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人生のレールを脱線してみたら、こうなった僕の半生記【前編】

Image by Olia Gozha

訪問いただきありがとうございます。


東京生まれ東京育ちの僕は現在、島根県に移住してます。


もちろん昔から、島根県に住みたいと思っていたわけではありません。


結果として東京からこの【神々の国】にたどり着きました。


僕は20代で会社経営にかかわり、東京で順風満帆ともいえる暮らしをしてました。


しかしある時、僕は考えました。


人生は一度きり。


今のままで後悔はしないかと。


この誰もが一度は考える疑問に、行動を起こすことにしたのです。


会社を退き、キャンピングバスで旅にでます。


お金を優先に考えることを捨てたのです。


いろんなことが起きました。


破産もしました。


でも後悔はしてません。


自分が決めた人生だから。


そして妻と出会えたから。


僕の半生記をまとめた自叙伝です。


ぜひ、お読みください。



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~Life is a journey~まえがき①




愛犬のクマジが吠える声で目が覚める。


「もう少し寝させてくれ」

そう言った僕だが、車内の暑さで眠ることができず、諦めて身体を起こした。


キャンピングバスのドアを開けると、勢いよく外へ飛び出すクマジ。


草むらで朝一の小便をする彼の横で、煙草をくわえながら一緒に用をたした。

 

目の前には太平洋の海が広がっている。


とっくに顔を出し終えた真夏の太陽から、容赦なく、それでいてエネルギッシュな熱を全身に浴びる。

 

今日はどこで目覚めたのか…。

一瞬考えながら記憶をたどる。


クーラーボックスからミネラルウォーターを取り出し、昨夜のバーボンのせいで乾いた喉を潤す。


お湯を沸かしている間に手動のコーヒーミルで豆をつぶし、コーヒーを入れて煙草に火をつけた。


 

これが毎朝の日課だ。

 

 

僕の名は稲和弥。三十八歳。


マイクロバスを改造したキャンピングカーでサーフィンをしながら愛犬のクマジと旅をしている。

 

人生は一度キリ。


だからこそ、やりたいことをやって生きたいというのが僕の考えだ。


いつしか偉人になって(なったとしての話…)、座右の銘を伝えるとしたら

【必要なものは、必要な時に、必ず手に入る。やりたいように生きろ!】。


自分で考えたお気入りの言葉だ。


まあ、いわゆる変わり者って奴かもしれない。

 

ここでは、少し変わった僕の半生記の人生を共有できればと思っている。


有限であるこの人生に、少しでも早く【気づき】、自分の世界を満喫して生きていく後押しにでもなれたら幸いだ。

 

まずは一歩を踏み出すこと。


そうすれば、そこから信じられないような出会いや出来事が起こり始める。


そう、旅のように。

 

人生は旅だろ?

~LIFE  IS  A  JOURNEY~


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~Life is a journey~旅の前~②

     
  バリバリのビジネス時代 

 

二〇一六年の五月(当時三十六歳)からこの旅を始めた。


旅で出会った人の興味深い話や道中の出来事などを書いていくけれど、その前に今までの自分の事をここでは紹介しておきたい。

 

どのようないきさつでキャンピングカーライフになったのか?


仕事は?収入はどうしているのか?


みなさんの率直な疑問はこんなところではないだろうか。

 

まず初めに、家が裕福なわけではない。

 

父親は印刷会社のサラリーマン。母親は僕が小学校の頃からパートに出ていた。

四つ下に弟が一人いる。

小さい頃から「鍵っ子」という、東京の下町ではごく平凡な四人家族だ。

裕福ではないにせよ、不自由なく育ててくれた両親には今でも感謝している。

 

少年時代は運動神経がよかったこともあり、クラスの人気者だった。

子供の世界は足が速いというだけで主導権を持てる。

そのおかげで勝ち癖が付き、自信が持てる人間性ができあがる。

子供にスポーツをさせる親が多いのはこんなところだろうか。

 
高校生の時はヤンチャだった。

仲間と集団でバイクを走らし(反省している…)、朝帰りは頻繁で、学校や警察から自宅に電話がくることもあった。


のちに母親はいう。

「いつ呼び出しの電話があるかわからないから、あなたが成人するまではお酒は飲まなかったわ」。

警察から呼び出された親が、酔っ払っているわけにはいかない。という理由からだ。

親にはかなり迷惑をかけてしまった。

 

社会人になってからは多くの仕事を経験した。

日焼けサロン・レスストランのウェイター・引っ越し屋・宅配便・先物取引や健康食品の営業・現場監督など…。

どの職業でも人並みには仕事ができ、すぐに上司からも気に入ってもらえるタイプだった。

しかし、仕事が慣れてくると面白みが感じられず、どの仕事も長くは続かなかった。

この頃から、雇われて働くことへの不自由さを感じていたのかもしれない。

 

そんな半端な日々を過ごしていた僕に転機が訪れる。

 

ヤンチャで有名だった地元の先輩と偶然に再会した。

先輩とは小学校からの付き合いだ。

若いころは声もかけられないほどの迫力で、憧れの存在でもあった。

起業し、恵比寿に事務所を構えていた先輩は、

スーツ姿にゼロハリバートンのアタッシュケース、腕にはロレックスのエクスプローラーが輝き、変わらぬ迫力に加え、大人の魅力が漂っていた。

 

『忙しく動くのは好きか?』

 

確かこんなことを聞かれたと思う。

それを機に先輩の会社を手伝うことになった。

 

 

イベント業を経営する先輩のサポートをしていたある日、一つの案件が舞い込む。

先輩の知人で芸能プロダクションの社長が、在籍モデルの委託営業をさせてくれるという。

 

