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ボーダーの私が『普通』になるまでの物語②

Image by Olia Gozha

【16歳。高校1年生 摂食障害】

 高校に入学すると中学とは違い、キラキラした人がいっぱいだった。

そして、そんなキラキラ女子2人と私は同じグループになった。

私は何となく居心地の悪さを感じていた。

今どきの会話についていけない。

だけど、ついていこうと必死な自分がいた。

今考えれば〝必死感″が漏れていただろう。

いわゆるちょっとイタイ奴。


私はいったい誰なのか?本当の私はどれだろう?

中学の頃よりさらにわからなくなっていった。

友達の前での私、部活での私、先生の前での私、家での私。

全てが違った。

全てが私のようで全てが私じゃなかった。

本当の自分がどんどん小さくなって、消滅しそうだ。

 

中学の陸上部で鍛えた筋肉質の脚は、コンプレックスだった。

みんなは制服を可愛く着こなしているのに、私は、、、

この頃の私はとにかく自分に自信がなかった。

だから、勉強も部活も、とにかく頑張れることは頑張った。

でも、足りない。もっと、もっと、、、


そこから、私のダイエットは加速した。

とにかく食事制限をして、たくさん動いた。

やればやるだけ体重が減ることが嬉しかった。

もっと。もっと。もっと。

 

いつの間にか体重は30㌔

体脂肪率も10%をきった。

生理もとまった。

それでもまだ足りなかった。


 周りから「痩せてるね」と言われるのが嬉しかった。

褒められている、認められていると思った。

そんなある時テレビで大量の水を飲み食べたものを吐いている人を見た。

私の中に「食べても吐けばいいんだ」という知識がインプットされた。

その後私は約10年間、そのスタイルで食べては吐くことを続けた。

 


学校での食事は苦痛だった。

友達とお弁当を一緒に食べるのが嫌だった。

「そんな少ししか食べないの?」と言われるのが嫌だった。

「こんなにたくさん食べているのにそんなに細いの」と思われたかった。


学校では食べたものを吐くことはできない。

思い切り食べ物を詰め込むことはできない。

だから誰かと一緒の時はほぼ食べなかった。

 外食も極力避けた。

でもどうしてもの時はできるだけカロリーを摂らないように。

串揚げ屋では衣をつけずに素揚げ・・

なるべくカロリーの低い食材を食べた。

 でも、全然食べていないと思われてはダメ。

「たくさん食べているのに細い」こう思われなくちゃ。

たくさん食べているふりをすることに必死だ。

 人前では食べないのに家では「大量に食べては吐く」の繰り返し。

 人にはたくさん食べさせた。

とくに2歳上の姉にはごはんをたくさん盛り、とにかく食べさせた。

姉がたくさん食べるのが嬉しかった。

安心した。


自分はごはんの量をとにかくはかり、1グラムでも多く食べることは許せなかった。

歯磨き粉を誤って少し飲みこんでしまっただけでも吐いた。

徐々に過食・嘔吐の頻度は増えていき、ついには学校でまで。

授業中にどうしても食べたくなり、授業を抜け出し、手元にある菓子パンを一気に食べてはトイレで吐いた。

人と一緒にいるのも疲れる。

授業に出るのもしんどい。

保健室で寝ていることが多くなった。

食べてなからエネルギーがないはずなのに、妙にハイテンション。

時には高校から自宅までの約7㎞を歩いて帰ったこともあった。

食べずに活動的な生活は長くは続かず、しばらくしたら大量に食べては吐く。

お弁当2つ、菓子パン、ポテチ、アイス、、、

とにかく体に悪そうなものを食べまくった。

 

