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過去は再定義できる〜なぜ子育てが大切だと気づいたか〜

Image by Olia Gozha

前置き


まず最初に、僕は今子育て中の親御さん、特に母親に対して子育てを少しでもリラックスして子供とコミュニケーションを取って頂けるようなサービスを作っています。まだ形になっていませんが、進行中です。


なぜ、子育てが重要だと考えるに至ったのか、恐らく自分のこれまでの経験全てが影響していると思います。子供の頃の嫌な出来事や嬉しいこと、ワクワクする気持ちや泣きたいことなどの全てが今の自分を構成する要素なんだと思ってます。


なぜ今の僕がこんな考えに至ったのか、それは自分の過去を振り返ることで再確認できると思いますし、過去を再定義できたと思っています。その経緯をここに残します。

感情のおもむくまま書いてるので乱文なところもあると思いますがご容赦ください。


それでは、始まり始まり~。



自己紹介


僕の大阪市内の周りには工場がある街で生まれました。

父・母・兄(3つ上)、そして僕の4人家族です。

昭和54年(1979年)生まれ、高度経済成長の終わりの頃でしょうか、色々な物が増えてきた時代で写真がカラーになってモノクロが影を潜めた時代に生まれました。

インベーダーゲームが大流行し、ドラえもんが放送開始した年に生まれました。


僕の母と父はこの時代の教育を当然受けてきて育ってきています。つまり、右向け右、左向け左、言われた通りの教育を受けて育ち、指示通りの仕事をこなすことが「当たり前」という軍隊教育的思考が育まれて育ってきたことは想像できます。

別にそれが悪いとか良いとかではありません。当時は他に選択肢がなかった、それを選ばざるを得なかったのですからしょうがないのです。

そんな母父を持つ人は結構多いと思います。


そんな感じで僕は、「やりなさい!」「どうしてしないの!」「早く行きなさい」と言われまくって、物凄く違和感を感じていましたが、その違和感の実態も当然わからなかったので、モヤモヤを抱えながら日々を送っていました。

 

それが原因、というわけではないですが僕は今、子育てや教育を通じて社会を変えたいと考えています、そして達成出来るかどうか分かりません考えている取り組みをしています。

具体的には、子育て中のお母さんの悩みや不安を解消できるサービスを構想しています。

子育ての分からないこと・不安なことを少しでも解消してお子さんと笑顔でコミュニケーションを取ってもらいたい、そんな考えを持っています。

母親の笑顔や愛情が子供の将来にまで影響し、その子供が大人になった社会にも多大な影響を与えると考えています。


つまり、母親の子育てに関する不安や悩みの解消は、未来を変えると本気で思っています。


昔からこんな考えだったわけではありません、ここ3・4年で考えが大きく変わりました。

きっかけは多分色々あると思います、小さい時の違和感や大人になってからの経験、今の自分を作る大きな要因を全部覚えてはいないかもしれません。

それでも記憶に残っている出来事はなるべく記録したいと思います。

そして今の自分が過去の出来事をどう捉えているのか、多分この振り返り方次第で今後の自分がどう成長していくかが変わると思います。


ここに執筆する記事は自分が成長する為の振り返りでもあります、自己満足みたいで申し訳ありませんがご容赦ください。

そして見ていただいている方にとっても、何かしらのヒントを掴んでいただきたいと思っています。


この記事は自分の再確認用でもありますが、自分だけに限ったことでは無く誰にでも当てはまる可能性があると思います。

要するに、過去の経験や出来事を「どう捉えるか」だと思います、ある人は通り過ぎる出来事も、ある人によってはターニングポイントにもなると思います。



僕が捉えるターニングポイント


①いじめ

②アルバイト

③元カノ

④役者

⑤自主映画制作

⑥進学塾への就職

⑦雑貨屋


意外にターニングポイント多い!?と思わないでください。

先にも書きましたが、「出来事をどう捉えるか」です、それ次第ではただの通り過ぎる出来事も、人によっては人生を変える出来事にもなります。

最低でも5年前まではこんな考えはまったく持っていませんでした。物事を深く考えることもなく、のほほんと日常を送る日々でした。それが悪いとかではなく、そんな自分が今どうやってこの考えに至ったのか。


この記事は、自分の弱い所、脆い所を洗い出して「正しく認識する」ことを目的にしています。

同時に「お前は自分の人生をどう捉える?」「おまえは今何を持っていてそれをどう活かす?」という自分への問いかけでもあります。


そしてご覧頂いているあなたにとって、何かヒントを見つけていただければ幸いです。

かなり昔のことなので忘れている所もありますが、できる限り思い出してお話します。



小学生以前


父は電気工事士で母は生命保険のセールスレディにヤクルトのお姉さん(わかります?)をしていました。

共働き家庭だったので僕が小さい時はよく祖母の家に預けられていました。

当時住んでいた家から15分くらい歩いたところに祖父母が小料理屋を営んでいたので小さい時はよく遊びに行ったりご飯を食べに行きました。

お店に出すような料理を食べていたので家庭の味は祖父母の料理でした。

母の味は豆腐を手でちぎったお味噌汁です、他の料理は正直記憶にありません。


この頃の記憶はほとんど覚えていませんが、なぜか大所で母が食器を投げつけている記憶は鮮明にお覚えています。多分この光景がかなりショックだったんだと思います。つい先日のことのように覚えています(笑)。