これが人生の最初の転機となる。

 

クライアントの新規開拓をし、営業やモデルの管理も僕が一人で行った。

利益が上がれば、給料も比例する出来高制だったため、考える力が重要だ。

これまでの仕事と違う点だった。

 二年後には先輩が社長で僕が専務取締役となり、新会社を設立するまでとなっていた。

プロダクション業に加え、BARを二店舗経営し、すべての管理を任されるようになる。

当時二十七歳で月収は百万円ほどになっていた。

外食も頻繁になり、知り合いも増えていった。


そんなある日、ヤンチャ時代の旧友数人と飲んでいたときのこと。

【地下格闘技】の話がでた。

 

地下格闘技とは、喧嘩自慢の不良たちが観客の前で殴り合いをするイベントだ。

総合格闘技のように薄いグローブはするが、ルールはなんでもあり

今では全国にも複数の団体がある。
その先駆けとなった東京の団体が知り合いだという。

 

『稲、やってみれば?』

 

なんだか知らないが、誘われているようだ。

 

『おもしろそうだな』

 

この程度の返事しかしていないと思う。

 

すると、友達はその場で電話をかけ出し、


『もしもし~、あっ、お疲れ様です。いや、俺の仲間で一人強い奴がいるんですよ~。
次回の大会に出たいというのでお願いします。』

とあっさり出場を決めてしまったのだ。

 

『出たい』と言った覚えはない…。

 

しかし何事も経験である。

 

その日から、仕事をしながらトレーニングをする日々が始まった。

 お酒も辞め、心身を鍛えていく行為は僕にとって苦ではなかった。

結局、それから二年間で五試合に出場し、負け無しという結果を残すことができた。

こんな経験はできるものではない。

その友達には感謝している。

※【ストイックスター稲】で検索できます。


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~Life is a journey~旅の前~③
    
  なりたい自分像から仕事を選ぶ


仕事とトレーニングを両立していた僕だが、
もう一つの転機となる趣味に出会うことになる。

それが、サーフィンだ。

毎週のように趣味の合うサーフィン仲間と千葉の九十九里海岸に通っていた。

 

サーフボード一つで波に乗る。

青い海に広い空。

陸には山が見え、健やかな風をたくみに操りトンビが鳴いている。

太陽のエネルギーで魂が充電されていくのがわかる。

サーフィンを通じて自然を感じ、地球を感じ、宇宙を感じることができる。

東京出身である僕には、自然を感じられる大切な時間だった。

こうして自然と触れ合う回数が多くなるにつれて、自分のライフスタイルに対する考え方に大きな変化を感じ始めていった。

 

先輩と共に会社を始めて七年が経ち、三十歳を迎えた頃、今後の人生設計を真剣に考えていた僕はある決断をだす。

 

男として、仕事は一生するであろう。

その仕事が、今やっている事で本当に後悔しないだろうか。

今の仕事にも、収入にも不満はない。

しかしこれから四十、五十歳と、この延長線上に自分の幸せはあるだろうか。

もっと自由に、もっと自分らしいライフスタイルを求めてはいけないものか。

何かを始めるのに遅いことなどない。

しかし早いに越したことはない。

思い立ったら止められない性格の僕は、先輩と話し、会社を退くことを決めた。

僕の人生に大きな転機を与えてくれた先輩には今でも感謝している。

 

しばらくの間は貯金もあったため、仕事はせずに次なる計画を立てることに集中した。

やりたい仕事があったわけではない僕は、なりたいライフスタイルを箇条書きでノートに書くことにした。

 

〇朝は苦手だからゆっくり起床できる仕事

 〇というかそもそも通勤はしたくない

 〇どこにいても仕事ができる

 〇海のそばで生活したい

 〇世界中を旅しながら仕事ができたら最高

 

こんな感じで、具体的な業種はなくとも、とにかく理想のライフスタイルを書きなぐっていった。

今見返しても、なんともワガママな内容ばかりだ。

あとはこのワガママ内容に当てはまる業種を探していった。

 

〇トレーニングをずっとしていたので、自宅でトレーナーもできるのではないか?

でもお客さんの予定を合わせなくてはならないし、人気がでたら自由がなくなる。

 

〇インターネットで無店舗販売なんかはどうだ?洋服や小物を仕入れて転売していく。

でも在庫を抱えるし、お客さんとのやり取りで手一杯にはならないだろうか。

 

こんな感じでいくつもの業種を見つけては、否定していく日々が続いた。

あくまで成功することを前提に考えているのだから幸せな奴である。

そして最終的にワガママライフにピッタリの業種を見つけた。

それがトレーダーだった。

 

当時はコンビニに置いてある雑誌でも、頻繁に株やFXの記事が目についた。

これだ!

在庫も抱えず、お客さんもいない。

自分のお金でお金を増やす。そのスキルを磨けばいいだけだ。

こうして決まったのがFX(外国為替取引)だった。

 

思い立ったらすぐ行動な僕は、さっそく東京の借家を解約して、千葉の九十九里海岸にある一宮町に引っ越した。

一宮は、のちに二〇二〇年の東京オリンピックでサーフィン会場に選ばれることとなる日本でも有数のサーフエリアだ。

そこで毎日サーフィンをしながら投資のスキルを磨き続けた。

 

もちろん、すべてが順調だったわけではない。
今までに数回の破産も経験した。

その度にバイトをしながら投資をやり続けてきたわけだ。

投資での奮闘の日々は、これだけで一冊の本が書ける。
機会があれば書いてみたいと思うが、
ここで伝えたいことは、可能性を自分自身で狭めてはいけないということだ。

 

【自分の限界は自分が決める】

一度は耳にしたことがある言葉だと思う。

この言葉は、例外なく万人に共通する事実だ。

 
昔、本で読んだことがある。

人間がアイディアや、やりたいことが浮かんだとき、何回チャレンジし、何回失敗したら諦めるものかという実験だった。

五回?三回?またはたったの一回?


