【宗教にハマる母と引きこもりの兄。テストの点を言えない家庭で育った】
広島の街のはずれ。山の多い地域に私は育った。ブスでメガネだった私は中学デビューに成功し青春時代を謳歌していた。学校が大好きだった。家にいるよりもずっと。
2つ上の兄は今日も部屋から出て来ない。受験した高校は3日だけ行って辞めた。単身赴任の父に相談できない母の枕元にはいつも「不登校と向き合う」とか「大検までの道のり」とか本が積み重なっていて、私は見てみぬふりをした。
髪がどれほど伸びて今どんな体型なのか、生きてるのか死んでるのかさえ私は兄の何も分からなかった。姿の見えない「命」が、同じ屋根の下にいる。唯一その「生」を知る手がかりは本棚だった。
リビングに共有する本棚からハンターハンターの単行本が抜き取られている時だけ、ああ、今日も生きてるんだと知った。日々その隙間が移動するのを、母はよく観察していた。
ほんの時々、学校から家に帰るとリビングに兄がいることがあった。
そのするどい視線と伸びた髭と目の上のくぼみに私はびくっと体を引きつらせる。お互いに「ただいま」も「おかえり」も言わない。兄はのっそのっそと体を引きずるようにして自室へ入っていく。
ドアが閉まって胸を撫で下ろす。
私の生きていたのはそんな日常だった。
結論から言うと、私は兄とその先14年間一言も言葉を交わさなかった。
私は勉強が得意だった。いい点数を取ったら母に飛び跳ねて報告した。母は決まって困ったように苦笑いをして口元に人差し指をあてた。
「シー」
それは母なりの配慮だった。兄の部屋に、私を褒める声が届かないように。兄が劣等感を感じないように。けれどその行為はいつも14歳の私の自尊心をズタズタにした。
今くらいいいじゃん。今くらい普通にしてよ。
いつも心の中で叫んでいた。
兄のことで頭を抱える母は、宗教にハマってよく祖母とお祈りに行った。私も何年も古びた教会へついて行った。
教会からの帰り道、私は二人に心配をかけたくなくて、少しでも笑顔にさせたくて学校での出来事を面白おかしく話した。昨日ね、誰々ちゃんがこう言ってね。帰り道にみんなでここに行ってね。こんなことがあって笑っちゃった!学校って楽しいよ!友達たくさんできたよ!
とるにたらないことを大げさに話した。その時だけ母がほっとした表情をする気がしたから。
相づちのない話をぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらと話して、母も祖母も笑って、私も笑って、少し死にたかった。
【18歳。家族を捨てて家を飛び出した】
大学受験をして私は地元の国立大学に合格した。
大喜びで祖母と祖父に報告すると、祖母は声を荒げてこう言った。
「いいかげんにしなさい!大きな声で自慢しないの!はしたない!」
祖母の視線の先には兄の部屋があった。
私の中でプツンと糸の切れる音がした。
この家を出よう。ここにはもういられない。
息のできる家がほしい。
大学に入学してすぐ、クールな女の子と友達になった。その子は変わり者で「ねえ、一緒に住まない?」と言った。どうやらその子は過保護な両親に悩んでいるようだった。
2007年、まださほどルームシェアがポピュラーじゃない時期に私は母の反対を振り切ってその子と二人暮らしを始めた。
その子は歌が上手かった。幼い頃から合唱団に入っているらしい。
どうやら歌手を目指しているようだった。夢を追う姿がかっこよくて「私も何かに夢中になってみたい」と強く触発された。
私が選んだのは「文章を書くこと」だった。
思春期に家族関係に悩んでノートに日記を書いていた。言えない言葉が多すぎて書くしか方法がなかったのだ。
それに当時流行っていたmixi日記やアメブロで文章を褒められることも多かった。
「私も物書きになりたいなあ」。漠然とそんなことを考えた。
大学生活は刺激的だった。私たちは朝までお酒を飲んだり失恋したりあてもなく車を走らせたりしながら、むちゃくちゃな絵の具を思いのままに塗りたくるようにくだらない日々を不安定に生きた。自分の体すら乱暴に使った。
最高の毎日だった。
【28歳。思いつきで小説を執筆したら書くことの楽しさを取り戻した】
22歳で卒業し、ルームメイトは夢を追って上京した。
私は在学中に付き合っていた人と結婚し、地元の金融機関に勤めた。
出産を機に母との関係が少しずつ良好になっていた。兄が週3でピザの宅配のアルバイトを始めたのだと母は嬉しそうに話していた。
私は思春期の自分の孤独を押し込めて、「よかったね」と笑った。
仕事と育児の両立というせわしない生活の中で、文章を書くことからも自然と離れていった。安定した幸せ。平凡な毎日。これで充分だと思った。
それからしばらくの時が過ぎて、ある日元ルームメイトから連絡が来た。
「中居くんの、のど自慢の番組に出演することになった!」
嬉しくて飛び上がった。私の住んでいる地方ではオンエアが無いと聞き、別の友人にリアルタイムでテレビ電話を繋いでもらって映像を見た。
彼女は堂々と歌っていた。はつらつと楽しそうに。笑うように歌っていた。
私は胸がぐわっとせりあがってくるのを感じた。震える指で「感動したよ」とラインをした。感動じゃなかった、本当は。
嫉妬だった。
ずるい。負けたくない。私はいてもたってもいられなくなって一心不乱にその時の感情をパソコンの画面に打ち込んだ。
翌日から、触発された私は何を思ったか小説を書き始めた。
仕事の昼休憩や夜子供が寝た後の時間を使って執筆をした。2000文字書く日もあれば10文字しか書けない日もあった。
