地獄の始まり
僕は高校生活をバスケに捧げる覚悟で、強豪校への入学を決意したつもりでした。
しかし、その決意が甘かったと気づいたのは、入学前の春休みでした。
スポーツ推薦で入学するメンバーは、入学前の春休みからほぼ本格的に練習に参加します。
練習は本当に過酷でした。当然です。全国常連校です。
中学時代は僕中心でバスケをして、自分のいう事をまわりが聞いてくれました。
そんな僕は、今このチームでは「下手くそ」の一人になったのです。
当時の部活動は、「殴る」などの指導は当たり前の時代でした。
何をやっても毎日のように怒鳴られ、殴られ、
怖い先輩方におびえ、練習は過酷も過酷。
一番びっくりしたのは、
練習試合でチームがミスをし、タイムアウトを監督が取り、
「全員ロッカールームにすぐ集合」と言われました。
試合中ですが、コートから急いでみな移動すると、
監督は一人ずつ顔面をビンタしていきます。
ロッカールームに一旦戻らないと、殴っているのを他校に見られるので、
少ないタイムアウトの時間内で、わざわざビンタするためにコートをチームで離れるのです。
入学前から、体はボロボロでした。
なによりボロボロだったのは精神面です。
今振り返っても
当時のチームの練習方法や、監督の指導が異常だったとは思いません。
単純に僕の実力不足です。
きっと全国大会に出るチームはみな通ってきた道ですし、もっと過酷なチームもあります。
僕が最も苦しんだのは、「心無い言葉」により
自分の存在価値が見いだせなくなったことです。
どこにも逃げ場がないという苦痛
今思えば彼らは大学生くらいだったのでしょうか。
OBがよく練習の指導に来てくれていました。
なぜか、そんな彼らに僕は好かれていませんでした。
「東京選抜?嘘だろ。これで?」
「ちょっと体が大きいだけで、選抜ってなめんなよ。」
「中学時代ベスト4いけたのは、なんかの間違いだろ?」
「いつ辞めんの?早く辞めてくれよ下手くそなんだから(笑)」
「俺お前の事好きじゃねえんだよなぁ。」
「頼む。辞めてくれって!」
彼らは毎日のように僕にこんな言葉を浴びせてきました。
そこには愛はありません。彼らは指導者ではありません。
今思えば大学生のノリ?面白がっていじってる?のでしょうか。
全然面白くないですね。最低で最悪です。
当時入学したばかりの高校一年生が
全然知らない怖い大学生OBの言葉を「いじり」として受け止められるわけがありません。
しかし、チームはそれを助けてはくれません。
「お前は怒られ役だ」と言われたこともあります。
「怒られ役」ってなんやねん。今ならそうツッコミ入れられますが、
当時は本当に苦しかったのを覚えています。
つまり、悔しかったらバスケうまくなって見返してやれってことなのでしょうが、僕のメンタルと体力は限界でした。
せめて、日常生活が楽しければよいのですが、
僕がいたスポーツ推薦クラスはまるで自衛隊のようなクラスです。
入学してすぐのホームルームでの話です。
挨拶を怠った一人のサッカー部の子が、
担任の教師から全員の前でボコボコに殴られました。
盛ってません。本当にボコボコに殴るのです。
挨拶でヘラヘラしていただけです。
(その子も不登校になり、のちに退学してしまいました。それがきっかけなのかわかりませんが。。。)
そんなクラスです。というかそんな学校でした。
(今はさすがに違うと思いますが。。。)
45人のスポーツマンたちが集まるクラスは、クラスメイトはみんな仲良しでした。
そこは唯一助けられた所です。
ですが、彼らもスポーツ推薦で入学したアスリートです。中には一年で試合で大活躍してる子もいます。
そんな彼らに『練習がきつい』なんて同じスポーツ推薦の仲間として、言いたくありません。
そんなわけで、家の玄関を出てから、帰ってくるまで
一秒たりとも楽しい時間はなく、逃げ場がなかったのです。
でも家も逃げ場ではありません。
学校がつらい。そんなこと家族に言えません。
反対を押し切って入学した高校です。
僕には逃げ場がありませんでした。
逃げ場ができた誕生日
人間には「向き不向き」「合う合わない」があります。
根性論ではどうにもならない事なのです。
僕は、この生活がどうしても合いませんでした。
中にはこれを「甘い」「逃げだ」と思う方もいらっしゃると思います。
ただ、そういう人はこのスパルタが「合っている」のです。ただそれだけです。
母は精神的にも肉体的にも限界だった僕を見抜いていました。
「学校に行かなくていい。」
「休んでいい。」
一学期が終わる頃、母はそう言ってくれました。
初めて逃げ場ができたのです。
そして僕は学校と部活を休むことが少し増えました。
それを許さなかったのは、学校と父です。
父は、母とは真逆の人間です。
父は大学時代に体育会に所属し、
在学4年間すべて全国大学で優勝。
四年時にはキャプテンを務めたスーパースターでした。
そう、生粋の体育会。ガチガチのスポーツマン。
このスパルタが「合っている人」なのです。
父には理解できません。息子が学校に行けなくなるのを。
「全国大会にいくと自分で決めたんだよな?」
「まだ三ヶ月しかたってないのに、甘えたこと言うな。」
「苦しいのはスポーツなのだから、当たり前だ。」
父は父なりの正義と愛があって、僕に厳しく指導しましたが
監督、いやそれ以上に怖いのが父です。
家では父と母の喧嘩が増えました。
もちろん僕に見せてなかったと思いますが。子供はなんとなくわかります。
僕はどうすればいいのかわからなくなっていました。
そして、忘れもしない僕の16歳の誕生日の日、僕はある決意をします。
近所の床屋へ行き頭を刈ったのです。
人生で初めての坊主です。
坊主頭の覚悟の夏休み
「ごめんなさい。ちゃんと学校に行きます。」
僕は覚悟を決めるために坊主頭に丸めたのです。
誰かに言われたわけではありません。
学校と部活を休んでいたので、
丸坊主にして、少しでも父とチームに誠意を見せたかったのです。
父と監督は僕の復帰を喜んでくれました。
そして、夏休みに入り、毎日練習に行きました。
夏の合宿、練習は地獄のように過酷でした。
THE強豪校の夏練習をご想像ください。地獄ですよ!