答えは0回。

良いと思えるアイディアや、やりたいことが思い浮かんだとしても、
次の瞬間に頭の中で出来ない理由を探し出す。
そして一度もチャレンジすることなく諦め、日々の生活に戻っていくのだ。

同じようなことがたくさんの本でも紹介されている。

 

話しがそれたが…。

こうして少しずつトレーダーとしてのスキルが身についてきた僕は、キャンピングバスを購入し、二〇一六年の五月(当時三十六歳)から旅を始めた。

 

理想のライフスタイルを求めて。


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~Life is a journey~東北編~④


  仙台のキャンパー アタルさん


二〇一六年の五月から旅を始めた僕は、夏に向けて太平洋沿いを北へ進むことにした。

 

途中、茨城のサーフポイントでキャンピングバスが砂浜にハマり、
身動きがとれずにいるところを地元のサーファーに助けてもらう。
総勢十一名でキャンピングバスを押してもらい、脱出できたときは、一人一人にお礼を言って握手をした。

 

そのときのインスタグラムの投稿だ。

 

JAFだとバスはその場で現金十万円コースだと言われた…。

ちょうど前日にミニシャベルを購入していた。


やるだけやってやろうと一人で砂を掘り始める。


身体中が砂まみれになると妙にテンションが上がる。


砂場遊びをする子供のように…。


もしかしたらここに宝物があって、そいつを掘り出す合図なのかもしれない…。


なんて、小説【アルケミスト】を思いつつ堀り続ける三十六歳。


それからタイヤに噛ませる流木などを探して歩いた。


そこに後輪の幅にぴったりの板二枚と、これまた車幅にぴったりなカーペットが捨ててある。


この時点で『もう大丈夫』と妙な確信をする。


すべてをセットしてから近くのBBQグループに助けを求めた。


『掘れた?』って笑いながら賛同してくれる。


『もっと人数いるな~』と言うと離れたところまで人を呼びに行ってもくれた。


総勢十一名でバスを押し、奮闘しながらも生還できた。


一人一人と握手をしてお礼を言った。


『良かったですね』と笑顔をくれた。


とても温かい気持ちになった。


あっ、宝物…みつけたんだ。


また北茨城の海では、サーフィン中に知り合った地元の女性サーファーから後日、『道中、気を付けてください』と栄養ドリンクとクマジのおやつまで頂いた。

 

僕の勝手で旅をしているが、出会う人達の温かさを感じることが何よりの贈り物だった。



時間には制限がなかったこともあり、移動は基本的に国道を使った。

 

八月の上旬、僕は東北・仙台まで来ていた。

東北にも有名なサーフスポットがたくさんある。

僕はまず、以前にも何度か訪れたことのあるサーフポイント【仙台新港】へいった。

 

丘の上にある駐車場から太平洋を見合わせる人気のポイントだ。

台風のときには、ビックウェーブが期待でき、
丘の上の駐車場は、大波に挑む怖いもの知らずのサーファーや、それを見に来るギャラリーの観客席となる。

 

駐車場に着き、波チェックができる場所にうまく停めることができた。

すると、三台ほど隣に停めてあるキャンピングカーが目についた。

運転席にはキャップをかぶり、サングラスをし、真っ黒に日焼けした男性がこちらを見ている。


軽くお辞儀をした僕は、車から降りて海を見渡していた。

するとその男性が近づいてきて話しかけてくれた。


『どこから来たの?すごいバス乗ってるね~』


僕は自己紹介し、東京から旅をしていることを話した。


『へー、そうなんだ。俺はアタル。東北のサーフポイント教えてあげるよ。』

 

アタルさんは僕より五つほど年上で、
家はあるが、一年のほとんどをキャンピングカーで過ごしているという。

まさに僕がやりたかったライフスタイルだ。

キャンピングカーとサーフィンの共通点もあり、僕らはすぐに意気投合した。


『これから先輩のサーフショップにいくけど、稲も一緒に来ない?』


初めから名前を呼び捨てにしてくれ、引っ張ってくれる兄貴タイプのアタルさんに僕は好感を持てた。


初めて会う人との距離感はとても重要だと思う。
気を使って接すれば、相手もそれを感じ取り距離が縮まらない。

アタルさんの距離感は、知らない土地に来た僕にはちょうどよかった。

 アタルさんのキャンピングカーに先導され、僕らはサーフショップ【グレイスサーフ】へ到着した。


隣にコンビニがあったので、お邪魔する意味も含め、ビールを数本買って入った。

日曜日だったこともあり、店内にはショップメンバーの仲間が数人いた。

 


サーフショップは、その名の通りサーフィンの道具が売られている。

普通の商売に比べ、そもそもサーフィン人口は限られているため、地元に住むサーファーは友達を紹介したりして、ショップメンバーという形で深く繋がるスタイルが多い。


そのときいた人たちもみんなつながりのあるメンバーのようだった。

 

アタルさんが僕を紹介してくれた。

オーナーの大坪さんファミリーと数名のショップメンバーがおり、みなさんとても良い人達だ。


僕の買ってきたビールで乾杯し、話しをしているうちに、
この場にいる全員がキャンピングカーを愛車にしていることがわかった。

なんともすごい状況に僕はテンションが上がりまくりだ。

どこのポイントがどうとか、今まで一番良い波はどこだったとか、日本各地のポイント名が飛び交う。

まだキャンピングカーライフをスタートしたばかりの僕には、すべてが新鮮だった。

 