もう一つ今でもはっきり覚えているのは、保育園で皆んなが帰った後に母となぜか兄が迎えに来ました(迎えにきた理由は覚えてません)。

母と保育士さんが施設内で話し合っている時に公園の4人乗り?のゴンドラに似た形のブランコで兄と遊んでいました。

兄がめちゃめちゃ強く漕いでしまったせいでブランコが外れて私は後頭部から地面に落ちました。

痛いと言う記憶が強いので、一緒に落下した兄がどうなっていたかはわかりませんが、救急車も呼ばなかったみたいなので大事には至らなかったようです。

ドラゴンボールの孫悟空が幼少期に崖の下に落ちたことがきっかけで性格が変わった、なんて素晴らしい出来事ではなかったです。

ただ大号泣した覚えがかすかにあります。ひょっとしたら素晴らしくない方へ向かうきっかけだったかもしれません。


もっとも小さい時の記憶はこれです。


 

小・中学校時代の家庭環境といじめ

小学生の低学年の頃だったと思います、年に1~2回は父が釣りに連れて行ってくれました。釣り船に乗って少し沖まで行ってアジを釣ったり、タコも釣ったことがあります。この時はとても楽しかったのを覚えています。

ただ、この頃の褒められた記憶はなかなか思い出がなくて、「学校行きなさい」「勉強しなさい」「そっち行っといて」という言葉は今でも記憶に残っています。(なぜ母がこんなことを言っていたのかは後半で書いています)


だからかもしれません、自己肯定感が低かったんでしょう。自分でやりたいいことも特になく、社交性もほとんどなかったので誰かの後を追って真似ばかりするような子供でした。


そんな性格だったからでしょうか、小学校4年か5年の頃からいじめをうけるようになりました。人によって程度の差はありますが、世間的にはまだ軽い方のいじめだと思います。


「お前来るなって」

「何言ってんの?」

「え、何?」


話をすると基本こういう返事が帰ってきます。


「ちょっとお金貸して」


数百円レベルの金額ですが、かつあげもされました。しょっちゅうあったわけではないですが、時々はかつあげされてたので、毎月貰うおこずかいが時々減っていました。

廊下で通りすがりに殴られたり、貸した消しゴムがバラバラになって帰ってきたり。毎日じゃないですが、時々こんなことがありました。

当時は超人見知りだったので友達もほとんどいませんし、一人でサッカーボールを壁当てしたり家でゲームばかりしていました。一人で遊んでいる時は友達の文句や愚痴を一人でブツブツ言いながら下を向いて遊んでいるような少年です。


中学生になって少し話せる友達はできましたが、いじめる人間も中学になると同時に増えました。当然いじめの頻度も増えました。

小学生時代のいじめが始まってから中学生の間ずっと、なるべく目立たないようにしてたと思います。誰かと楽しそうに話しているといじめっ子が何かとちょっかいを出してきて、その度に気持ちが落ち込んでいたのを覚えています。


でも自殺したいとかそういったことは考えませんでした、そこまでいじめはヒートアップしなかったので精神的には何とか保てました。なるべく目立たないようにしよう、静かにしてよう。と、今思い返せばそんなことを考えていたんだと思います。

 

小学校高学年の頃だったと思います、時々釣りに連れて行ってくれた父が家からいなくなりました。

別居しました。(時期ははっきりとは覚えていません)家の中でも母とはあまりうまくいっていないような感じだったの、父が別居してもそれほど驚きませんでした。

近所に住んでいましたが、年に1回くらい家族で焼肉を食べに行く程度の交流です。生活費は父からもらっていたと思います。


当時の僕は、母が精神的な苦労を抱えていることを考えもしませんでした。

「手助けしたい」と思えていれば少しは状況も変わっていたのかもしれませんが、当時の僕はそんな考えを持てなかったので、ただただ不満を抱えてブツブツ独り言を言いながら何も改善せず目の前の事実から逃げていたんだと思います。だから母が基本一人で、家と僕と兄を守ってくれていました。

ちなみに兄もいじめられていたようです。詳しくは知りませんが、ちょくちょく制服を汚して帰ってきてた記憶があります。


そんな状況もあって、一人前の大人に育てようとしたのか、がっかりしていたのかは分かりませんが、母は家でよく怒っていましたし。

「勉強しなさい!」「さっさと寝なさい!」と、そんな言葉が家の中ではよく飛んでいました。

自分の性格上、意見を言えるわけもなく素直に聞いていました。もちろん勉強に集中なんてできません、しているフリです。

小学校の高学年の頃は近所の警察署がやっている剣道道場に通っていましたが、これも行きなさいと言われて行っていました。しかし実際は行っていません、家を出て通っているフリをしてましたが、近所の駐車場とかで時間つぶしをしてました。

学校も行くのがイヤな時は無理やりくしゃみをして風邪を引いたフリをしてました。(コツさえつかめばくしゃみはコントロールできます笑)

そろばんの「お試し教室」みたいなものに行きましたがまったく興味が湧かなかったのでそれっきりです笑。

中学2年のころから近所の塾に通いましたが、勉強に興味が湧かなかったので、塾に通っていながら偏差値は低かったです。


これらは全て母が勧めてきた習い事ですが、基本的に「やりなさい」と言われたことに対しては、本当にのめり込むことができませんでした。

「自分は勉強もできない・友達もいない」そう思っていたので自分がとにかく嫌いでしたし、何もできない自分が悔しかった。何か変えたいと漠然と感じていましたがその方法もわかりません。言われたことを一旦やってみますが結局形だけで、体裁だけ取り繕って後はゆっくりフェードアウトしていました。

 

無意識の没頭

当時のことを思い返すと、あることを発見しました。

友達もほとんどいなかったですし親や学校から言われたことに対しては本当に興味を持てなかったのですが、テレビや本などで好きになった物事に対しては没頭していた記憶があります。もしかしたら現実逃避なのかもしれませんが。


