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教育における究極的な評価の目的とは

Image by Olia Gozha

評価ってのは、究極的には、他者に評価されないってことを目指すのかな。

自分の評価は自分でするし、そのための考え方と方法を自分なりに持っていれば、己を見つめることにおいて何者にも頼ることはないんじゃないか。

「孤独に歩め。悪をなさず、求めるところは少なく、林の中の象のように。」

と仏陀は言った。

レヴィ ストロースは「悲しき熱帯」で、確かこんなようなことを言っている。

「相互を比較する術を持たないが故に平等であり、対等であり、相互に尊重される状態が維持される。」

やっぱ僕にとってしっくりくるのはこれだな。

んで、自分で自分を評価するって言っても、もちろん独善的にそれをするってことじゃなくて、他者からのいろんなフィールドバックを受けてするんだけど、やっぱり最終的な自分の価値は自分で決めるんだと思う。

己の価値付けを、自ら手放さない、他者に委ねないってことは、自由であるためには大切なことだと思う。

ただ、どうしても評価というのは、社会で生きていく上では「交換価値」として扱われてしまうことが多い。

例えば、何かを一生懸命覚えて、試験で点を取って、それを成績というポイントに交換して進学するとか。社会に出て仕事をしたって評価は常に「交換価値」に還元されてしまう。

だからこそ、時には断固として「交換価値」を拒み、何物にも還元され得ない「使用価値」としての評価についての考え方と方法を個人が身に付ける必要がある。

ふと気がついたら、バナナとりんごのどちらが甘いかを大真面目に考えてしまうような「交換価値」ではなくて、バナナはバナナとして、りんごはりんごとして味わっていけるような「使用価値」についての評価観を磨いていくことこそが、この世の中を少しだけ自由に生きていくための智恵なんじゃないかと思う。

こんな交換不可能な、比較不可能な価値の感覚を抱くことが、尊厳を持つということなのだと思うし、他者による評価によって揺らぐことのない状態を自由と呼ぶのではないか。

そして、この尊厳と自由の感覚を抱くことを後押ししていく行為を教育と呼ぶのではないかと思う。


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