ビールも追加で買い出しに行き、奥さんや子供たちが帰ってからも、野郎だけでの宴(うたげ)が続いた。

 

『稲ちゃん、お盆まで仙台にいなよ。みんなでキャンプするからおいでよ』


オーナーの大坪さんが誘ってくれた。


『是非、行かせてください』

僕は即答した。

 

気が付けば、日付が変わる時間まで宴(うたげ)は続いていた。

みんな気持ちよくお酒がまわり、酒飲みの性(さが)ではあるが、お開きが寂しいという時間帯になっていた。


『稲、今日は駐車場で寝ていきな。明日も俺は休みだから、一緒に岩手県のポイントでサーフィンしようよ』


アタルさんがそう言ってくれたことを合図に僕らは渋々お開きを受け入れた。

 

どんなに酔っぱらっていても、その場が自宅になる。

お互いがキャンピングカーである上の特権だ。

 

キャンピングカーを利用したことのない方も多いと思うので、少し内装をお伝えしたいと思う。


僕のマイクロバス型は、再度のドアを開けると、正面に四人掛けのテーブルがある。その横に小さいけれどキッチンスペースがあり、モーター式の蛇口とシンク、ガスコンロが置けるスペースがある。大がかりな料理さえしなければ、何の不自由もない。


後部座席はベットスペースで、大人二名が寝られる。組み立て式のため、コの字型のテーブル席にも代えられる作りだ。

 

アタルさんのキャンピングカーは、外見は一般的に見かけるタイプのあの型だ。

内装のこだわりがすごく、壁紙から何からすべてをDIYで改装している。


他にもトイレやシャワーが付いているものもあるが、カビが生えるので取り外す人も多いときく。

 

最近はレンタルキャンピングカーもある時代なので、是非とも一度は体験してみてほしい。

人生感が変わってしまう覚悟をして…。




翌日はアタルさんと僕のバスで県をまたぎ、

岩手のシークレットポイントでサーフィンを楽しんだ。

アタルさんとは、お盆までの一週間、サーフィンしたり、お互いのキャンピングカーで晩酌をし、仕事のことから恋愛のことまでいろいろな話しをして過ごした。

なんだか兄貴ができた気分だった。

 

 

二〇一六年八月のお盆。

晴天に恵まれ、真夏の日差しが肌を焦がす。


指定されたシークレットポイントについた僕の目に、想像以上の景色が広がっていた。

キャンピングカーが五台にその他十台ほどの車が停められ、サイドにはテントスペースやキッチンスペースがある。

中央にはキャンプファイヤースペース。

テント式のトイレスペースまである。

 

着いてそうそうに、ビールサーバーから生ビールを手渡された。


『稲ちゃん、どんどん飲んでよ~。遠慮したって会費制だからね~』


大坪さんが気さくに言ってくれた。

大坪さんもまた、人との距離感がうまい人だな~と感じた。

 

初めて参加したグレイスサーフのキャンプは、毎年の恒例行事らしく、お盆や連休を使い、数日間ぶっ通しで行われるという。

大坪さんがファンクラブにも入っているという山下達郎の曲が大型スピーカーから流れ、朝はみんなでサーフィンをし、昼から生ビールを飲みはじめ、夜にはキャンプファイヤーを囲みながらギターを奏でる。

 

三日間、最高に幸せな時間の中にいた。

 

思えば、アタルさんに声をかけてもらったのがきっかけで、こんな展開にまでなるとは。

旅のすばらしさ、人との縁を実感した体験だった。


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~Life is a journey~東北編~⑤

  伝説のビック・ウェーバー


東北編の最後に、アタルさんから聞いた話をシェアしたいと思う。

キャンピングカーで晩酌しているときのこと、アタルさんが話し始めた。

 

『俺の先輩でゲンさんって人がいるんだ。この辺りでは有名な伝説のビックウェーバーでさ。』

 

ゲンさんは、アタルさんよりひと回り年上で、白髪交じりの長髪にヒゲをたくわえ、真っ黒に日焼けした肌だという。

僕は頭の中でハワイアンをイメージしていた。

 

ゲンさんは若いころ、ビックウェーバーになりたいとお祖母さんに相談したという。

するとお祖母さんは、


『月の呼吸をしりなさい』


そうとだけ答えたそうだ。

 

僕はアタルさんの話しにのめり込んでいった。

 

『あるとき仙台新港で大波が現れたんだ。

ギャラリーが集まる中、俺も友達と見に行った。そこにサーフボードを持ったゲンさんが現れて俺に言ったんだ。』


アタル、中で待ってるぞ。



『そう言って、大波の中に一人で入っていっちまったんだよ。

俺もサーフボードはあったけど、さすがにこの波では入ろうとは考えてなくてさ。

でもゲンさんに【待ってるぞ】と言われたら行くしかない。

そういう存在なんだわ、ゲンさんは。』



懐かしそうな表情でアタルさんは続けた。

 


『腹を決めて俺も入っていったよ。

しかしそこは俺の想像以上の場所だった。

波に乗るどころか、なんとか沖に漕ぐので必死でさ。

そしたら遠くの沖のほうから大きな波が入ってくるのが見えた。


やばい!


