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生きると決めた日、それを忘れた日々、思い出した今日。総集編

Image by Olia Gozha

①現在


今、目が覚めた。

布団に沈む体、ほとんど動かない手足、首だけ回すと窓から見える空が突き抜けるように青い。

部屋の中に視界を戻す、ギターが4本、一番大事なギターがいない。


間も無くして昨日の出来事を思い出した。

単発のバイトの帰り、初対面の、しかも二回りほど歳上の女性から2500円と気持ちをもらったのを思い出す。

その場で現金支給だったが時給は安く、

その日給料の3分の一ほどに値するお金はとても大きく感じた。


別に特別なことをしたつもりはなかった。


彼女は言っていた。

「君自身が特別なんだよ。

そのポテンシャルを忘れてはならないよ。」

素直には信じられなかった。

自己投資と思って使った金は今活きていない。

俺は高卒で、就職もせずフリーターで、20歳を超えてから音楽を始めてしまったような大馬鹿だったからだ。


でも、覚えがあった。

その言葉は初めて言われた言葉ではなかったからだ。

そのような形でお金も、気持ちも初めてじゃなかった。

三年前、あのギターと日本中を旅をした記憶が蘇った。

その時の空模様と、汗で張り付いたシャツの感覚を、

旅の中であったたくさんの出来事を、

そしてその旅をするに至った、人との出会いのきっかけを

ただ、思い出した。


全ては事実だった。



②3年前、7月


当てのない旅を始めて7日目くらいの頃だったか、自転車がパンクした。

実は2日目から何度もパンクはしていたが、この時はタイヤごと裂けてしまっていた。

原因は交換が下手だったのもあるけれど、道が険しすぎたこと。荷物が多すぎたのはある気がする。


それまでの数日ですでに、千葉県から茨城、日立の山を超えて福島、そこからまた何度も山を越えて宮城、ようやく岩手にたどり着いたがまたすぐに険しい道…

どうにも厳しい道のりを超えてきてしまっていた。

田んぼがたくさんあった道、土手でギターを弾いて気分を変えた。

下手すぎて話にならなかったけれど、気分は少し上がった。

たまに車が通り過ぎるが、ほとんど人通りのない田舎。自転車屋は近くになかった。

強くなかった俺は、100キロ以上離れたやっているかどうかもわからない店のためにギターを背負い、自転車を押しながら進める自信がなかった。

勢い出ててきたから金はほとんど持っていなかった。

辛い時、人はいろいろな苦しい過去を思い出す。


俺は2年前と昨年末の不幸を思い出す。

どうしようもない不幸を思い出して、更に自分は追い詰められた。


涙が、溢れた。


その時、後ろからクラクションを鳴らされた。



振り返ると小さなトラック。

おばさんと、若者。


おばさんは、俺のところまで駆け寄ると、


5000円札を俺に握りしめさせた。


君が歩いているのが見えた。

放っておかなかった。


名前も教えてくれなかった。

そのあと、若者(息子さんだろうか?)の車に乗せられ、盛岡の自転車まで自転車ごと乗せて連れて行ってもらった。


あまりの出来事にお礼の言い方すらわからなくなって号泣、「メンタル弱っ(笑)」

なんてお兄さんに笑われたのはよく覚えている。


そこからだったか、勇気を与える側になっていたことに気づいたのは。


