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波瀾万丈?人生:海外4カ国計17年住んでみて)

Image by Olia Gozha

人それぞれいろんな人生がある。

普通にどこにでもいる近所にいそうなアラフィフのおばさんだ。

生まれたのは韓国。

両親とも日本人だが、韓国と日本の国交回復第一号で父が民間人ではじめて仕事でソウル駐在に行き、そこで私が生まれた。

その日は40年ぶりの大雪で韓国ソウルでも25cmも積雪で大パニックの日だったそうだ。当時は母は日本人であることを一生懸命隠していた。対日感情がまだよくなかったからだ。駐在するのもまだ日本人がほとんどいなくて、周りに知り合いもいなくて心細かったに違いない。いきなり私が生まれた日は大雪で交通網がストップしたりとドラマチックだったようだが、天気予報で雪なのはわかっていたのでドクターの都合で予定日よりも早く出産することになっていたためすでに病院にいたので難を逃れたそうだ。

韓国のあと、父は転勤でサウジアラビアのジェッダへ。もちろん家族同伴。韓国の後は、サウジかい、、、、と母の苦労は続いた。

ターバンをまいたイスラムの国。サウジでは最近ようやく女性が車を運転できるようになったというほど女性を下に見る国。そんな女性蔑視の国で駐在当初は苦労をした話はつきない。日本食レストランなどはないし、駐在員の妻は自宅で出張者や取引先の方々をおもてなしする。徹夜で和食をなんとか作っておもてなしをしたり、会社におべんとうを作って日本からきた出張者をもてなしたりと、妻の役割はおそろしく大変で重要だ。無給で働き夫をささえる駐在員妻といったところか。私が小さいながらにして覚えているのは庭にサソリがいて刺されそうになり、母が叫びながら靴でサソリを踏んで、幼稚園児の私はギリギリ刺されないですんだことを覚えている。

その他、怖かったのは買い物に行った時。母はちゃんと長袖、長いスカートをはき、髪もベールのようなもので隠してはいたのだが、足首が見えたのが不潔だからとかで敬虔なイスラム教徒の年寄りにどなられ、杖のようなもので母を叩こうとした。母は妹を抱き、3歳の私は母に手を握られ、全速力で泣きながら走ったことも覚えている。こわかった。

市場では、庭で飼っていた可愛いうさぎと同じうさぎが食用として売られ、幼稚園児の目の前で生きているウサギが鼻をトンカチでたたかれキャーンという鳴き声とともに目の玉が落ちる瞬間をみてしまった。生きている鶏は買われると首をおられて羽をむしられる。そんな市場は幼稚園児にとっては恐怖でしかなかった。いまだにトラウマになっている。

私の幼稚園児代はアメリカンスクールに入れられ、隣の家のアラブ人の子とはアラビア語で話し、両親とは日本語で話し、学校では英語で話し、親友のフランス人の子とはフランス語で話していた。そのため、小さい頃からいろんな言語が聞き分けられるようになったのはサウジアラビアという国に5年も住んでいたから身に付いたことだ。この小さな頃にヒアリング力を培えたような気がする。語学を子供に学ばせたい人はいろんな言語を聞かせてあげたらよいと思う。

サウジアラビアの次に駐在したのはアメリカ。いきなり先進国。最初の駐在はヒューストン・テキサス。テキサスのことを知っている人はわかるだろうが、結構白人主義のエリアだ。住んでいるエリアも駐在員だから比較的良いエリアだったからなのか、クラスには1人しか黒人の子がいなかった。他はみんな白人。そして黒人の女の子はかなりひどいいじめを受けていた。もちろん私も人種差別は受けたし、Remember Pearl Harborなどと言われたり(ちょうど小学校5年で真珠湾攻撃など授業でやったので)黒人の子へのいじめは本当にひどかった。実は私はこっそりその子と仲良くしていた。学校のあとはうちで遊んでいたのだ。その黒人の女の子からは、私までいじめられたらかわいそうだから、一緒にいないほうがいい、と言われたのだ。私はそんなの気にしないよ、って言ったのだが、彼女は私は小さい頃からいじめられてきたから、こんなことは慣れているし私は強いから大丈夫なの、と言っていた。彼女はミシェル・オバマの小さい頃に似ている。元気にしているのだろうか。

