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人生の醍醐味  43

Image by Olia Gozha

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2000年、21世紀初頭、「夫の様子が、少しおかしいのでは」と、長年連れ添てきた妻の私は、直感的に感じる事があった。


毎日車で、アメリカの首都である、ワシントンD.C.を横切り、北西部の我々が住んでいたメリーランド州ベセスダから、南東部のニューヨーク通り沿いにある新聞社に、 毎日通っていたので、私の思い違いだろうと、自分の直感を否定し続けた。


1981年に家族で、ワシントンD.C.郊外に越して来て以来、19年の月日がすでに流れていた。 


日本生まれの私は、米国首都近郊の、土地勘はゼロなので、 幸い、新聞社勤めで、情報収集専門家で、その上米国東海岸生まれの夫は、しっかり調査してくれたようだ。


自分の職場からは離れていたが、娘のために、教育程度が高い学校区にある家を、選んで娘購入した。 


その結果、何十年も、ワシントンD.C.を横断するような距離から、車で通勤していた。 


2002年の5月に、彼は60歳の誕生日を迎えた。直感的に感じた不安が、何度も頭をもたげ、普段お世話になっている内科医に、相談する事にした。  


アメリカに長年住んでいる、フランス系のお医者さんで、 10年以上、家庭医として、健康診断をしてくださっていた。 フランス語も話せる夫も、気に入っていたお医者さんだった。


診察後、 認知症の専門医を紹介してくださった。「精神科医のロンドン医師に、一度詳しく診察してもらいなさい。」との事だった。 


予約を取り、初めて、その専門医を訪ねた。 診察結果は、私が懸念したように、 「軽度認知症が始まっている。」との事。


より詳しい検査のため、メリーランド州バルティモア市にある、ジョンホップキンズ大学病院で、検査を受けるよう指示を頂いた。


予約を入れて、車で1時間ほど走り、大学病院に行った。  


診断のための検査に、「4時間はかかる」との、説明を受けた。


4時間後、元の所に戻り、説明を聞いた。「認知症が緩やかに進行している。」との、説明があった。 


病状の進行を少しでも遅らせるため、 「精神科医の定期的検診と、処方箋を出してもらうよう。」との指示。  


我が家に近い、精神科医を紹介していただいた。  


精神科医とも、予約を取り、隔月に一度、しばらく通院する事になった。  新聞社での勤務は、それから数年も続いた。


17歳頃から、常に車の運転をしていた彼は、自動車の操縦方法は、忘れていないようだった。


職場では、編集部の同僚達が、 夫の編集上の多数の間違いを、そっと訂正してくれていたようだ。



アメリカでは、メディケアと言われる、連邦政府の高齢者医療制度は、65歳以上から使用できる。 


同僚並びに夫の上役の思いやりのお陰で、本来なら解雇されるような失敗を繰り返したにも関わらず、 満65歳になるまで、 歯を食いしばって、編集部内の極秘事項にしていたようだ。 



65歳で夫は職場を退職した。  処方箋薬を服用していたが、 認知症は確実に悪化していた。


始めは、軽度の物忘れから始まった。 忘れたら、「私が代わりに覚えておけば良い。」と、心の内で呟いた。


もっと悪化する前に、「彼が行きたい所へ連れて行ってあげよう。」と考え、夫に聞いた。


母方の祖先は、カナダに住んでいた時期が長く、縁戚は今でも、カナダに住んでいる。


父方も時代は少しずれるが、スコットランドから、カナダ経由で東海岸に移民として到着したらしい。 


なぜ、彼が「プリンス エドワード島へ行きたい。」と言ったのか、真意は私には分からない。  兎に角、行きたいという所へ行ってみた。 


カナダ東海岸の、プリンス エドワード島に隣接する地域は、ノバ スコシアだ。 


もともとラテン語であるが、 英訳すれば (New Scotland) である。  


フランス支配下の方が古く、時代が下がって、英国圏内に組み込まれる。


プリンス エドワード島と言えば、一番先に思い浮かぶのは、「赤毛のアン」だ。 カナダの有名な女流作家、ルーシー モントゴメリーの作品だ。  


夫が働いていた新聞社に、休暇許可をもらい、真夏の八月到着した。  


セントローレンス湾から、3ブロック坂をあがって、左手に曲がった所に、我らの宿泊場所があった。  


流石は、カナダ、夏でも湾から吹き寄せる風のおかげで、木陰に入れば結構涼しく過ごせた。


有名な避暑地でもあり、観光客で賑わっていた。 われらも、米国の首都から来た観光客だった。


2004年の事であった。 セントローレンス湾沿いの繁華街から、自分のホテルに、一人ではもう帰れなくなっていた夫の側を、離れないよう細心の注意を払っていた。  アイスクリームをたべながら、ゆっくり歩いた。


翌年の夏、今度は彼の希望で、モンタナ州ビュート(Butte, Montana) にでかけた。 


ロッキー山脈の北端にあたるビュート市は、人口3万4千人の町で、モンタナ州で5番目に大きな町だ。


19世紀後半から、20世紀前半に開発が進み、モンタナ州で最初に工業都市になったのが、ビュートと言う町だ。 


銅山採掘で栄えた町だったのだ。 ヨーロッパからも、沢山の移民がビュートに流れて来た。


我らが訪問した時は、当の昔に、銅山景気も過ぎ去り、廃れた町になっていた。  


ホテルの人に教わり、ビュートの街を、ガイドさんに案内してもらう事にした。


そのガイドさんの説明で、私にとって特に印象的であったのは、禁酒時代の話だった。


1920年前後から、米国で禁酒時代が始まった。鉱山で肉体労働をした後、飲む酒の旨さを楽しめなくなった市民達。  


頭の切れる人はどの時代にも、どの国にもいるものだ。  


「Speakeasy 」、(スピーク イージー)、これは、秘密の暗号で、 例えば、表向きは理髪店であるが、 目立たない特別の入り口があり、暗号をこっそり囁く事で、 秘密の部屋に入り、法を犯して飲酒を楽しめる。  


10数年も長きに渡って、禁酒時代が継続したので、 様々な工夫がなされたようだ。 


 初めは、こっそりアルコール類を飲むだけの場所であったが、他の娯楽も同時に楽しめる場所に進展した。  


実際、昔使われていたスピークイージーの現場を、見学できた。 


我らが訪れた2004年は、昔のビュート町の繁華街もすっかり廃れ、 町で一番由緒あったホテルも、その時は、職業軍人募集受け付け場所になっていた。 


10代後半、20代の若者が、所在無さそうに、ぼんやり歩道に立っている姿が目立った。 


昔、昔、夫の父方の祖先が、スコットランドから、銅山炭鉱で仕事をしていたらしい。 

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