お兄さんに当てを聞かれ、とっさに東北を回ろうと思っていると答えた。

それまでの数日でも、千葉から来たといえば大抵の人は驚いてくれたが、その人は驚かない。

「本州一週くらいしてくれねえと驚かない」と言われた。

東日本を回ろうと、決めたのはその瞬間だったが、新潟に差し掛かる頃には本州一周することを決めていた。


そもそもこの旅は、そういうことのための旅だったから。

自分探しでもなく、友達を増やすためでもなく、イベントやら何かの企画でもなく、

自分の小ささに、向き合う為の、人との出会いで心の底から変えるための旅だったから。

俺は付け替えたタイヤで、また何度も漕ぎ出していた。




③5年前まで。



4歳か、5歳か、そのくらいの頃に親に離婚をされた。

親父が好きだった。

しかし母について行った。

その後は、父には一年に数回ほどしか会わせてもらえない生活だった気がする。

住んでいた祖母の家の前に来るのは珍しく、大抵駅のロータリーで待ち合わせた。


父については今でも思い出す。

絵がうまかったこと、

作る料理がしゃれていたこと、

シャレはつまらなかったこと、

言葉が不器用だったこと。




俺が10歳の頃に母は再婚、新しい父に育てられた俺は、苗字が変わり、別の人間になった。

学校を飛び出して何度も教職員に迷惑をかけたような、落ち着きのない俺を義父は厳しく育ててくれた。


それでも、どこか心に歪みを残していたから、その後のいろいろにぶつかってしまったのだろう…



20歳になる年の頃まで話は飛ぶ。

その頃も俺はフリーター。9月までは19歳。未成年。

当時の俺はようやく鬱、躁鬱などの心の病との付き合い方を覚え、2年前高校生だった頃にあったたくさんの辛い思いとも折り合いをつけられた頃だった。


あらゆることに意味を感じられなくなっていた俺だったが、たった一つ、光明を見出した。


親父に親孝行をしようという考えを思いついたのだ。



二十歳になると人は成人する、そこで初めて、1人の大人として彼と深くやりとりができる

。新しい家族の一員の自分から一社会人になれる。

そうしたら自由に会える、関われるじゃないかと。


何の偶然か、親父はそのタイミングで引越しをして、その手伝いを俺に頼んでくれた。

他の親戚ではなく、俺にだけその住所も伝えられて、そこで一緒に暮らす案も出た。

チャンスは今しかないと感じた。



俺の親孝行の計画は、

「親父が大好きな音楽、俺が作る側に演奏する側になって聴かせてあげること」

だった。


歌が誰より得意だと自負していた。

加えて勉強も得意だった。

ろくに授業を受けなくても平均点は取れたし、全国学力テストでは偏差値70代だってとったことあった。

(習い事もせず、自宅学習もせずだ)


そんな自分だったので

「いい大学に行って面白いやつとバンドを組んで親父が好きな音楽を聴かせる」

これ以上のアイデアはないと思い、通信の教材を買い、歌の習い事も初めた。


掛け持ちした店では賞をもらったし、

10月頭には人生初の生バンドでのライブもやった。

勉強もわかることの方が多く、調子づいていた。


全てはうまく進んでいっているはずだった。



ライブの数日後、親父がICUに運ばれだとの連絡が入った。





死ぬなんて思っていなかった。



また俺は失った。




④過去(3年半前) 出会いまで


全てに絶望した。

なぜこのタイミングだった?