そう思いながらも必死に漕いでインパクトぎりぎりのところでかわすことができた。
だけど後ろを振り向いたら、ゲンさんがボードを捨てて、潜る瞬間が見えたんだ。
直撃を受けるところだった。

そのとき俺は、もうゲンさんに会えないと思ったよ。』



アタルさんは顔をしかめていた。



『何とか沖に出た俺は、ゲンさんの姿を探した。

すると、荒れ狂う大波の中に必死で泳ぐゲンさんをみつけることができた。

生きてたんだ。


次の瞬間、突風とともにゲンさんのボードが俺の頭上を飛んでいった。


取りに行かなければ…。


そう思った俺は、ゲンさんのボードに追いつき、抱え込むことができた。

でもさすがに無理がある。一人でも必死な状況だったわけだからな。』

 

結局アタルさんは、ゲンさんのサーフボードを保守できなかったという。


その後、極力小さい波を選び、アタルさんはなんとか大海原から生還できた。


全エネルギーを使い果たしたアタルさんは、砂浜にうずくまる。


そこへ先に生還していたゲンさんがやってきた。



『すみません。ゲンさんのボード、一度は掴んだんですが…。』

 


アタル、俺には仲間がたくさんいるけどな、お前はその中でも一番だ。』


そうほほ笑んで、ゲンさんは去っていったという。

 

『うれしくてさ。あの時のことは忘れられないよ。』


アタルさんの目には涙が溢れていた。

 


人の数だけ世界があり、物語がある。


旅を始めて最初に感じた出来事だった。


今でもアタルさんにはとても感謝している。


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~Life is a journey~近畿編~⑥


    和歌山の仙人



夏から秋にかけて東北地方を巡った僕は、
年末に向けて一度、東京の実家へ帰ることにした。


正月を家族や仲間と過ごし、二〇一七年一月中旬から旅を再開させる。


冬の間は南に向かおうと考えていた。


太平洋沿いを気の向くままに南下していった僕は、一月の下旬には和歌山県に入っていた。

 


ここでまた面白い出会いがある。

 


串本町にあるサーフポイントをみつけ、何日か滞在するために駐車場を探していたところ、

たまたま海を見渡せる丘の上に駐車場を見つけた。

車通りの少ない県道の山道脇にあるその駐車場には二台の軽ワゴンが停まっているだけだった。


邪魔にならないように隅のスペースにキャンピングバスを停め、クマジを連れて散歩にでかけた。


しばらくして駐車場へ戻ると、先ほどの軽ワゴンの横に椅子を出し、二人の男性が会話している。


僕が挨拶をすると、

『それ兄ちゃんのか?』

バスを指さして一人がいった。


『はい。そうです。お邪魔しています。』


そう言いながらキャンピングバスから椅子を持ち出し、

『ご一緒していいですか?』と横に座った。

普段より大胆になれることも旅の魔法かもしれない。

 


一人は六十歳くらいの短髪のおじさん。
見るからに人が良さそうだが、前歯がすべてない。


もう一人は、七十~八十歳くらいに見える。

薄くなった髪の毛は真っ白な長髪で、伸ばしっぱなしの長いヒゲも真っ白だった。


『仙人と呼びなさい。』


唐突にそう言われた僕の頭の中では、
子供の頃に夢中で集めていたビックリマンシールの神様、【スーパーゼウス】が浮かんでいた。

 


相手を認識する際、顔のパーツのどこを中心に識別するかは人それぞれ違う。

と以前何かの本で読んだことがある。


目を中心に識別する人、鼻や口など、中心に見る箇所は十人十色のようだ。


しかし仙人に限っては、この理論は通用しないのではないだろうか?


誰がどう見ても仙人なのである。

 


横に腰かけた僕は、昼間だったこともあり、コーヒーを振舞おうと勧めた。


すると二人とも

『酒のほうがいいわぃ』

と言って、お互いの車から大五郎のペットボトルと角ウィスキーのボトルを持参した。

 

僕も負けずと飲みかけのジンビームで応戦させて頂き、即席の宴(うだげ)が始まった。

 


二人とも車中生活を何年も続けており、数年前にこの駐車場で出会ったという。


『ワシは普段、山の中に住んでるんじゃが、冬になるとここにきて車中泊をするんじゃよ。

全国旅したが、冬は和歌山が一番暖かいぞ。』


仙人はそう言うと、角ウィスキーをストレートで一口飲んだ。

 

『山の中に住んでいるなんて、本当に仙人ですね~。』僕が返すと、


『浮世(うきよ)にうんざりしたからな。』


そう言って、また角ウィスキーを一口飲んだ。

 


そこから、仙人が経験した若い時の話に僕はのめり込んでいくことになる。

 


『お前さんと同じくらいの時にワシも旅をしていてな。あるとき、森の奥地でキャンプをしていたんじゃ。

すると一台の大型バイクが近づいてきた。

よく見ると運転しているのは若い女性だった。

大型バイクに積めるだけの旅道具を乗せた女性はわしに話しかけてきた。』

 

『おじさんも旅をしているの?よかったら一緒に魚を食べようよ。』

 


彼女はそう言うと、ハンドルに引っ掛けてあるビニール袋から魚を数匹とりだしたという。


その魚はどうしたのかと仙人が聞いてみると、手ですくい上げたと答えたらしい。


彼女いわく、手の平を上にして川に突っ込む。


しばらく待つと、好奇心旺盛な魚が近寄ってくる。

そして手の上を通った瞬間にたたき上げるのだという。

 


『それ、熊が鮭を捕る手法じゃないですか!』


僕は思わず口をはさむ。

 


満足げにほほ笑んだ仙人は、話しを続けた。


『しかも面白いのがここからじゃ。


ワシと彼女はそこでキャンプをすることになった。


お酒好きという彼女の荷物がほとんど酒だったことには驚いたもんじゃよ。』

 


仙人の話によると、彼女は大学生。


親の教育で無理やり大学に通わされていたものの嫌になり、勝手に大学を辞め、返金された親のお金でバイクを購入して旅にでたという。

 


僕は今まで自分は変わり者だと思ってきた。

でもその考えをあらためなくてはならない。


世の中は、僕が考えているよりもずっと深そうだ。

 