普段は体によい食べ物、カロリーの低いものを探して食べているのに、過食スイッチが入ると真逆のものを食べたくなる。

まるで自分が嫌がることをわざと自分にしているかのように。

とにかく自分を痛めつける。

それでもどこか冷静で自分を客観的に見ている自分がいて、吐きやすい食べ物を食べている自分がいる。

頭は意外に冷静、見た目は獣のよう。

とにかく食べ物を詰め込む。胃がはちきれるまで。

自分を痛めつけるように食べる。

 

私は『普通』じゃない・・・

 

その後はトイレに駆け込み、太る恐怖で死ぬ気で吐く。

2ℓのペットボトルに水を入れ、一気に飲み、のどに左手突っ込み、右手で胃を押し、吐く。

ペットボトルの水を何度もくみ、繰り返し吐き続ける。

喉から血がでるまで吐き続けた。

 夏は汗だくになりながら。冬は何枚も服を着こみながら。

吐き切れたと思えるまで止められない。

胃も喉も手の甲も全てを痛めつけている。

寒くて死にそうでも関係ない。

最後まで、自分の限界までやりきらないと不安。

自分でやりきったと思えてはじめて終わることができる。

その頃には体も気持ちも頭もボロボロの状態だ。

吐いたら一瞬はスッとするのに、なぜかまた食べたい衝動にかられ、食べては吐く。

いつも終わるのは体力的にしんどくなり、眠るときだった。

 

こんな生活を送り学校にもほとんど行かなくなった。

当たり前だけど成績表は最悪。人生ではじめてアヒルがついた。

その時、学校を辞めようと思った。

完璧主義だった私は、自分の成績表に「2」がつくなんて耐えられなかった。

母親に学校を辞めると言い、高校1年生の夏で学校を辞めた。

母親は私の決断をすんなり受け入れてくれた。

 


【16歳の夏 ひきこもり生活】

 ひきこもり生活がスタートした。

毎日食べては吐いての繰り返し。家族との関係も悪化。昼夜逆転。

両親とも姉たちとも話をしなくなっていった。


家の中の食糧を食べつくした。お菓子、アイス、お米、パン。

なくなると母親に買ってきてと頼む。そんな毎日を過ごした。

ある日、いつものようにクーラーをガンガンきかせた自分の部屋で、本当に胃がはちきれるのではないかと思うほど胃に食べ物を詰め込んだ。

栄養が体に吸収されるのが怖くて、「胃がはちきれそうだから病院に連れて行って」と母親にわがままを言い連れて行ってもらった。

 

下剤を使用、、、

お腹が「ギュー」って痛い。気持ち悪く苦しい。

 母親と一緒にとぼとぼと帰宅。

 

 そんな中、私の両親の関係は悪化していった。

私は自分のことしか考えられていなかったから、正直両親の関係についてそこまでよく知らなかった。というか、知りたくなかった。

どうでもよかったんだ。

 

 

【17歳 魔の年】

 私が17歳の4月、愛犬が死んだ。

体調があまり良くないのは知っていた。

でも正直、自分のことでいっぱいいっぱいであまり考えていなかったと思う。

愛犬が死んだ夜、私は悲しいはずなのにその日の夜も大量のうまい棒アイスを食べては吐き続けた。

そんな時でも過食をする自分が心底みじめだった。

泣きながらトイレで吐き続けた。


その日の夜。

愛犬をかかえ正座をしている父親の後ろ姿が目に焼き付いて離れない。

 

 同じ年の8月、祖母が亡くなった。

癌だった。

祖母は5月から入院していたが私は一度もお見舞いに行っていない。

自分のことしか考えられず当時は祖母がなぜ亡くなったのかも知らなかった。

自分はこんな状態だから仕方ない。

誰かに責められているわけじゃないのに自分にそんな言い訳をしていた。

 「誰も私を責めないで」

一番責めていたのは自分自身だ。


祖母が亡くなってから35日後、父親が死んだ。

私にとっては突然のことだった。

普通にリビングの椅子に座っている私を、母は後ろから抱きしめ「お父さん死んじゃった」と言った。

その時の前後の記憶はあまりない。感情も覚えていない。

ただ、自然と涙が出ていたのだけは覚えている。

 

