「随処に主となれば立つ処皆真なり」
父は、編入試験に挑む僕に初めてこの言葉をかけました。
「今。ここ」に全力投球する。
主体性を持ってやれば、どこであれ、
あなたのいるところに必ず真理がほほえむ。
僕が主体性をもって全力投球したのは、この編入試験に向けての勉強が初めてです。
まさに人生のターニングポイントです。
偏差値30の不登校生が三ヶ月、全力であがきました。
自分を変えるため、人生を変えるため。
毎日約10時間勉強をしました。
おそらく三日で、中学三年間の勉強時間を超えたでしょう。
SNSを開くと制服を着て高校生活を謳歌している友達がいます。
バスケットボールで一年生から試合に出て活躍する友人もいます。
そんな写真を平日の昼間、サラリーマンに囲まれた定食屋で見るのです。
しかしもう後戻りできません。戻りたくもありません。
自分で選んだ道。
僕が人生で初めて主体性をもって決めた道。
僕を馬鹿にしてきた彼らを見返すため、
僕を応援してくれた中学の監督、友人のため
僕を支えてくれた家族のため
入学してからの8か月、
本当に長く感じました。
そして、僕はそんな八か月間を乗り越えて、
試験会場から合否掲示板に向かっています。
掲示板には大きな白い紙。
そこには、僕の受験番号がありました。
僕の受験番号だけが記載されていました。
両親にその場で急いで電話をしました。
両親は走って高校のロビーにやってきて僕を抱きしめました。
あんまり覚えていませんが、たぶんは母泣いていたと思います。
いや、絶対泣いていたかな。
パラレルワールドって存在するのでしょうか?
不登校になった時に一番思ったことは、
「中学時代に戻りたい」ということでした。
#1に書きましたが、僕は中高一貫の私立中学にいました。
本来ならば、付属の高校の進学にするのが普通なのです。しかも大学も付属なので、大学受験もする必要がありません。
その道が本来あるにも関わらず、それを捨ててスポーツ推薦で入学しました。
『中高一貫の高校へそのまま進学するべきだった。』
何百回もそう考えました。
学校に行かずに、そんな愚痴ばかり母に漏らしていました。
しかしそう考えれば考えるほど自分が惨めに思えてくるのです。
過去は決して変えられないからです。
パラレルワールドって存在するのでしょうか?
もし僕が、そのまま中高一貫の高校に行っていたらどうなっていたのでしょう。楽しい高校生活を謳歌しているのでしょうか。
もし僕が、そのまま中退せずスポーツ推薦で入学した高校でやり続けたら、バスケットボールで成功していたのでしょうか。
もし僕が、試験に落ちていたら、、、、
考えたらキリがないですね。
しかし今振り返って思うことは、
これまでの自分の選択はすべて正しかったということです。
胸を張ってそう言えます。
スポーツ推薦の道を選んでいなかったら、不登校になっていませんが
都立高校に出会うことができませんでした。
都立高校に出会わなければ、こんなに努力することもありませんでした。
こんなに努力しなければ、編入もできなかったですし、
編入できなければ、最高の高校生活を送ることができませんでした。
そして、中高一貫の高校でもスポーツ推薦の高校でも、
慶応義塾大学に入ることはなかったです。
伝えたいこと
この経験を通して、僕が伝えたいのはただ一つです。
今自分がどんなに辛い状態にいても、主体性をもって目標に向かって全力で努力してください。
そしたら必ず道は拓けます。
卒業式の校長先生のような言葉ですね。
これから書きますが、僕はこの後に大学受験、そして就職活動を経験することになります。
そこでも大きな挫折を味わいます。
二つとも決して甘くありません。というか厳し過ぎる現実です。
しかし僕はこの経験があったから、これらを乗り越えていけました。
努力すれば必ず道が拓けることを学んだのです。
その話はまた次回以降に。。。
転校生のリスタート
編入試験に合格してからは大忙しでした。
まず、スポーツ推薦で入学した高校に退学届けを出しに行きます。
※都立高校の編入試験は、高校に在籍している生徒でなければ受験できません。なので、受験が終わるまで退学届けは出していないのです。
この高校の監督は僕の新たな人生を応援してくれました。
「お前がいたらもっと強いチームになるのにな(笑)」
そんな冗談も最後僕にかけてくれました。
「そんなわけあるか!」と突っ込めるほど余裕はありませんでした。
この後、このチームは全国大会でベスト8になります。
テレビの前で、知り合いの先輩たちが戦ってる姿は最高にかっこよかったです。
あの練習、OBや監督、先輩からの罵声を乗り越えて全国ベスト8です。