仙人は続けた。


『ワシらは酒を飲み、いろいろな話をしとった。』
すると彼女が言った。


『おじさん野生の熊を見たことある?私は友達になれるんだよ。』


見たことがないと言ったワシに、明日連れて行ってあげるというのじゃ。


内心怖かったが、ひと回り以上も若い彼女に

かっこ悪い返事はできんからな。』

 


翌日、彼女のバイクに乗り、近くの山まで行ったという。


途中でバイクを停め、歩いて山を登っていると、
『ここだよ。』

彼女は振り返り、にっこり微笑んだ。

 


『ワシはそこで周りを見た。すると横の獣道から顔をのぞかせている熊と目が合ったのじゃ。
気が付けば周りは数匹の野生の熊に囲まれておったよ。

もう震えが止まらなくて、その場で小便を漏らしてしまったわ。』


話し終えた仙人は、残りの角ウィスキーを一気に飲み干した。

 


すごい話に僕は興奮した。


『そんな女性がいたら、惚れちゃいますね?』


僕がそう言うと、仙人はまんざらでもない顔で笑みを浮かべた。


その後、彼女と仙人がどうなったのかは聞かないでおくことにした。


想像するということも人生の楽しみなのだと思う。

 

 


それからの数日間、
サーフィンをしながら仙人たちと過ごした僕は、

『またお会いしましょう』。

と、旅人の決め台詞を残し、四国へ向かった。


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~Life is a journey~四国編~⑦

  リアル『田舎に泊まろう』 志藤さんファミリー



仙人と過ごした和歌山県を出発した僕は、淡路島を経由し四国に入った。

徳島県にも有名なサーフポイントはいくつかあるが、
僕は気の向くままに高知県までキャンピングバスを走らせた。

直観といったら聞こえはいいが、【なんとなく】という感覚を頼りにして進む。

旅をしていると《この感性》が磨かれていく気がする。

高知県に入り、海沿いの県道を走っていると数人のサーファーの姿がみえた。

空地のような駐車スペースがあったので、僕は立ち寄ることに決めた。

尾崎というポイントだった。

まわりは山に囲まれていて、近くには数件の民宿と一件のよろずや商店しかないような場所だ。


いつものように、邪魔にならない隅のほうへバスを停めた。

外へ出ると近くにいた家族連れのサーファーに挨拶をした。

これが志藤さんとの出会いだった。

志藤さんは四十代後半くらい、香川県出身で、今は結婚し高知県に住んでいるという。

奥さんと二人の子供がいるとても家族思いの温かい人だ。

この時は一緒に海に入り、譲り合いながらサーフィンをした程度で、先に上がった志藤さんは、ビーチから手を振り【帰る合図】を送ってくれた。

僕も海の中から大きく手を振り、お辞儀をして別れた。

 

尾崎のポイントが気に入った僕は、そのまま留まり、波がある日はサーフィンをし、波がない日は素潜りをして過ごした。

毎日通っていた“よろずや商店”のお母さんとも顔見知りになっていた。

一週間後、尾崎でのサーフィンライフを満喫した僕は、海沿いを西へと向かった。

数時間走り、大きな橋に差し掛かったとき、またも数名のサーファーを発見した。

橋を渡り切ったところに海と隣接している道の駅があったので、そこで休憩することにした。

高知県を流れる一級河川である仁淀川。

その河口にあるサーフポイントには、道の駅もあるせいか、複数のサーファーや観光客らしい人で溢れていた。

僕は道の駅で軽い食事をとり、バスに戻ってくつろいでいた。

そのときバスがノックされる。

四国に友達はいない。

仙台のアタルさんから『キャンピングカーは意外と警察から職務質問をされるぞ。』と言われたことを思い出す。

僕は捕まるようなことはしていないが、一応車内の持ち物を確認してからドアを開けた。

するとそこには、志藤さんが立っていた。

『やっぱり稲さんだ。また会えてうれしいよ。あれからずっと考えていたんだ。また稲さんに会いたいな~ってね』

そう言ってくれた志藤さんは、このポイントにもよく来るらしく、今日は仕事の合間に波チェックに来たという。

どっぷりなサーフィン熱に感心した。

『稲さん、しばらくこっちにいるなら飲みに行こうよ。ぜひ高知県のカツオを食べさせたいからさ。』

志藤さんは、そういうと道の駅のすぐ裏にある丘台の第二駐車場を教えてくれた。

『ここは普段使われてなくて、誰も来ないから停めて置けるよ。』

そう教えてくれた志藤さんと連絡先を交換して別れた。

その日から志藤さんは、毎日のように僕のバスへ顔をだしてくれた。

おいしいカツオがあるお店にも連れって頂き、

珍しく高知県に雪が降った日には、自宅へ招待され、泊めてまで頂いた。

昔TV で放送されていた『田舎に泊まろう』リアル版だ。

志藤さん宅に着くや、子供たちが次々に自慢のおもちゃを出してきた。

カードゲームにミニチュアの機関車、何たらレンジャーの仮面を被って追い回される。

クマジは【きびだんご】をもらったごとく吠え叫び、子供たちを援護した。

いつの時代も子供の遊びは変わらず、来客の大人は悪役に徹するものだ。

ひと通りのおもちゃを披露し、満足した子供たちと僕は一緒にお風呂に入り、奥さんの手料理を頂いた。

子供が寝てからは、大人だけの宴(うたげ)が深夜まで続いた。


『志藤さんと奥さんの馴初めを聞かせてくださいよ。』


カップルがいる飲み会では定番の話題を僕が切り出す。

すると、
『結構面白いよ』と、福神様のようにニンマリと懐っこい笑顔で志藤さんは話し始めた。

志藤さんは二十代の頃、アメリカに住んでたことがあるという。

『サーフィンやっていたし、やっぱりアメリカは憧れじゃん。あてもなく渡米したんだけど、アパート近くにあった古着屋のオーナーと仲良くなってさ。そこでバイトさせてもらいながら生活してたんだよ。』

