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南部への出張は少なかったが、 ある日、突然ジョージア州アトランタ市への出張要請。「はい、お受けします。」と私。
1980年、日立マクセル社の社内通訳として、日本(当時、我が家族は日本在住)から、アトランタ市に引っ越して来て、毎日12時間近く働いていた事を、懐かしく思い出しながら、 ピーチ通りにある、指定された宿泊先のホテルに入った。
日本の研修団は、その日の夕方、ホテル到着予定だった。 日本から添乗員がついて来ていたので、私は、夕方、5時半まで自由時間だった。
チェックインが 午後3時と知り、荷物をホテルに預けて、 ピーチ通りを歩いて見た。その年は、 1999年6月であったので、 私が一年近く日本企業で働くために住んでいた頃から、すでに19年の月日が流れていた。 時はまるでランナーのように走り去っている。
ピーチプラザもありました。 19年前に、初めはホテル住まいから始まったが、 そのホテルはピーチプラザの真向かいに、今でもあります。
そのまま、歩き続けると、 若い黒人の男の子が、木箱の上に取りたての桃を、盛り沢山積んで売っています。 勿論、 買いました。
どちらかと言うと、ちょっと小粒な桃(ピーチ) ですが、それが甘くて美味しいのです。 ジョージアの桃は有名で、19年前も良く食べました。
懐かしさに、アトランタ市の中心部を歩き回り、3時を過ぎている事に気付き、急いで宿泊予定のホテルに戻りました。
翌日、ホテルロビーに9時に集合、ジョージア州庁を訪問、午後はキングセンター訪問が予定に入っていました。
1968年4月に、テネシー州でキング博士が暴徒に暗殺された後、 キング夫人は非暴力社会変革を標榜とする、キングセンターを設立した。
1981年に、そのセンターは由緒あるバプティスト教会の隣に移動した。 そのバプティスト教会は、キング牧師がよく説教をしていた教会なのだ。
立派な建物で、池があり庭の手入れも良く行き届いていた。 まず、キングセンターの職員が建物内を案内しながら、説明した。
「自由の部屋」といった具合に、部屋に名前がついていた。 部屋と部屋を繋ぐ広場的場所には、ジョージア州の地元産品とアフリカの工芸品が展示されていた。 大劇場もあり、特別講演会などが開かれる会場なのだ。
二階には、キング牧師とキング牧師夫人、それからインドのガンジー、バスの前に座り、立つ事を拒否した、ロサ パーク夫人像とその関係史料が展示されていた。
後半は、キング牧師夫人と面談があった。 上品な方で、78歳にも関わらずよく通る声で、知的にまとまり良く説明してくださった。
特に、1968年4月4日の銃撃事件は、鮮明に記憶に残っているとの事。 テネシー州メンフィスにあるホテルの、牧師が宿泊していた2階の部屋の窓を開け放ち、外に集まっていた人々に話しかけていた最中の出来事で、重傷を負い、約1時間後の夜7時5分過ぎに永眠した。
「まだまだ、先は長いですけれど、 遠い昔と比較すれば、アメリカの人種差別撤廃問題も、幾分改善されています。」と夫人。