小学校4年生ごろだったと思います。学校で1人の女子生徒と友達になったことがあります。

喋ることが苦手だったのでそんなに喋った記憶もないんですが、ある時その女子生徒の自宅へ遊びに行ったことがあります。自宅へ行くきっかけは忘れたのですが、僕は買ったばかりの組み立て前のミニ四駆を持っていきました。(ダッシュ四駆郎ご存知ですか?確かバーニングサンだったと思います)


お昼頃だったと思います、その子の自宅へ行って家の中には上がらず玄関先でミニ四駆を組み立て始めたのです。気がついたら外は暗くなってました、昼頃から多分夕方5時頃まではずっと黙々と組み立てていたかもしれません。

その数時間とにかく夢中でミニ四駆を組み立てていたのです、友達の自宅の玄関先で。笑

しかもその友達は僕が組み立てている間ほぼずっと目の前に座ってくれていました。すごく安心してすごく嬉しくて夢中になって組み立てていたことを覚えています。

なぜ玄関先なのか、なぜミニ四駆をだったのかはまったく覚えてないのですが、この場面の記憶は鮮明に覚えています。今思うと妙な光景ですよね、女子生徒の家の玄関先で黙々とミニ四駆を組み立てる、しかも女子生徒はずっとそれを見ている(笑)。

でもそんなものかもしれません子供時代というのは。しかし偶然起こったレベルの出来事なので本当に稀です。

 

小学・中学時代は基本モヤモヤを抱えていました、そのモヤモヤは多分いじめや家庭環境からくる不満だと思います。何かが自分の中でふわふわしていて「あれをして遊ぼう」「ここに行こう」「もっと○○したい」みたいな感情は多分持っていなかったと思います。ミニ四駆事件のように、偶然没頭できる瞬間はありましたが本当に稀な出来事です。この時期は「明日も学校か」という憂鬱な意識がかなり大きかったので他のことを考える余裕はなかったと思います。

ただただフラストレーションが蓄積されていった時期でした。

 

高校時代の「解放」と「気づき」

高校生になったらいじめっ子たちは別の高校に行ったり就職をしたので接する機会がほぼなくなりました。家まで押しかけてくるようなしつこいいじめではなかったので、高校に行ってから僕はいじめから解放されました。

とは言え、小・中とあまり人とコミュニケーションを取ってこなかったので、高校になっても人と会話することはやっぱり苦手でした。精神的には楽にはなりましたが、人と交流することを避けて生活をしてきたので会話の仕方がわかりません。どうやって会話の糸口を見つければいいか、どうやって話の輪の中に入っていけばいいのかがわからなかったので基本は待つスタンスでした。

聞かれたことには答えますが、自分から声をかけることは少なかったと思いますし、もちろん授業でも自分から手はあげませんでした。目立つ行為が好きじゃなかったし間違えたらどうしよう、と考えてました。いじめがなくなった分精神的には楽になりましたが、自分からアクションを起こすことはあまりしませんでした。


軽く引きこもり気味だった自分にとって、高校時代に転機だとはっきりと思える出会いがありました。高1の夏頃、初めてアルバイトをしました。家の近所でホッカイロを製造している工場のライン作業員です。親戚がそこで働いていたので紹介して頂きました。

この時に知り合った同学年や少し年上の友人が僕にとっての転機でした、その友達とは今でも交流があります(年1回会うか会わないか程度ですが)。


僕にとっては普段のたわいのない話や学校のこと・嫌なこと・恋愛、そんな何気ない話をできる存在ができたことが、自分の価値観を変える出来事でした。それまでは人と接することを避けてきましたから、初めて人と対等に会話ができる、この感覚が初めてでドキドキとワクワクを感じたと思います。


年齢は当時の僕と同じ16歳から大学生の21・2歳くらいまでだったと思います。全員で10人くらいかな。学校終わりの5時~8時くらいまでの短時間の工場作業です。バイト仲間と仕事帰りに近くのマクドナルドで数時間喋ったり、カラオケに行ったりしました。

このメンバーとは高校を卒業して就職した後も時々遊びました。春はお花見、夏は琵琶湖に釣りに行ったり。生まれて初めて「友達」という存在を実感しました。誰が好きとか誰かの愚痴とか、ほんとにたわいのない話ですけどそれが楽しかった。中学校以前には感じたことのない楽しさを経験しました。


今思い返すと、この時にある感覚を感じていたことを思い出しました。

 

初めての認めてくれる存在

1つ目は、

今から約20年くらい前にアルバイトしていた時のことなので、まだまだ縦割り社会で体育会系?的な思想が根強かった時代だと思います。しかしアルバイト仲間同士ではそんな時代背景とは関係なく、先輩や年齢関係なく良いものは良いと認めてくれたり気さくに話しかけてきてくれた人達でした。それまでは人と対峙する時に、自分の中での「見えない壁」を感じていたような気がします。

物理的なものではなく、精神的なものです。


「こんなこと言われたらどうしよう」

「こんなことを言ったらどう反応するかな」


心の中で複雑なことを考えすぎて言えないことがほとんどでしたが、ここではある程度は素直に言えた記憶があります。完全に素直にはなれていないでしょうけど、それでも発言に対して楽な気持ちを持てていたと思います。

超小規模なダイバーシティ?多様な価値観があって、好みはそれぞれ違っていても良しとする、それをお互いが認め合う。今思うと、あのアルバイト関係が「みんな違ってみんな良い」との最初の出会いだったのかもしれません。

 

相手の言動の意図

2つ目は、

どう言葉で説明すればいいのかちょっと迷いますが、


「どうしてこんな言葉を言ったんだろう」

「何故こんな行動をしたんだろう」


という他者の言動がすごく気になっていました。

相手の言動の心理を読み取りたいとか、相手のことをもっと知りたいとかじゃなく、今誰かが言った発言がただ何となく気になっていた、という程度の感覚です。モヤモヤした気持ちになったりしましたし、良いものは良いと感じて行動を真似してみたり、言い方を真似てみたり。良いと感じることもそうでないことも、言葉にするほどのことでもなく、ただ自分の中に「あの時の発言の意味」という漠然とした感情を覚えました。その感情を論理的に考察するようなことは当時はできませんでした。しかしそれが当たり前のような感覚もあり、自分の中に日々積み重なっていく感覚はありました。