積み重ねた努力、悩んだ時間、乗り越えて進もうとしたエネルギー、その全てが否定された感覚しかなかった。


俺は死にたくなった。

二十歳になりたての俺は遺産の話に巻き込まれ、父の思いとはきっと違う形での解決に向かっていくのを心臓が痛いのを感じながら眺めた。


何度も死にたくなった。

死に切れなかった俺は、生きる理由を別のところに求め始めた。


学童の先生になった。

子供が好きだから、年の離れた兄弟がいて面倒見の良さには自信があるから、

いくらでも言えたさ。


本心は、

「子供はすぐに死なないから」

こんなクソみたいな理由で指導員やっていたなんて、今思えばふざけてる。


それでも子供たちのことを真剣に見つめ続けたし、その想いが伝わる場面は何度もあり、素晴らしい時間を過ごした。

本当に素敵な時間を過ごした。

それでも、染み付いた考えや、重い後悔は俺を掴んで離さない。

2つの極の間を行ったり来たりする日々だった


そんなある日、子供の前で歌を歌ったら、普段素直じゃない子供が

「よしきうたうまいね」

なんて言ってくれた。


あぁ、音楽は死んでいなかった。


そう気づいた俺は子供たちのために始めたばかりのギターを持ち込み、弾き語り、密かにギターの習い事も始めた。

あまりにも高かったのでスクールを変えたところ、ボイストレーニングも受けられる校舎だというのでそれを受けてみようと軽い気持ちでレッスンを受けた。


それが人生を変える出会いに繋がると俺は思っていなかったよ。


素晴らしいコーチがいた。

そのコーチに、何か自分に近しいものを感じていた俺は、何度も彼だけを指名するようになり、ギターは習わなくなった。

ある日、彼は俺を馬鹿だと思っていたと言う。

俺は悔しくて成績が良かった頃の話をする。

なら何故大学にいかなかったのかと聞かれ、そのままの理由を答えた。

不登校、人間不信の過去、気づけばそのあとの引きこもりと親父の一件まで全て語ってしまっていた。レッスンの終了時間は当然過ぎていた。涙目溢れて止まらなかった。


一通り聞き終えたあと、彼はいう。


「僕は君が羨ましい。

僕はもう涙の流し方もわからないんだよね」


重みが、違った。



⑤生きると決めた日



彼の言葉の全ては俺に突き刺さった。


親に捨てられ、3歳の頃には見返すことを決断し、豚小屋のようなところに押し込められながらも、強くあり続け、そしてある日折れてしまった男の話を、彼はしてくれた。


男が浮浪者の頃、どこだかで聴いた音楽が、自分のそれまでのものと大きく違うことに気付いたという。


自分のためにじゃダメだと。

誰かのためにやる音楽じゃなきゃダメだと。

男は気付いたという。


俺も同じだった。いつのまにか、やることなす事が自己満足のためになっていた。きっとそのせいでダメだったんだ、そう思った。



俺は彼に

「俺と同じ歳の頃は何していましたか?」と聞き、

「放浪していた。」

と彼は答えた。



それが俺が旅に出たきっかけだ。




追えば何かが見える気がしてならなかった。

この人を追いかけたいと思った。


彼が海外で認められるトレーナーだからじゃない、国内最王手事務所と契約していたことがあゆからじゃない、人間の部分に共鳴した。

その点において俺は他の生徒と違うと自信があった。

証明してみせる。

そして必ず俺は蘇ってみせる。

親父の分まで生きて世界を驚かせてやる。

音楽の力を、人の心の力を知らしめて、1人で苦しんでいる人を失くしてやる。


そう強く思った。



それが生きると決めた日になっていた。


ほどなくして長く続けていた仕事を辞め、二十万を切るわずかな資金で旅に出た。


世界は広く、どうしようもないものと、愛おしいものと、混沌して入り混じっていた。



⑥忘れた日々、思い出した今日。


本州を回って帰ってからも、何度も現実にまた打ちのめされた。

それでも音楽をやめなかった。

勉強もやめなかった。


あらゆる仕事に手を出した。

もっと大きくなりたかった。

無力ばかりが目についた。

日々に追われて次第に忘れ、薄れていく自分に怯えた。

焦るせいで、人に騙されることもあったし、それがきっかけで大きな負債も抱えた。


でも諦めはしなかった。

何度も忘れたし、わからなくなったけど、本当にやりたい事がはっきりしていたからだと思う。


その後ついてもいろいろな話がある。


仕事の話やアメリカに行った話、先生のアシスタントをした話。短い恋の話や、友だちとの話。自分が人に教えごとをし始めた時の話…


何もなかったように感じた日々は、あの頃の俺から全て地続きなのだと、今は感じられる。



思い返せば、その全てについて語れるくらい、俺は生きていた。


苦しい事が多すぎた。


コロナの一件のせいで、トリプルワークまでして貯めた15万は消え、その後の収入はマイナス10万が3ヶ月も続いた。

俺が教える方のレッスン予約も消えたし、

引越しの計画も潰れ、ライブは五本も潰れ、漕ぎ出すはずだった企画も消え。

俺は今ずっと絶望していた。



あの女性に言われた言葉を思い出した


「忘れなてはならない」


あぁ、まだ死んでなかった。





思い出したよ。


⑦夢の話


俺は音楽、とりわけ歌が大好きだ。


声には人の全てが表現される。


俺たちは声無しには生きられない。


単なる音声データではなく、言葉。

そしてその言葉の帯びている色、込められた想い。とてつもない情報量がそこにはある。



声を極めることは、伝える事を極めることに近しい。


言葉を大事にすることは心を大事にすることに近しい。


音楽を楽しむことは感情に触れることに近しい。


ならば、

「歌は人として必要な事を全て内包しているツールで、伝える手段の究極系なのではないか?」

というのが俺の考えだ。


俺は歌いたいし、たくさんの人が歌えるようにしてあげたい。

みんな自分の可能性に気づいてくれよ。



それが俺の夢なんだ。


もっとたくさんの人を孤独から解放したい。


絶望から希望に変えてやりたい。

かつての先生と俺のような出来事を多くの人に体験してもらいたい。



それが俺の夢なんだ。




それが叶えば、


父はきっと一番喜ぶ、そう信じている。


そう願って俺は今、また言葉を紡いでいる。



読んでくれた人が、いつか俺の声を聞いてくれることを願って、話を終えます。


ありがとう。

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