でも僕は2か月やり切ったのです。
坊主頭にして覚悟を決めてチームに戻り、地獄の夏練習を乗り切りました。
そして僕は確信しました。
「やっぱり無理だ。」
学校に行けないということ
不登校の気持ちは不登校になった人しかわかりません。
学校に行けなのです。不思議ですよね。
自転車で15分で着く距離です。
僕は地獄の夏練習を乗り切り、2学期が始まって不登校になりました。
夏練習を乗り切った達成感とかはなく、
これ以上、ここにいられないという感情、
いたくないという感情、
全てから逃げ出したい、消えたい、中学時代に戻りたい、バスケしたくない。。。
表現は難しく、言語化できません。
とにかく不登校になったのです。
夏前とは状態が全く違います。全く学校に行けないのです。
やっと学校に行ってもずっとトイレに籠った日もありました。
先生に酷く怒られました。
家を出て、近くの公園で時間を潰した日もありました。
ドラマみたいな話です。
母はそんな僕の味方でした。
「学校に行かなくていい。今日は休もう。」
母のその一言が本当に僕を救ってくれていました。
しかし、父にまた不登校になったことがバレてしまえば、
父の逆鱗に触れ、大変なことになります。
母は僕が学校に行っていると父に嘘をつきましたが、
バスケ練習着の洗濯物がないことから、父は僕の不登校に気づきました。
父は激怒し家族会議が開かれました。
監督がわざわざ僕の家に来て説得してくれたり、
僕の復活のためにいろんな大人が動いてくれました。
両親は僕の知らないところでおそらく何度も喧嘩していました。
父は苦しかったと思います。
スポーツで期待した自分の息子が挫折をして、学校に行けない。
自分はできたのに、なぜ息子にはできない?
不登校の子供なんてテレビでしか見たことありません。
それが自分の息子が今そうなっているのです。
そんな父は母の説得もあり、僕の現状を徐々に徐々に受け入れてくれました。(多分めちゃくちゃ大変だったと思います。)
そして家族で話し合い、僕は
「高校を変えて新たなスタートを切る」
という結論に至りました。
新たなスタートのため
高校を変える、と決まったものの
時期は9月末。簡単に高校を変えることはできません。
インターネットサイトで追加募集をしている学校をポチポチ調べてみたり、
通信制の学校を検討したり、
毎月入学者を募集しているインターナショナルスクールの見学に行ったり、
高校の再受験を検討して、一個下の子たちに混ざって3日くらい塾に通ってみたり、、、(早稲アカだったかな。。。)
色々しましたが、ピンときたものがありませんでした。
この頃には僕が不登校になっていることは、
中学時代のメンバー、選抜の仲間など様々なところに伝わっていました。
周りの人の中には、この時僕を笑ったでしょう。
「不登校だ」「中卒だ」「わざわざスポーツ推薦で入学したのに、バスケ挫折したんだ。」「この先どうするんだ」「お先真っ暗だろう」
そんな中でもどん底の僕に協力してくれる人がいたのです。
とある都立高校に通っている、選抜チームが一緒だった友人からの連絡がありました。
僕の諸々の事情を知り、都立高校への転校を提案してくれたのです。
その学校は都立高校ではバスケが1番2番目に強い高校であり、
偏差値も60を超える文武両道な優秀な高校です。
彼が、その監督に話しを通してくれました。
また、偶然にもその監督は、
僕の中学時代の恩師の大学の後輩にあたるのでした。
中学時代の恩師は僕のスポーツ推薦を一番反対した、
チームの監督です。
反対したにも関わらず、僕が不登校になったことを知り、
怒られるかと思いましたが、「大変だったな(笑)」と笑ってくれました。
その恩師からも、都立高校の監督に話しを入れてもらい、
僕はその都立高校の監督と一度会い、話すことになりました。
どん底に見えた兆し
監督はとても優しく、僕の転校の話に積極的に話を聞いてくれました。
ただ、もちろんバスケットボールの実力で転校はできません。
(そんな実力もありませんし。)
方法はただ一つ、12月に行われる「編入試験」に合格するのみです。
都立高校は毎学期編入試験を行っています。
しかし、これは主に引っ越しで学校を変えざるを得ない子たちを対象にしたものです。
当然、都立高校は人数不足でもなんでもありませんし
僕は引っ越しをしたわけでもありません。
しかし、試験を受けることはできます。
基準点を超えればよいだけです。
とはいえ、偏差値60を超える優秀な人気校。
編入試験で合格はかなり難しい、というかほぼ無理なレベルです。
当時の僕の偏差値は32程度。
(早稲アカでの結果です(笑))
中学受験以来、一切勉強をしてこなかった結果です。。。
しかし、僕に迷いはありません。
試験で点数さえ取れれば、僕は新たな高校でバスケットボールもでき、リスタートができます。
僕を馬鹿にしてきた全員を見返すため、
こんなワガママを聞いてくれた両親のため、
どん底にいる自分を助けてくれた方々のために、
そして、どん底にいる自分を変えるため
大袈裟かと思われますが、「人生変えてやる」と思いました。
勉強をしてこなかった僕の怒涛の3か月が始まります。