どこにでもいるような家族思いのお父さん。

人は外見だけでは分からない。そうつくづく思った。

人それぞれに物語がある。夜空の星や花言葉のように。

志藤さんは続けた。

『一時的に日本へ帰国したときに、友達から飲み会に誘われてね。そこに来ていたのが彼女なんだ。地元にこんな可愛い子がいたんだって思ったよ。』

そう言って志藤さんは、顔立ちの整った綺麗な奥さんを見た。

奥さんは照れ臭そうに微笑む。

志藤さんより年下の奥さんは、当時高校生だったという。

『さすがに高校生には手をだせないからね。連絡先だけ交換して楽しく飲んだよ。』

志藤さんがそう言うと、

『私はソフトドリンクだからね』と微笑みながら奥さんが補足した。

志藤さんは続けた。

『その後はアメリカに戻ったからね。彼女とはたまに電話で近況報告をする程度だったんだよ。』

しかしそこから話が急展開する。

志藤さんは続けた。

『その年の夏休みに、彼女がいきなりアメリカにある俺のアパートにきたんだよ。夏休みの間、お世話になります。ってね。』


手紙も交換していたのでお互いの住所は知っていたというが、高校三年生が夏休みにとる行動の範囲を優に超えている。

『僕は、変わり者なんかではないかもしれない…』

ここでもまた、世の中の深さを痛感させられた。


志藤さんは続けた。

『夏休みとはいえ、さすがに親へ連絡しないとまずいだろ?

俺も彼女を好きだったし、彼女もこうして行動を起こしてくれたからね。

アメリカから親御さんに電話かけて、「僕が責任をとります」って伝えたよ。

もうほとんど婚約しちゃったんだ。』

笑いながら話す志藤さんの横で、確信犯のように微笑む奥さん。


“女は怖い”
とは、多くの意味が含まれるようだ。 

こうして志藤さんにぞっこんだった奥さんの勝利により、二人は結婚することになる。

それにしてもなんだろう。

志藤さん家族を見ていると温かい気持ちになり、胸が熱くなる自分に気づく。

『素敵な家族だな~。僕も結婚したいな。』


心の底からそう思える出会いだった。

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~Life is a journey~四国編~⑧

      本木のおっちゃん



翌日、志藤さん宅で目覚めた僕は【ある企画】を思いついた。

『志藤さん、今日は休日でしたよね?本木さんとBBQしませんか?』

 

 

数日前のこと、
いつものように志藤さんは僕のバスが停めてある駐車場へ、仕事の合間に顔をだしてくれていた。

すると、普段は使われてないはずのこの駐車場へ一台の軽ワゴンが入ってきた。

近くに停まったワゴンから出てきたおじさんは、慣れた手つきでテーブルとイスを出し、
年期の入った水筒から液体をコップに移して飲み始めた。

年齢は、僕の親くらいではないだろうか。

僕と志藤さんが挨拶をすると、

『しばらく停まっているね?旅でもしてるのかな?』

そう言って、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。


これが本木さんとの出会いだった。 

本木さんは、この丘の駐車場が見えるすぐ裏に家があるようで、
数日前から停めている僕のバスを知っていた。

今は頼まれたときにしか仕事はしていないらしく、
よくこの駐車場に来ては、海を眺めながら一杯やるらしい。 

水筒の液体は焼酎割りだった。

『家にいても母ちゃんはうるさいし、この辺の年寄りは世界を知らんからな、話していてもつまらんよ。』

そう話すと、本木さんは二本目の煙草に火をつけた。

折り畳み式のテーブルの上には、二箱のキャスターマイルドが積まれている。

ヘビースモーカーのようだ。 

仕事の合間だった志藤さんは帰り、僕と本木さんの宴(うたげ)が始まった。

『おっちゃんはな、若いころ仕事で世界中を飛び回っていたんだぞ。』

本木さんはそう言うと、年期の入った水筒から焼酎割りをコップに移し一口飲んだ。


石工職人として川の土石を作り、世界中に出向いていたという本木さんは、
自身のことを【おっちゃん】と呼ぶ。

『これだけでは足りないな。稲くん、おっちゃんちにおいで。』

年期の入った水筒を空にすると、
半ば強引に僕は近くにある本木さん宅にお邪魔することとなる。


本木さんの家は母屋と庭に離れの小屋があり、
奥さんが母屋、本木さんは離れに住んでいるらしい。

僕と同い年の娘さんがいて、高知市内で一人暮らしをしているとう。

『稲くん、娘はまだ独身なんだよ。』

そう言った本木さんの言葉に含まれる意味を僕は深追いしないようにした。

 