子供時代にそんな感覚を持っている人は僕以外にもいるかもしれませんが、そんなことを言う人は周りにいないし聞いたこともないので、自分だけが気になっていたと思ってたので誰にも言いませんでした。

この記事を執筆しながらなぜこんな感覚を覚えたのかを自分なりに考えてみました。


思い返してみると、多分いじめや家庭環境での「自分の思いとは反対のことが起こる」という経験が自分の中で「どうして?」という考えを生むきっかけになったのかなと思っています。「こんなことをするのはどうして」「本当は嫌なのにどうして」、そんな感情を小・中学生時代は言語化できませんでしたし、論理的に考えるなんてできません。


そんな経験から「この言葉を言った意味は何?」「この行動を起こした動機は何?」などを考えるきっかけを与えてくれたのかもしれません。しかしそれを検証することはできません。検証しようにも「いじめ」を再度行うとか、当時の気持ちを再現しようにもそれは不可能です。

当時の「いじめ」や「家庭環境」が理由で「相手という存在」を意識するようになったのかは結局はわかりません、あくまでも今の僕が考える想像の範囲内なので、別の理由があったのかもしれません。しかし、他人が見れば通り過ぎる発言も高校生時代の自分には何か引っかかっていました。


多分、誰でも些細なことが自分の中に積み重なってそれが大人になった自分を構築しているんだと思います、良いことも悪いことも全て含めて。僕の場合、「相手の言動の”何故”」ということを意識するきっかけが少しマイナスな所からだったんだと思います。高校生時代はそのことを意識していてもどう表現すればいいのかわからなかったので、周りに合わせたりしながら感情を表に出すこともなく生活をしていました。


ざっと計算して、この感覚をだいたい20年くらいは持ち続けていくことになります、本当に自分は成長速度が遅いと実感します(笑)。

高校生時代は、解放されると同時にほんの少しの”気づき”を得られた時代でした。

 

町工場

高校を卒業した後は大学には行かず就職しました。もともと勉強に目的意識や意義みたいなものは持てなかったので偏差値が低く(謙遜ではなく本当に低いんです)ても入れる高校に進学したので大学に進む選択肢はありませんでした。

就職先は家から自転車で20分くらいの溶接工の工場で働いていました、扉とかドア枠とかを作っていました。学校の体育館の入り口にある防火扉なんかも作ってました。


最初に就職した時代は2000年頃で、「多様性」「働き方改革」「女性の社会進出」という言葉が出る前の時代だったので、「働くとはこういうもの」という意識を持っていましたし、それが当たり前という感覚でした。この時は何かやりたいことがあるわけでもなかったので、ただ毎日仕事をして休日は友人と出かけたりカラオケに行ったり、そんな生活を続けていました。


あまり変化のない日常だったと思います。

 

現実逃避という「きっかけ」

就職して3年くらい経った時に同僚の女性と付き合うことになりました、初めてできた彼女です。僕は工場で、彼女は事務のデスクワーク。

当然「自分、不器用ですから」な感じなので気持ちを汲み取るような器用なことは思いつかず、困らせることもあったでしょう。論理的に話もできないので口喧嘩や空気を悪くすることはよくありました。若気の至り、といえば聞こえはいいですが何も知らない無知な子供でした。


付き合って2年くらい経った時、僕の家でご飯を食べ終わった時に彼女から手紙を渡されました。そこには今の思いが綴られていました、内容はもう覚えていないないけど彼女の目の前で号泣したことは覚えています。

どうしてあんなんなに泣いたのか、初めて付き合った彼女ということもありますし、何より彼女のご両親や家族と一緒にご飯を食べたりした関係でした。言葉では直接伝えませんでしたが、「結婚」は意識していました。しかし当時の自分は今思い返してもカッコ悪い男でした、これは当時からも自覚していました。「嫌な思いばかりさせている」と気づいていながらそれに対して逃げては知らんぷりをしていました、当然嫌気もさすと思います。でもなにをどうしていいのか、「もっとしっかりしないと」と思っていてもなにをどうしていいのかがわからない状態で、そんなモヤモヤした気持ちのままズルズルと時間だけが過ぎて行っていました。だから、手紙を渡されてそれを読んだ時は、「そりゃそうだ」という気持ちとか「情けない」という気持ちとかが混ざって、虚脱感というか力の無さのようなものを感じました。


別れてから数年はショックが続きました。「彼女のことを考えたくない」という意識さえありました。(一歩間違えればストカーですからね、これ!)僕にとっては、この経験が動き出すきっかけだったのかもしれません。


しばらくして彼女が会社を退職しました。理由は当然わかりません。それから更に1年くらいしてからでしょうか、彼女が会社の近くに寄ったんだと思います。

連絡を受けた同僚の女性数名が会社のビルの玄関前に集まっていたのですが、女性達が囲っているのはベビーカーでした。その後の記憶はよあまり覚えていません。

唯一考えたのは、「別れてから1年くらいで子供・・・?????????」

今思えば恥ずかしい限りです。別れた以上、以降の人生は本人が決めるのにネチネチ色々考えては自暴自棄になってました、本当にカッコ悪かったです。無駄に妄想が暴走したのを覚えています。

 