リスペクトしかありません。
あとで聞いた話ですが、僕が編入試験に合格したことは、僕が元いたクラス
のホームルームで話題に上がったそうです。
そこで、転校する僕をクラスのみんなは祝福してくれていたそうです。
なんて人格者たちなのでしょうか。いわば裏切り者の僕をです。
そんなクラスメイトのうちの1人と、今は同じ会社の同期として働いています。
話が逸れました。
僕は新たな高校の制服を買い、教材を買い、
冬なのに新学期の気分です。
1月の三学期からの転校生は珍しく、
また僕の転校の話はバスケットボール部経由ですでに噂になっていました。
ドラマで見たことある、「転校生の紹介です。」
こちら側に立てる経験、、、大変貴重な経験です。
そして僕はバスケットボールに入部し、
またバスケットボールを始めることができました。
同期のチームメイトは20人越えていましたが、
本当に仲の良いチームでした。
転校生の僕をすぐに受け入れてくれ、あっという間に仲良くなることができました。
彼らとは高校を卒業してもう7年以上経ちますが、
今でも集まってお酒を飲んだり体育館を借りてみんなでバスケットボールをするくらい仲良しです。
中には結婚した人もいます。時が経つのは早いものです。。。
そんなこんなで、転校後は周りに本当に恵まれ楽しい高校生活を送ることができました。
バスケットボールも、2年時になると自分たちの代となり
念願の試合出場も果たすことができました。
しかし、中学時代に痛めた肩を二年生の冬に再度脱臼してしまい、
最後のほうはガチガチにテーピングしてましたが、ほぼ試合に出ることはできませんでした。
「僕は、試合に活躍する選手へと育ち、前にいた高校と公式戦で戦うことに、、、結果は、見事勝利!そして僕らは全国大会に出場するのでした!!」
とかだったらドラマみたいで、めちゃくちゃかっこよかったのですが、、、人生さすがにそこまでうまくいきませんね。
僕らは、最終東京都ベスト16で終わってしまい、全国大会を逃しました。
前にいた高校も同期たちは東京都ベスト8で同じく全国大会を逃します。
あの練習を乗り越えた同期たちは、すごいです。そして決して僕と仲が悪くなることはなく試合会場が同じになったら、普通に声をかけてくれました。なんて寛大なんでしょうか。
中学時代に「全国大会で優勝する!」という少年時代の僕の夢は儚く散ったわけですが、
一生ものの友人に出会い、楽しい高校生活を謳歌させてくれたこのバスケ部のチームメイトには感謝しかありません。
余談ですが、転校先では彼女もでき、まぁ~~楽しい高校生活を過ごしておりました。
そんな僕は気が付いたら、勉強の「べ」の字も忘れております。
バスケットボールに遊びに大忙しなのです。僕に勉強する暇はありません。
あんなに頑張ったはずなのに、気づいたらなんと
クラス40人中"39位"の成績に落ちていました。
同じ教室のビリから二番目の成績だった人を思い出して下さい。
そうです。相当あほです。
早慶なんて夢のまた夢。
僕は転校後、勉強を続けることをやめてしまったのです。
『俺、慶應に行くわ』
僕が不登校のころ、母は僕を気晴らしにオシャレな美容院に連れて行ってくれたことがあります。
そこは中目黒や代官山あたりにある美容院で、帰りは中目黒で母とランチをしました。
中目黒のおしゃれさに魅了された僕。
そんな僕に「慶應大学はこの近くにあるのよ」と母は言いました。
(正確には東横線で一本なだけで、そんな近くないですよね。)
当時の僕は慶応はテレビとかで聞く別世界の話。
でもなんとなく、その時「慶應ってかっけぇ」と思い始めました。
父は言いました。
「将来やりたいことがないなら早慶か東大にいけ。」
僕は特に将来の夢はありません。
早慶か東大に行けば、なにかやりたいことができた時に圧倒的に有利だというのです。
それは早慶東大という肩書だけでなく、優秀な人たちとの人脈であったり、
優秀な人たちと過ごす経験が財産になる。と。
父は関西出身で、東京の総合商社に大学卒業後就職しました。
世で成功してる人の多くが早慶や東大出身者であることを身に染みて知っていました。
引退した6月、僕は脱臼した右肩の手術が必要でした。
世間は受験真っただ中。
引退した悲しさからまだ勉強に切り替えができていない僕でしたが、
手術が終わった日の夜、病室のベットで色んなことを考えました。
そして、僕は病院から帰る途中のバス停で母に唐突にこういうのです。
「俺、慶應にいくわ。」
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季節は7月が始まろうとしていました。
僕の新たな挑戦の始まりです。


