その日は、なんの変哲もない1日でした。会社を辞めようと決意した以外は。
普段の朝を迎え、いつものように、一人暮らしの世田谷のアパートを出ると、隣の大家さんの豪邸の庭の一角に造られた、10台程分の敷地の駐車場に停めてある営業車兼自家用車のレガシイに乗り込み、エンジンをかけました。
首都高に乗り、新宿で降りて、いつものように営業先の大学病院の駐車場に停めると、そのままシートを倒してリラックスしました。途中のセブンイレブンで買ったたまごサンドとUCCのブラック缶コーヒーでいつものように車中で朝ごはんを食べ始めました。
新卒で入社して10年が経っていました。製薬会社のMRといえば、転職も盛んな職種であり、業界でもあるのですが、国内中堅企業は少し雰囲気が違い。ほぼほぼ、99%は新卒から定年まで務めるという環境でした。
新卒から10年経って、自分の立場は最初から読めていましたし、その通りになりました。ということは、5年後はだいたい、5年前に入社した先輩の現在のようになり、10年後はだいたい10年前に入社した先輩の現在のような様子になる。
そのロジックで、定年退職するまで、自分がどんな人生を歩むのか? だいたい想像がついていました。
もちろん、人生というのは会社だけではありません。たとえ同じ会社で働いていたとしても、人生はそれぞれ、人それぞれ全く違うものです。それはわかっていました。
ただ、一般的な日本人として、そこら辺の会社に勤めている日本人としては、だいたいどのような人生になるのかというのは、わかっていましたし、現実に新卒から10年経って、予想していたような環境と大きく違っていないというのも一つの証明となっていました。
色々なことがあると思いながらも、それほど予想と大きなズレがない。今までがそうだった。ということは、5年後も、10年後も、20年後も、定年になっても、だいたい予想のつく人生だと思ったりしていました。
ただし、別に不満があるわけではなく、むしろ恵まれていると思いました。両親は高校も出ていないので、仕事の選択肢は少なく、結果的に魚屋として成功したので、よかったのですが、それに引き換えると自分は大学まで出て、選択肢がそこそこある上で自分で選んだ会社に就職して、会社員として生きている。それのどこに不満があるのでしょうか? それは自分でもわかっていました。
今から、違う人生を歩むなんて、贅沢だと思いました。もちろん、ものすごく優秀な人は別です。優秀の定義は、まあ、資格があるとか英語がペラペラとか、海外MBAとか弁護士とか、そういう一般人とは違った人は話が別です。
「自分は、そこら辺の一般的なサラリーマン。それに不服はない。なぜならそれが俺の身の丈だ。」時折自分は、言い聞かせるように、車を運転しながら独り呟いていました。
一通り医師への訪問が終わり、と言っても担当先は1軒だけなので、大学病院の駐車場に車を停めっぱなしで、近所のビルにある英会話教室に向かいました。
平日の日中に英会話教室で軽く40分くらい過ごしていました。ここの英会話教室に通い始めた理由は、もちろん英語を身につけたかったからです。ただそれも、結局自分の仕事は英語なんか使わないし、英語ができなくても結構良い給料もらっていたりしたので、勉強にはなかなか身が入りませんでした。
ミーハー的な気持ちで、英語話者になったらかっこいいなああ、くらいには思ったりしていた程度です。
と、その時、あることが脳裏をかすめました。
俺、このままじゃ、嫌だ。
初めての感覚でした。今までそれを正面から見れなかっただけなのです。
どうして、そのタイミングでそんなことを思ったのかは、いまだにわかりません。何気なく、この英会話スクールに来て何年目だろう?と考えたときに、5年が過ぎていたことに気づいたのです。
5年・・・。
英会話教室に通い始めた5年前と、その時とでは、英会話の能力も全くと言って良いほど変わっていません。残念ながら。5年間そのままでした。
ただ、特段、残念とも思いませんでした。なぜなら、おそらく、自分の人生はもう、定年退職まで大体わかっていたからかもしれません。
英語だけでなく、5年前と、生活も全く変わっていません。生活の、その、いわゆる細かい点、ルーチンまで、ほとんど変わっていませんでした。
彼女も居ませんでしたし、親も元気でした。
27歳の時に毎日新宿で昼間フラフラしているし、暇だから英語でも勉強しようと思ったのです。30歳までには3年あるし、少しは英語が身につくだろうと思っていまいた。
30歳どころか、32歳になっていました。そして、英語はもちろん身についていないし、それどころか、何一つ得たものがないと感じました。
5年間、何も得ていない。そして全く同じ生活。今までは、それで良いと思っていました。というか、良いとか悪いとか、そんなことを考えることすらしたことはありませんでした。
初めて、このままではいけないと思いました。
人生、このままでは、いけない。
とはいえ、性格的に、例えば英語なら英語を自分で、自分を律して努力して目標を掲げてそれに近づくように毎日コツコツ勉強ができるかというと、できないのはわかっていまいた。
例えば、仕事もアグレッシブに貪欲に身につけて、マーケティングでも勉強して本社にでも異動願い出して、バリバリやっていけるかというと、それも柄ではないということも、自分のことなので良くわかっていました。
自分だけではなくて、おそらく、先輩もみんなそうなんだろう、と思いました。
文句言いながら、愚痴を言いながら、ただ生活もあるし、守るものもあるし、そのままできる範囲で生きていっているのだろうと、思いました。ただ、それは何も悪いことではありません。むしろ家族を養って大黒柱として働くという時点で立派なことです。
なんだか、気分が悪くなってきました。
車を運転しながら、吐きそうになりました。
このままでも、悪くない。65歳までこのままでも、将来世帯を持っても、養っていける。このままでも。
もしくは、この人生を変えるには、自分を律して変えることはできない。この人生を変えるには、俺は、俺という人間にとっては、つまり、会社を辞めるしかない。
辞めるだけではない。アメリカにでも行かなければ、俺は俺の人生を自分自身で日本にいながら変えることはできない。
このままでは、いけない。俺は。
5年前と同じ生活に今気づいた。つまり10年後も、20年後も同じだ。
答えは、会社を辞めて、渡米する。
1度きりの人生。