芝居との出会い

当時は、数週間か数ヶ月は感情をどこかに置いていったような感じで、ロボットのように仕事だけをしていたと思います。

そんな時、たまたま目にした新聞に「新人俳優募集オーディション」の記事が載っていました、記事を見たその瞬間に感じた「俳優という仕事に対する興味」と「彼女のことを忘れたい」、この気持ちだけで応募しました。不純な動機だと思います、俳優を小さい時から夢見ていて頑張っている人からしたら努力の量も熱量も圧倒的に少ないと思います。でも当時は、今の自分の感情がよく分からなくなっていて、この頭の中をすっきりさせたい、そんな理由で応募しました。

そのオーディションには合格することができました。それからは会社で働きながら週末は演技の練習の日々が始まりました。


芝居の練習をしている時のことを振り返ると、興味・関心のある対象に意識的に集中するという行為をこの時に初めて経験したかもしれません。それまでは物事に興味・関心を持つこと自体がほとんどなかったので、適当にうまく生きてきたんだと思います。

一般的な考えとして、「俳優で有名になる」「自分を表現することが楽しい」という意思を持たれている方は、芝居の稽古やオーディション、作品に出演することで表現の方法を身につけたり、知名度が段々と上がっていくでしょう。しかし僕の場合、この俳優の取り組みはどちらかというとリハビリに近いかもしれません。

いじめや家庭環境、これまでの経験があって、心をどう開けばいいのか、自分でもコントロール出来ない状態だったんだと思います。芝居の上手い・下手は関係なく、「他者になる」という特殊な環境や心理状態が身体や心の動かし方を教えてくれたのかもしれません。


徐々に自分を表現することに楽しさも感じ、「俳優という目標」を介して、生まれて初めてやり甲斐とうものを感じたのかもしれません。昔からこんな思いを抱いていたわけでもないので、ぶっちゃけ俳優への入り口は不純です、逃げる選択肢として俳優を選んでしまいましたから。他の人からすれば圧倒的に努力量も熱量も思いも少ないでしょう、しかし当時の自分にとってはメンタルケアであり、「考える」という経験も少なかったので、僕にとっては数少ない選択肢だったと思います。

 

昔の価値観と現代の価値観の違い(ちょっと一休み)

話はそれますが、ここで価値観についてのお話を。

23歳くらいの時、東京の芸能事務所が自費で制作する映画のオーディションを雑誌でみつけました。ちょうどこの頃は「俳優やるなら東京かな」という根拠のないイメージを持っていたので、思い切って会社を退社することにしました。

母にも役者になりたいという話をしましたが当然納得してもらえず、逆に説得されるようなことを言われましたが、あまり相手にもせず押し通すような感じで東京に行くことを決めました。


今の時代は物事に対して興味や関心を持つことがスキルアップ、そして自分の価値を高めることに繋がると認識されてきています。そしてこの流れは今後益々拡大し、個人の価値を高めないと収入に直結すると考えていますし、間違い無いのかなと思います。

しかし、2000年代始めはそんな価値感を持った大人は今以上に少数派でした、母も「1つの企業で長く働き続ければ将来安泰」の側でしたので、話し合って合意点を見出すような視点は当時の僕は持っていませんでした。つまり、人生を謳歌した時代によって価値観や捉え方が違うということです。


母の生きた時代と僕が今生きている時代でなぜこうも価値観が違うのかを僕なりに考察してみました。

 

母は昭和20年代に生まれました、多感な時代は30年代~40年代でしょうか。映画の「ALLWAYS 三丁目の夕日」が昭和30年代が舞台背景です。

この時代は経済が急速に発展し、生活が急激に変化していった時代で物やサービスがどんどん生まれ始めた年代でしょう。

この時代は戦後復興の時代で何も無い状態から物やサービスが生まれ始めた時代。

「顧客が本当に求めているものとは何か」という考えではなく「目新しいものは顧客に好まれる」、そんな傾向だったと思います。

さらに、明治維新以降に生まれた集団授業教育、そして戦中・戦後にほぼ確立された軍隊教育を受けてきた大多数の人は足並みを揃え、指示通りに勉強することが身についています。

しっかり教育されてきた人(当時の優秀な人材)たちが上司や会社から「指示」を受けて従事することが「普通」であり「当たり前」なんだと思います。個人の能力よりも、企業が求めたる通り動けば発展する。それに答えられる人材が重視されていた時代です。

そしてその教育は当時の時代背景、つまり高度経済成長真っ只中の工業化社会においては、日本全体を下支えする人材を輩出することができました。当時の教育は日本を成長させる上ではとてもマッチした教育方法だったのではないかとお思います。

その結果として日本は急速に発展していきました。


当時としてはとてもよい教育方法だったかもしれませんが、2000年以降のグローバル時代に突入した現代においては、当時の教育を受けて育ってきた人々が、弊害を生んでいると僕自身は感じています。


「本質」や「そもそも」を考えられる人が極端に少ないのではないか、ということです。


やはり戦中・戦後時代の軍隊教育から脱出できていない昔ながらの教育を受けている大人はもちろん、今の学生すらもまだまだ知識提供型の教育を受けている人が大多数でしょう。(もちろん現在様々な教育を提供する指導方法は増えてきているのも事実です。)

軍隊的な部分は排除されていったとしても、まだまだ数字だけで判断されている現状です。目に見えて判断しやすいですからね、点数で優劣を付ければ評価しやすいんです。

非認知能力である「好奇心」「疑問力」「没頭力」といった心の根底にある深層心理にはまだまだ目を向けられていないのが事実です。

要するに、「本質は何か」という疑問を持っていてもそれを見て見ぬ振りをする、もしくは目の前の与えられたことだけをすることに重点を置くため、本質そのものを考える取り組みがほぼ無いのがこれまでの風潮であり、教育でした。