本木さん宅にお邪魔するや、芋焼酎で乾杯をし、宴(うたげ)が再開した。

『稲くん、内臓は好きか?』

これまた年期の入った七輪を持ち出しながら本木さんが言う。

『おっちゃんは内臓が大好きでな。

数年前に癌をやったんだが、そんなもの食べてるからよ。って母ちゃんに怒られたよ。』

本木さんの言う【内臓】とは【ホルモン】のことらしい。

指示されて冷蔵庫を開けた僕は、ひと塊のホルモン肉を取り出した。

まだ大丈夫だろう。おっちゃんはいいから、稲くん食べなさい。』

そう言って年期の入った七輪に炭を入れ、火を起こす本木さん。

母屋に奥さんがいるとはいえ、この離れでほぼ一人暮らしの初老が言う『まだ大丈夫だろう』。

この響きが気になったこと、それは言うまでもない。

しかし、本木さんのご厚意を断るほど僕は世間知らずではない。

“しっかり焼いて”頂くことにした。


芋焼酎を飲みながら本木さんは、趣味であるマス釣りの話や、写真を見せてくれた。

好きなことの話をしている本木さんは、子供のような顔をする。

僕もこんなおっちゃんになろうと思った。 


二人で芋焼酎のボトルを飲み干すころには、本木さんの目は30%ほどしか開いていなかった。

すると突然、眠そうな目で僕のほうを見た本木さんは、

『稲くん、おっちゃんが死んだら灰を川に流してくれよ。』

そう言って横になり寝てしまった。

あまりにも急な、そして意外な言葉に驚いた僕は、寝ている本木さんの呼吸を確かめた。

“ただ寝ている”本木さんを確認してから、母屋の奥さんに挨拶をして帰ることにした。

すると奥さんが車で僕を送ってくれた。

『ごめんなさいね。あの人は若い人と話すのが好きでね。よくこうやって連れてきてはお酒を振舞うのよ。』

送って頂いている車内で奥さんから聞いた。

『だからあんな表情でいられるんだろうな』そう思い僕は、

子供のように好きなことの話をする本木さんを思い浮かべた。

 

その日の深夜、

ものすごい吐き気とともに僕は目を覚ます。

外にでる間もなく、
キャンピングバスの窓から顔をだした僕は、

胃の中にあるホルモンをすべて吐き出していた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

~Life is a journey~四国編~⑨

  涙に浮かぶ満月



志藤さんはBBQ企画に賛成してくれた。

携帯の番号を交換していた僕は、
本木さんに電話をかけ、約束を取り付けた。


僕らは待ち合わせ時間に遅れぬよう、スーパーで食材を買い、
志藤さんの車でバスの停めてある海が見渡せ、普段は使われていない駐車場へ向かった。


駐車場では、すでに到着していた本木さんが芋焼酎を始めていた。


志藤さんは改めて挨拶をしてから家族を紹介した。


テーブルとイスを用意し、キャンピングバスのキッチンで食材をカットし、
本木さんの年期の入った七輪で焼き、みんなで食べた。

『志藤くんたちにも内臓を食べさせてあげたかったな~』と残念そうに言う本木さん。

その横で、【内臓】という表現に騒ぎだす子供たち。

その横で、嘔吐した異物をきれいに掃除しておいてよかった、と安堵する僕がいた。


その日は二月の下旬だというのに暖かく、

スピーチの切り口にもってこいの“雲一つない晴天だった”

クマジは子供たちと走り回る。

本木さんの言った冗談に僕が突っ込みを入れる。

それを見て、志藤さん夫婦がほほ笑んでいる。

僕は、自分が置かれている幸せな状況に胸が熱くなっていた。


昼過ぎから始めたBBQだったが、辺りはすっかり暗くなり、
冷たい風が二月だということを思い出させる。

本木さんはこのまま軽ワゴンに泊まっていくというので、
心配させないように僕は奥さんへ電話をかけるようにすすめた。


翌日仕事がある志藤さん家族は帰り支度を始める。


僕も明日、四国を出発する予定だったので、これでお別れだ。


『志藤さん、いろいろお世話になりました。本当にありがとうございました。』

僕は、涙をこらえながら握手をした。


『こちらこそ。稲さんと出会うことができて本当に良かったよ。』


そう返してくれた志藤さんの目にも涙が溢れていた。

奥さんにもお礼を言って、子供たちを抱き上げた。

『稲さん、またすぐにお家にきてね。』

そう泣きながら言う子供たち。

僕は、必ずまた来ると約束をした。


志藤さんの車が発車したのを見届け、

振り返ろうとする僕の背後から、本木さんの声が飛んできた。


まだだっ!


その鋭い声に僕は振り返るのを止める。

『車が見えなくなるまで手を振る。

そして見えなくなる最後に深くお辞儀をするんだ!』

僕は背後から聞こえてくる本木さんの言葉にならい、手を振り続けた。


そして車が左折する手前で深くお辞儀をした。

 

深いお辞儀を終え、顔を上げたときに見えた満月の風景は今でも鮮明に覚えている。


椅子に戻った僕は、本木さんにもお礼を言った。


『志藤くんにはお世話になったんだね。』

そう言った本木さんに対し、

『はい。とても…。』


涙が止まらない僕は、それ以上話すことができなかった。

 

 

翌日、バスをノックする音で僕は目覚めた。

『稲くん、起きてるか?』

僕が寝ていることを知っていて、しつこくノックする本木さん。 

バスのドアを開けると、

エンジ色のベレー帽をかぶり、バッチリ決めた本木さんが立っていた。

ベレー帽にはマスの刺繍がほどこされている。

 

『稲くん、こっちにきて座りなさい。』


そう言った本木さんの横へ、寝ぐせで爆発している長髪をゴムで束ねてから座った。


『おっちゃんにはな、日本各地に仲間がいる。もしこの先、旅で困ったら電話してきなさい。』

本木さんは珍しく真剣な顔でそう言ってくれた。


『この同じベレー帽をかぶっている人を見かけたら、おっちゃんのことを話すといい。みんな力になってくれるぞ。』

本木さん宅にお邪魔したときに聞いていた。

全国にいる釣り仲間は、企業の社長や医者、政治家まで幅広く、

年に一度は北海道の旭川に集まり、一週間ほどキャンプをするという。


『これからどこに向かうんだ?』

​本木さんにそう聞かれた僕の頭の中には、ぼんやりとだが目的地が浮かんでいた…。​

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