 父はアルコール依存症だった。

私がひきこもりになってからは父とほとんど話をしなくなった。

昼夜逆転生活の私は夜中にテレビを見ていることが多かった。

父もそんな生活だったため、夜中に同じ空間にいることはよくあった。

私はテレビ、父は新聞を広げ、お互い何も話さない。

私は心の中で「早く寝ればいいのに」と思っていた。

父のそんな生活もあり、徐々に別居状態に。

父は、当時住まいの下にあった自分の事務所で生活をしていた。

父はそこで吐血して倒れていたところを母親が発見したらしい。

母親が見つけたときはすでに亡くなっていた。

母が私に父が亡くなったことを言ったのは亡くなった数日後。

それまで私は家族の変化に何一つ気づかず、何の違和感も覚えなかった。

 

私は父親のお通夜にも葬儀にも出ていない。

最後に父の顔見たのはいつだろう。

「死」という実感がないままどこか遠くにいってしまったような感覚だ。

愛犬もおばあちゃんもお父さんも、みんないつの間にかいなくなった。

 

そこから母と姉もクリニックに通い、私の自傷行為はますますひどくなった。

毎晩みんなが寝てから、カッターで自分の左手首を切った。

泣きながら何度も何度も切った。

お父さんのことが許せなかった。

「何で死んだんだ」「お前が死んだら私は死ねないじゃないか」

「何で私だけ置いていったの」「何で自分だけ楽になるの」「ずるい」

 泣き叫びながら自分の左手首から腕にかけてカッターで切り続けた。

心臓の近くを切ればより死に近づけるのではないかと思い左胸もカッターで切りつけた。

家族5人分の傷

 

この頃の私は、異常なほど家族を嫌い、異常なほど求めた。

 

自分を止めることができない。

次で最後。あともう少しだけ。

あともう一回。

これ以上やったら大変なことになるのではないか。

でもあともう一回だけ。

 

 自分を傷つけると落ち着いた。

どうしようもできない気持ちがスーッとなくなっていく気がした。

切った後はトイレで処置をする。

この時はすでに気持ちが落ち着いていて冷静。

顔はぐちゃぐちゃ。

絆創膏でおさまらない傷にはガーゼを貼った。


前の傷が膿んでいる。

頭の片隅でこのまま傷が悪化してどうにかなればいいのにと思っている自分もいる。

自分なんてどうなってもいい。

でも家族にばれるは怖い。

血のついたカッターを隠し、血のついたティッシュをバレないようにゴミ箱の奥の方におしこんだ。

 

助けてほしい。

気づいてほしい。

 

でも気づかないで。

 

そんな地獄の毎日が続いた。

 

一生分の涙を流したんじゃないか、そう思うほど毎日毎日泣いた。

 

「平成16年は魔の年」

 

愛犬、おばあちゃん、お父さん、みんないなくなった。

 

 私は17歳だった。

 

 

 それからしばらくは家でひきこもり状態。

毎日、朝から晩まで食べては吐いての繰り返し。

食べたくないのに胃がはちきれそうになるまで食べては必死で吐いた。

泣きながら食べて、泣きながら吐いた。

 

異常だ・・

 

もうこんな生活嫌だ。

 

「あーーーーーー」

 

叫びながら物を投げる。

暴れる。

 

叫んでいないと気が狂いそうだ。

叫んでいないと自分が壊れそうだった。

 

 

 

私は毎日何をしているんだろう。

 

同級生が毎日学校で勉強をし、部活に明け暮れ、友達と遊び、恋愛をし、喜び、悲しみ、苦しみ、楽しんでいる中、私は何をしているのか。

 

生きている意味はあるのか。

 

いったいいつまで続くのか。

 

いつかは抜け出せるのか。

 

死にたい。

 

そんな毎日だった。

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