更に、その「本質」の捉え方もその時代の状況や環境によって変わると個人的には思っています。今はインターネットがあるからそれを前提にした課題解決で考えますが、戦中・戦後は当然ありません。つまり、デジタルによる課題解決とアナログによる課題解決とでは発想そのものが異なるんだと思います。加えて、物が今よりも少ない時代に「目新しいものを出せば売れる」という体験をした人にとっては「そもそも本当に必要なのか」という結論も、現代の人が見出す結論とは異なると思います。その結果として、高度経済成長の時代を生きた人にとっては「本質」を考える経験が少なかったり、考えていたとしても「本質」の捉え方が現代とは違っていたりするんだと思います。


そのような人たちが、経済が急速に発展する社会を下支えし、そして実際に発展していきましたから「それが普通・当たり前」と思ってしまっても仕方がないのかもしれません。

現代人(10・20・30代くらい)の価値観と、高度経済成長時代以降にバリバリ働いてきた人々との価値観の違い。

その原因はこのの3つかもしれません。


「知識提供型教育」
「高度経済成長時の急激な社会の発展」
「時代によって異なる本質の考え方」


この3つが要因となって、50代以上の親世代の「現代に合った本質を考える力」が理解できていないのではと思っています。もちろんプライベート的なことが要因かもしれませんし他にも要因はあると思いますが、外部要因の理由としてはこんなところだと考えています。


さて、話は戻ります。

 

東京デビュー&借金&殺陣(たて)

俳優を志して僕は東京、ではなく埼玉の川口に引っ越しました。有名ではないですが芸能プロダクションにも所属し、役者としての活動を始めました。

レッスンをしながらスポット的な単発アルバイトで生計を立てていました。ほとんど誰にも言ったことはないのですが、カードローンで借金もしました。1ヶ月の収入は本当に少なかったのでアルバイトでは毎月の生活が苦しくなり、ちょくちょくお借りしてました。3社からお借りして最終的には百数十万程度になりました。当時は審査もゆるかったのでアルバイトの僕でも借りれました(今は審査基準どうなってるのかは分かりません)。借りては返済、また借りては返済、これを大体10年間繰り返していました。

結婚する前年(2015年頃)には全て完済しました、ギリギリセーフでした(妻には未だに内緒にしています笑)。とにかく毎月返済におわれていた覚えがあります。


俳優の仕事はエキストラがほとんどで「◯◯役」と呼ばれる仕事はほぼありませんでした。(エキストラは仕事?)しかし嬉しいことに東宝の関係者と知り合うことができ、静岡の大名行列には参加できました。これは本当にいい経験になりました。鎧を身にまとって道路の真ん中で殺陣をするのは気持ちいいですが、それほど鍛えていたわけでもないので汗ダクダク・足ガクガクで動き回っていました。

殺陣の練習を週2ペースで高田馬場駅から10分くらいの所にある市民体育館で毎回2時間練習してました。最初の頃は練習が終わると腕と腰がガクガクで、疲労困憊とはこのことなんですね笑。


俳優の活動は僕にとっては、どちらかというと「人とのコミュニケーションを学ぶ場」だったかもしれません。年齢も20代前半とまだ若輩者なので出会う人は基本先輩が多かったです。

色々な方々から表現方法や心構えを教えて頂いたり、繋がることでさらに次に繋がるということもこの時に始めた経験しました。朝まではしごもしましたが明け方は正直ただ眠かったです。


東京に行って3年目くらいの時、東京に来るきっかけになったオーディションで知り合った俳優志望の人から「自主映画団体を立ち上げるから一緒にやらないか?」と誘われ、参加することになしました。これが僕にとっての次の転機になります。

 

自主映画を作る

自主映画団体の立ち上げメンバーは、私含め新人俳優3人。最初の取り組みは団体のPVを創ることになりました。誘ってくれたメンバーの知り合いが映像制作の学校に行っていたのでその人に制作を依頼しました。その方はインディーズバンドも組んでいたのでPVの音楽もその人のバンド音源を使用することになりました。

公園がメインとなるシーンなので都内色々ロケハンして目ぼしいところを見つけてゲリラ的に撮影。演出で巨大な木にトイレットペーパーを大量に放り投げて、木からトイレットペーパーが風になびいている、そんな演出でした。これ、今やったら通報されるので絶対やめましょう!(多分当時でもアウトです)


PVの次は立ち上げメンバー3人がそれぞれ監督するというものです。タイトルは「無常の風」「想い砂」、そして僕が制作した「ココロノトビラ」です。

僕の作品は構想開始から完成まで、トータル1年くらいかかったと思います。台本作りから制作からロケハンから衣装から機材レンタルから演出から・・・。当時の自分は人とコミュニケーションがうまくとれなかったので、自分一人で何でもやろうとしてしまって、準備は多少無理してでも自分でやっていたと思います。人に分担したり得意な分野の人にまかせたりもしていなかったかもしれません。力の抜き方がよくわかっていませんでした。


費用に関しては、スポンサーも当然いないのでこの3人で少しづつ集めただけの費用でした。費用を考慮せず台本を書いたので僕の作品は出演者が約20~30人は出てくる内容にしてしまいました。

自主映画でそれだけの大人数にギャラを払っていてはお金がいくらあっても足りないので、出演者は僕がその時に所属していた芸能事務所の養成所にいる顔見知りが大半、そして当時mixiで知り合った方が数名です。mixiで知り合った方の繋がりで女優の川津春さん(お父様は俳優の川津祐介さん)にご出演頂くことができました。ほんの1シーンだけでしたがご快諾頂きました。

ギャラがほぼ払えないことを了承していただき、ギャランティに関してはかなり抑えることができました。

 


役に立ったと思うことをご紹介!


