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生きると決めた日、それを忘れた日々、思い出した今日。③

Image by Olia Gozha

4歳か、5歳か、そのくらいの頃に親に離婚をされた。

親父が好きだった。

しかし母について行った。

その後は、父には一年に数回ほどしか会わせてもらえない生活だった気がする。

住んでいた祖母の家の前に来るのは珍しく、大抵駅のロータリーで待ち合わせをしていた。


父については今でも思い出す。

絵がうまかったこと、

作る料理がしゃれていたこと、

シャレはつまらなかったこと、

言葉が不器用だったこと。




俺が10歳の頃に母は再婚、新しい父に育てられた俺は、苗字が変わり、別の人間になった。

学校を飛び出して何度も教職員に迷惑をかけたような、落ち着きのない俺を義父は厳しく育ててくれた。


それでも、どこかに心に歪みを残していたから、その後もいろいろな事にぶつかってしまったのだろう…



20歳になる年の頃まで話は飛ぶ。

その頃も俺はフリーター。9月までは19歳。未成年。

当時の俺はようやく鬱、躁鬱などの心の病との付き合い方を覚え、2年前高校生だった頃にあったたくさんの辛い思いとも折り合いをつけられた頃だった。


あらゆることに意味を感じられなくなっていた俺だったが、たった一つ、光明を見出した。


親父に親孝行をしようという考えだ。



二十歳になると人は成人する、そこで初めて、1人の大人として彼と深くやりとりができる

。新しい家族の一員の自分から一社会人になれる。

そうしたら自由に会える、関われるじゃないかと。


何の偶然か、親父はそのタイミングで引越しをして、その手伝いを俺に頼んでくれた。

他の親戚ではなく、俺にだけその住所も伝えられて、そこで一緒に暮らす案も出た。

チャンスは今しかないと感じた。



俺の親孝行の計画は、

「親父が大好きな音楽、俺が作る側に演奏する側になって聴かせてあげること」

だった。


歌が誰より得意だと自負していた。

加えて勉強も得意だった。

ろくに授業を受けなくても平均点は取れたし、全国学力テストでは偏差値70代だってとったことあった。

(習い事もせず、自宅学習もせずだ)


そんな自分だったので

「いい大学に行って面白いやつとバンドを組んで親父が好きな音楽を聴かせる」

これ以上のアイデアはないと思い、通信の教材を買い、歌の習い事も初めた。


掛け持ちした店では賞をもらったし、

10月頭には人生初の生バンドでのライブもやった。

勉強もわかることの方が多く、調子づいていた。


全てはうまく進んでいっているはずだった。



ライブの数日後、親父がICUに運ばれだとの連絡が入った。





死ぬなんて思っていなかった。



また俺は失った。

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