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自分の人生を振り返る①

Image by Olia Gozha

自伝なので、カテゴリーに迷いましたが、人生は日常生活なので、このカテゴリーで書かせていただきます。

現在、38歳。21歳に2つ上の人と結婚、22歳に長女出産、24歳に長男出産、27歳に離婚(親権なし)、29歳に17つ上の人(バツ2各娘有、親権なし)と再婚、34歳に死別、現在未亡人である。そして、現在5つ上のバツイチ(娘有、親権あり)の彼と結婚を前提にお付き合いをしています。

上記で述べたのは、大まかな婚歴及び現状。

振り返っていきたいのは、幼少の頃からの自分である。(記憶にないので聞いた話が多い)

38年前の3月、私は生まれた。私の父は、父の実父母にその当時付き合っていた彼女(母)が妊娠したことも話しておらず(結婚もしていなかった)、「子どもが生まれた」という報告を突然して、私の祖父母を大変驚かせたという話を聞いた。

ましてや、「未熟児で生まれた」と聞き、祖父母は病院にすっ飛んで行ったという。

どんな子が生まれたのかと思いながら、病院で対面すると、「口をとんがらせて、めんこい顔をしてたから安心した」と、この言葉は過去、何回も聞かされていたので、今これを書き出して思い出しました。

母は、実親から勘当されていたらしく、父の実家で産後を過ごし、未熟児で入院が必要だった私に母乳を届けてくれたのだと聞きました。

そして、母乳の飲みも良く、早めに退院することになったそうな(笑)

私の名付け親は、祖父。「幸せに恵まれるように」と名付けてくれた「幸恵」という名前に、色々考えさせられる人生になるとは、この時は1ミリも思うわけもなく、ただただ本能のままに生きて、育てられてきた。

特に、祖父母の子どもは男3人、そして孫はまた男ばかりで、女の孫は私が初めてだった上に、同居していたので、たいそう溺愛だったそうです。

その後、両親は結婚したそうです。

ここから、私の人生は様々な方向に動き出していくこととなる。

•*¨*•.¸¸☆*・゚

父の転勤で、帯広という土地へ家族3人で引っ越す。

帯広には、4歳~1年生の1学期まで暮らしましたが、その間。札幌に住む祖父母の私への溺愛は止まりませんでした。

帯広へ祖父母が遊びに来る時には、昔書店でクルクル回るラックに童話のような本が沢山置いてあったのですが、その本を集めていた私の為に、持っていない本の番号を電話で聞いて、たくさん買ってきてくれたのが祖父。真っピンクの甘納豆が入った赤飯が私は好きだったので、食紅たっぷり入れた赤飯を作って持ってきてくれたのが祖母。

祖父母がJRで帰る時には、家族3人で見送りに行くも、理性も何もない年齢の私は、祖父母が帰ってしまうのがイヤで、見送りのホームで大泣きして、窓から車内に祖父が入れてくれ、そのまま両親を残して祖父母と札幌の家に行ったり。

家族で札幌の祖父母の家に行った時には、案の定「帰りたくない」とごねて、両親だけ帯広に帰ったり。

それでも、その日の夜にお風呂に入った後に「やっぱり帰ればよかったな~」と私が言ったそうです。この言葉は、私の小さい時の名言だったようで、よく聞かされた話なので覚えています。

この時の札幌から帯広へ帰る際の方法。免許のない祖父母はバスで芦別へ、両親は車で芦別へ。そこで、私は引き渡されたそうな(笑)

全く面倒臭い子どもだと自分で思うが、祖父母のことが好きだったんだろうな。

帯広の家にいる時に、その面倒臭い子どもの私は「札幌のじいちゃんばあちゃんのところに行きたい!」とある日、ゴネた記憶がある。

そして、そこからの記憶。母に真っ暗な浴室に閉じ込められ、浴室のドアはドアの前にあった二層式の洗濯機で封じられ、怒鳴られ、泣きわめく私。ひとしきり落ち着いて、浴室からは出してもらえたが、まだ札幌に行きたいと言っている私・・。出かける準備をするために、靴下をタンスから持ってきたら、母にガスコンロで靴下を燃やされた。

この光景の記憶・・5歳ぐらいなのかな。鮮明に覚えている。ただただ怖かった。


帯広では、その当時のホームビデオや写真、自分の脳内の微かな記憶しかありませんが。(下記は自分の為の覚書)

・保育園に2年通っていたこと(ちょうちょ組・せみ組)。

・「パラソルへんべえ」というアニメ(気になる方は調べてください)が好きで、住んでいたアパートの2階から傘という名のパラソルで飛ぼうとして怒られたこと。

・近所の子と、しゃぼん玉で遊んでいて追いかけて割るという遊びをしていた時に、住んでいたアパートのむきだしの外階段の裏側に突っ込み、おでこを切るケガをしたこと。

・家にはオルガンしかなかったけれど、エレクトーンを習っていた。

・両親と「鳥せい」というお店に行ったこと。

・池田ワイン城にピクニックに行ったこと。(ホームビデオで見た)

・初恋は保育園で仲の良かった男の子。

・小学校でできた友達の家に遊びに行くと、必ずおやつが牛乳とセロリだった。

こんな記憶が残っていて、私が誕生から小学校1年の1学期までの話はここまでです。


自分の人生を振り返る②へつづく。








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