サウジアラビアとは全く違う生活とはいえ、サウジでは運転手がいて運転してくれたのだが(女性が運転するのは禁じられていたので)アメリカに来てからは母の役割は子供の学校への送迎だった。私も妹もソフトボールをしていたのであちこちに試合に連れて行ってもらった。たまには働いているママが送迎できないため、うちの母に頼んで友達も一緒にのせて試合会場や練習会場に。テキサスは竜巻が多い。何度も竜巻には遭遇して怖かったが、竜巻の中に巻き込まれたことはなかった。テキサスのあとはニューヨークに転勤だったが、かなり楽しかった記憶しかない。近所に川があり、少し行くと池があり、冬はその池が凍ってアイススケートができたり。ニューヨークとはいってもラーチモントという郊外なので田舎だ。アライグマやリスがそこらへんにいる。

12歳に日本に戻り、その後はしばらく日本だった。中学から私立女子校に入ってしまったというのと、父親は相変わらず海外駐在ばかりだったが中東が多かったため日本にいることにしたのだ。

私の海外駐在生活は主人と結婚したあとからまたはじまった。

場所はカリフォルニアのロサンゼルス。もともと友達が何人か住んでいたので、知り合いがいると楽しさが何倍にもふくれあがる。まだ子供もいなかったので習い事をしたり、地元の大学で勉強したりと楽しくすごしていた。友達が映画関係の仕事をしていたため、ラッキーなことにいろんなパーティによんでもらい、VIPしか入れないクラブやベン・アフレック レオナルドディカプリオにも会ったことある。今考えたら、すごいことだなぁと思う。写真とりたかったけど、誰もまわりでとる人もいなくて、友達からもやめてほしいといわれてできなかったのが残念だった。

が、楽しいことだけではない。地元の大学にいたときは、女子トイレでのぞかれたり襲われそうになったり。実際にトイレに行きたくなって、治安のあまりよくないところのガソリンスタンドでトイレを借りたら、怖い黒人に金を要求されて襲われそうになり、小銭の投げつけて車のパニックボタンをおして逃げたこともある。そして変な車にストーカーのようにつけまわされたことも3回ほどあったし、マンションの隣で銃の打ち合いがあって、怖くて外に出られなかったこともある。なので銃社会やヤク中なのが多いロサンゼルスは楽しいこともあるかもしれないけど、用心しないと怖いこともあるので気をつけないといけない。

次に駐在したのはタイ。微笑みの国のタイ・バンコクにいったのは2011年4月。東日本大震災の翌月だった。その年の10月には洪水があり、会社命令で一時帰国したり、政権がもめてデモ隊がでたり、軍事政権になったりいろいろなこともあったが、今まで住んだ国の中では最高だった。結局5年ほどタイに住んで思うことは、タイ人はやさしい。かなりの親日家だ。食べ物も美味しくて安い。タイマッサージも安くて最高だ。定年退職したら絶対にタイに住みたい、ロングスティビザもとりやすいし、そのため一度タイに住んだ人は必ずタイに戻ってくると言われているが、日本人が7万人も住む国になっている。年金で十分良い生活がおくれるタイに戻れる日が待ち遠しい。

さてさて、今はコロナで時間があり自分のストーリーを書いてみた。波瀾万丈かどうかわからないが、旅行好きな私も怖かった事がいくつかあるのでそのことについて少し触れてみたい。

1️⃣バリ島に行く飛行機の中でのこと。気流が悪くて乱高下していたが、エアーポットに急に落ち、食べ物が空中に舞い上がった。全身食べ物まみれになり、飲み物をサーブしていたスチュワーデスはパンツ丸見えで通路に倒れており、周り中が気分が悪くなって吐いたり、みんな食べ物まみれになってクレームの嵐だった。飛行機が無事についたときは大拍手だったが、飛行機に乗って大丈夫かな?もしかして死ぬ?と思ったのはあのときだけだ。

2️⃣フィリピンに行く飛行機の中でのこと。ぽつぽつと何かがたれてくる。それは私の上だけではない。他の乗客の上にもぽつぽつたれてくる。触ってみると、茶色い。水ではない。。。油??!!CAにいっても、大丈夫です、と。いや、大丈夫ではないのでは???とずっと不安だった。

3️⃣ヤップ島に行ったときの事。台風が上陸し、泊まっていたホテルの部屋の屋根がはがれて飛んでいった。あのときは大雨が入ってきて、急遽真夜中部屋を移動したのだが、生きた心地がしなかった。。。

4️⃣香港に行くはずが、天気が大荒れで飛行機が到着できないとかで、飛行機が台北に戻ってしまった。

5️⃣沖縄から石垣島に行くのに旅行会社が間違った時間を記載していたため船に乗れず翌日まで船がないからいけないはめになった。

このようなエピソードが多数あるのだが、また時間があったら旅のびっくりエピソードをご紹介したいと思う。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

#海外生活 #旅行 #とんでもない話 #こわかった話 #自分史


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