僕の知識が皆さんの役にたつかどうかはわかりませんが、自主制作にあたって利用した施設や機器をご紹介します。

ビデオカメラは、当時埼玉の川口にあるskipシティという映像の学校と併設している施設の「館外機材貸し出し」があってそれを頻繁に利用していました。これがめちゃくちゃ安い!

当時はカメラとピンマイク・ワイコン・三脚などセットで1日1000円ちょっとで借りられました。照明セットも1000円以下、本当に学生には良心的な値段です!僕は学生じゃありませんがちゃんと貸してくださいました。おかげで頻繁に借りに行っていました。当時川口に住んでいたということもあったのでとても重宝しました。

http://www.skipcity.jp/price/

skipシティを知った経緯は、東京に行って2年目くらいだったでしょうか、役者を志す人が登録するWEBサイトが当時ありました、今もあるかどうかはわかりませんが。

そこに登録していたら映像の専門学校生が「卒業制作を作るから出演してほしい」と連絡が来ました。その学生がskipシティと併設している「早稲田大学川口芸術学校」の生徒さん達でした。

撮影中はすごく丁寧に接して頂きました。まだ駆け出しの上手くもない芝居に付き合っていただいた学生さん達には本当に感謝しています。

また、その学生さん経由で山田洋次監督の「母べえ」にエキストラ出演もしました。skipシティ横の空き地が「母べえ」のロケ地に決定した時期だったと思うので、学生さんからお声がけ頂きました。

故・大滝秀治さんとも写真を撮らせて頂きました^ ^大切な想い出です。

まず最初は、出演者全員で打ち合わせをした「みらい館大明」という池袋にある閉校になった学校を再利用してレンタルできる施設で、一室借りて行いました。

出演者とスタッフ合わせて約30名ほどだったので、全員が入れるところとなると限られますから学校になりました。

http://www.toshima.ne.jp/~taimei/index.html

公園の撮影は抜けのいいところを探すのに手間取りました。ネットで良さそうなところをいくつかピックアップして、手当たり次第に見に行きました。埼玉に良さそうな所があったので、その公園がある地域の管理組合に申請を出して受理されてからの撮影。撮影時は立ち合い等は何もなかったので問題なく撮影は終えました。

しかしここで予想外な出来事が発生!ロケハンは夏だったので木々が青々と茂っていたのですが、撮影は年末くらいだったので木々が枯れまくり、何やら寂しい絵になってしまいました。。。ロケハン時のイメージも大事ですが、撮影の時期も計算してロケーションを選ぶことを教わりました。

秋↓

レンタルルームは雑居ビルの一室でしたが、ここに病院のベッドを搬入して撮影。

ベッドのレンタルを行っている業者は多々ありますが、1日のみ利用する前例はあまりないらしくてレンタル業者も撮影利用は興味津々な感じでした。撮影当日に業者の営業の方が来られて名刺交換の際は快く対応していただいたので問題なく撮影は進みました。

そして撮影で使用した学校は、打ち合わせで使用した学校とは別です。どこの学校かはちょっと忘れてしまいましたが、埼玉にある廃校を利用したレンタルできるところです。ドリー撮影の準備や本読み、演出とめちゃテンパりながらやっていました。

撮影日数は確か計8日間だったと思います。

色々事情があって途中中断したりで撮影開始から撮影終了まで半年以上かかってしまいました!本当にふがいない!!映像をよく見ると季節感がめちゃくちゃです。まあドラマ仕立てでもなかったのでそれほど気にしてませんが笑。


撮影も終了したので次は編集ですが、当然編集の知識もなく編集ソフトもありません。カメラマンさんが編集ソフトを持ってらっしゃったので、撮影と一緒に編集も対応していただきました。

今思うと長期間付き合って頂き、途中で撮影が中断しても気長に対応して頂いたカメラマンさんには本当に感謝しかありません。人間が素晴らしいです。映像のことは右も左もわからない小僧に色々アドバイスやら機材とかの協力もほぼ無償で提供していただけるなんて。どんだけ素晴らしいねん!カメラマンさんには本当に何から何まで対応していただき本気(マジ)感謝しきれないです。今でもInstagramでは繋がっています。たまにいいね押します笑。


映像のテーマ曲は、PVで監督をされたNo entryにお願いして、映像にマッチしていた既成曲を使わせていただくことにしました。本編、そして予告編の2種類の制作が完了しました。

予告編は今でもyoutubeにアップしています、リンクは貼りません!恥ずかしいので笑。

作品の内容は自分の心の中の物語、葛藤や見たくないもの、自分の望まない現実が目の前に現れた時、それとどう対峙するか、といった内容です。サブタイトルとして「現実に直面する瞬間、あなたならどうしますか?」という文言を当時のHPやDVDにした時のパッケージデザインに盛り込んでいます。2007年には上映会も開催しました。

自主映画を制作している期間中、「ワクワクとか興味のあることに没頭」「頭の中のイメージをアウトプットする」という感覚を、多分それまでほぼ経験したことのない感覚です。自分の感情を使って表現する芝居の面白さはありましたが、この「映像を作る」という経験は自分の頭の中のイメージを芝居ではなく映像で具現化できる、これが芝居よりも面白く感じました。

理由は多分、「ココロノトビラ」の構成を考えてる時に、ある監督の作品を参考にしたからだと思います。その映像の面白さに惹かれたんだと思います。そして、僕は作る側へ転向することを決めました。

 

ミュージックビデオ

「ココロノトビラ」を作る上で参考にした監督はミュージックビデオを手がけている方です。丹下紘希さんという方です。Mr.Childrenや浜崎あゆみ、MONKEY MAJIKなどのMVを手がけている方です。Jam Films2というショートフィルムを集めたオムニバス作品があり、その中の「FASTNER」という作品が丹下さんの作品です。

http://www.amuse-s-e.co.jp/jamfilms2/#02

Mr.ChildrenのFASTNERという楽曲を元に映像が作られているそうです。他には「and I love you」というMr.Childrenの楽曲のMVも丹下さん監督の作品です。