けれど私には「書くこと」しかなかったのだ。
8万字の小説が3か月で完成した。あの書き上げた時の興奮と達成感は忘れられない。
真夜中の食卓で、できた、と声に出した。できたできたできたできた、と声に出した。まだ誰にも知られていないその作品が、パソコンの画面に頬ずりしたいほど愛おしい。
その小説を勢い余って一番締め切りの近かった小説の新人賞に応募した。すると一次選考を通過した。すごいやん!私ほんまに小説家になれるかも!!!そう叫んでいたら二次選考であっけなく落ちた。笑ってしまった。
けれど幸せだった。
【30歳。noteとの出会い】
銀行勤めも8年目にさしかかった頃、転勤で一緒になった一回り上の上司が読書家だと話していて、話題のタネとして「小説の公募に処女作を出して落ちた話」をした。
なぜか上司は食いついて、読ませて読ませて!と頼んできた。では今度プリントアウトしますねと言った私に、上司はこう言った。
「noteっていうサイトがあるんよ。自作のエッセイや小説を投稿するメディアやから、それに載せてみたら?」
それならオンラインで共有できるので印刷代が浮くなあ、くらいの気持ちでnoteを始めた。投稿した小説は上司以外には全然読まれなかった。
それなのに上司はこう言うのだ。
「お前天才じゃの!」
毎日少しずつ投稿すると、毎日天才だと褒めてくれた。意味が分からない。閲覧者の数字が一日2人とか3人とか笑ってしまう数字なのに。
「お前は天才じゃ!」
ただ一人、この世に私の創作したものを喜んでいる人がいる。
テストの点も口に出すことが許されなかった私には、そのことで本当に救われた。
【思い出したくないことを書かないと。文章に起こした兄への想い】
noteで小説投稿を始めて3か月が経った頃、突然こんなことを思い立った。
「小説ばかりじゃなくエッセイも書いてみよう」
noteにはエッセイを書く人が多かった。自分の考え方や生き方を文章に起こしているのを見て、私も自分と向き合ってみようと考えたのだ。
私には、書かないといけないことがあった。
それは家族のこと。愛せなかった家族のこと。引きこもりの兄のこと。兄のことで頭がいっぱいの母のこと。
書きながら何度も躊躇した。知り合いに見られたら?
実は私は兄の存在を恥ずかしく思って「一人っ子だ」と嘘をついていた時期もあった。
自分をさらけ出すのは、これまでの嘘がバレることでもあった。
併せて、当時の悲しい思いと向き合わないといけなかった。
兄の同級生に「猫とか殺してそうな奴の妹」と呼ばれたこと。
友人に仲間ハズレにされても「学校が楽しい」と母に作り話をしたこと。
書いては消し、書いては消して涙がぼとぼとと止まらなかった。
そうして書いたのが「あなたを許すこと」というエッセイだった。
このエッセイがnote編集部のおすすめというものに初めて取り上げられ、それを機にフォロワーがどんどん増えていった。
その後も自分の内面をエッセイに起こし続け、noteを始めてからの1年間で5000人もの読者がついた。
【31歳。地方の銀行員だった私が書籍を出版しました】
noteを始めて、漠然と「物書きになる」という夢が叶ったような気になっていた。
けれど徐々にその感情は別の方向に動き出すことになる。
「私、本が出したい」
実家の本棚を思い出す。兄が自室にマンガを持って行くとき、本棚にできる隙間。あの隙間で私は兄が今日も生きている事実を知った。
あんな風に、誰かの命を示したい。
私はTwitterのフォロワーの中から書籍編集者を探し、DMを送ってアプローチした。本の企画書を書いたので持ち込ませてほしいと。
最初に返信をくれたのは大手出版社の編集者だった。真摯に企画書にフィードバックをくれたが、やっぱり持ち込みは叶わなかった。
「書籍を出版したいならTwitterのフォロワーが5万人は必要」
「特別な界隈でもっと肩書きや知名度があれば…」
それでも諦めたくなかった。これまでの人生、誰にも歯向かうことなく諦め続けていたからだ。
地方の主婦で銀行員という「一般人」でも夢が叶うことを証明したかった。
そして出会ったのが電子書籍の編集者さんだった。
なんとか持ち込みのアポを取りつけ、私は練り直した企画書を持って新幹線に乗り神保町へ向かった。
企画書に目を通した編集者さんは、細かくフィードバックをくれた上で会議に出してみると言ってくれた。私のnoteも読んだことがあると。
noteを通して私の文章がこんなところまで届いていた。
「いい本にしましょう」
ありがとうございます。お願いします。私は頭を下げて、すぐそこまで来ている涙を内側に押し込めた。
そして2020年4月15日、『あの子は「かわいい」をむしゃむしゃ食べる』が電子書籍レーベルimpress QuickBooksより刊行された。
【地続きになっている人生の先に】
夢は尽きない。文章を書くことはやめられないし、やっぱりいつか紙の本を出すことも諦められない。
私はこれからも誰か一人でも読んでくれる限りはnoteにエッセイを書き続けていくだろう。
まだ、母や兄には出版したことは言えていない。家族関係は劇的に良くなってはいないけれど、少しずつ、私の体からあの頃の苦い記憶が切り離されていっている。
文章を書くことは、明るく楽しい行為じゃない。時には皮膚を削ぐような痛みと向き合わなければならない。
それでも私は書いていたいのだ。書くことで優しくなれると信じたいのだ。
そうして過去の自分を抱きしめたいのだ。
涙をこらえて作り笑いをしているあなたを救いたいのだ。
私の文章は私の生きてきた物語によって生まれているのだから。


