかに認知症が悪化、家の中でも、いろいろ問題を起こした。
同じ家に住み続ければ、どうしても、 過去の多種多様な事件を思い出す物が多すぎる。
ある知人から、日本から来たばかりの入れ歯作りの専門家に、暫く部屋を貸して欲しいとの連絡があった。
まだ、軽度の認知症の夫が自宅にいた頃であった。 50代の背の低い男性で、 アパートが見つかるまでの間、我が家から勤務先に出勤した。
ある時、無駄話中、 彼は言った、「僕は後10年か15年で退職したら、ハワイで余生を過ごすつもりだ。」と彼。 何気ない会話であったが、私の中に彼の話が残っていた。
そうだ。 私も、ハワイと言う可能性がある。28歳の時、ほんのちょっと、一度訪問しただけなのだ。
自宅を売却しての、本格的引っ越しは一大事。それから、365日、24時間 常にハワイの可能性について思索し続けた。
夫の病気の進行が遅く、時間的に十分余裕があるから、これから5年間、毎年冬の2か月、避寒も兼ねて、実地踏査することにした。