丹下さん作品をとにかく何回も見て見て見まくった結果、ドラマとか映画ではなくミュージックビデオの面白さにはまってしまいました。ドラマもあり、インパクト重視もあり、不可思議な世界を音楽に合わせて多様に変化させ、どんな世界でも作ることができる。イラストだけでもいいですし、アニメーションやダンスを取り入れてもいいです。

表現方法はなんでもOK、音楽と合わせることで、一瞬で心を引きつけられるかどうか。音楽を視覚化したり、新たな付加価値を加える。それがMVの面白さなんだと思いました。役者から足を洗い、制作に転向してからはネット上の掲示板やMixiに「ミュージックビデオ制作します!」みたいな告知を書き込みまくりました。


映像に転向してどれくらい経ったかははっきり覚えていませんが、ある時インディーズバンドから制作の依頼がきました。自分一人で制作した映像はありましたが、依頼を受けて制作するのは初めてです。ワクワクとドキドキが入り混じって若干興奮気味の時もありました。依頼を受けて作るのが初めてということと、とにかく経験を積みたかったのでギャラは機材とレンタルルームの使用料のみで手間賃は貰いませんでした。

僕からは2案提出しました。


1案目はドラマ仕立てのストーリーだったかな?ちょっと忘れてしまいました。2案目は東京事変さんの「修羅場」からヒントを得たギミックを混ぜた内容です。

2案目が採用された。個人的にも2案目に力を入れていたので嬉しかったことを覚えています。早速準備に取り掛かって、たしか2・3週間かけて準備をしたと思います。

ビデオカメラは自主映画時代に活躍したskipシティの機材をレンタル。撮影場所は吉祥寺にあるレンタルスペースと、色々準備はありましたがお大きな問題もなく撮影日を迎えました。

 

責任の重さを自覚する瞬間

様々な調整や準備の総まとめが撮影です。しかし、些細なことでも準備が詰めきれていないと現場ではトラブルになる可能性があります。それを実際に起こしかけてしまいました、信用を失う可能性があった出来事です。今でもはっきりと覚えています。


結論から言うと、撮影で使用するレンタルスペースの玄関の鍵を紛失しました。


あってはならないことですがやってしまいました。しかも撮影当日の朝に鍵がないことに気がつきました、超大失態です。前日には絶対に確認しなければならないことをすっかり忘れていて、当日の朝に気がつきました。家中を引っ掻き回しても見つからず、グルグルと頭の中で考えましたが結局見つかりませんでした。

スタッフが1人いましたが、彼は現場だけのスタッフだったので鍵を持っているわけでもありません。他に鍵と接触するような関係者は誰もいません。


家の中にいてもどうしようもないのでまずは現場に行って対応を考えようと取り敢えず家を出ました。カメラや機材を持って現場に向かう途中の電車の中、ドキドキを通り越して心臓の音しか耳にはいらない状態になるほど周りの音が聞こえなくなりました。この時ばかりは冷や汗を通り越して意識が朦朧としました。視界がぼんやりしてふわふわするような感じでした。


このトラブルが自分にとっては重要な経験になりました。台本作成・準備・調整、多くの出演者が絡み、それらを僕が中心になって動いていました。その集大成である本番で起きるトラブルは自分にとってそれら全てが崩れる可能性があると同時に信用も失う可能性もあります。「なんとなく」でも「他人事」でもなく、この時に生まれて初めて「自分事」として目の前にある出来事にに向き合えたのかもしれません。だからこそこのトラブルが本気のピンチと思えるほど辛いと感じたのかもしれません。


現場に着いて早々に、レンタルスペースの関係者と連絡が取れ、近くの美容室にスペアキーがあると聞いたのでダッシュで取りに行って鍵をゲット!マジで超ひと安心!本気で胸をなでおろしました。

で、肝心の無くした鍵はと言うと、薄々感づいていたんですが、レンタルスペースを開けて中に入るとやっぱり鍵が落ちていました。前日に現場を下見に来て、帰り際に確かビルの関係者がいたので自分で鍵を閉めなかったのです。鍵を閉めていたら確実にわかると思うのですが、その時は開けっ放しで出てきたので鍵を持っていることを確認しなかったんです。


クッソ!自分クッソ!俺ちくしょう!!腹がたつ!俺っ!!


撮影開始時刻は若干遅れましたがなんとか撮影も終えたので事なきを得ました。

そのトラブル以来、「それをやるにはその前段階でまずこれが必要だよね」とか「その見方はこんな見方も出来ないかな」というふうにかなり用心深くなった?気がします。

自分がしている仕事、テレビやメディアで誰かが発言していること、それらに対して「その言葉を発言したその人の背景には何があったのか」「なぜそう思っているのか」という意識を持ち始めた気がします。当時はめちゃ勘ぐり深くて時々自分でもこんなことを考えるのが疲れることもありました。

「相手の言動の意図」みたいなものも大阪にいた時から漠然と意識していました、今回のトラブルも重なってより「相手」だけではなく「物事」に対しても意識が行くようになったのかもしれません。実際はどうか分かりません、でもこの出来事で新たな視点というか考え方というか、自分の中の何かを引き出したような、そんな気がしています。

仕事上で「そこまでしなくてもいい」と言われていたとしても、一歩先を想像し、最終的には提出や報告をしなかったとしても先を見越してできる限り準備を意識するようになりました。この出来事は本当にヒヤヒヤした出来事でしたが、僕にとっては経験しておくべき重要な体験でした。ですが、考えることと行動に移すことは別問題です。まだこの時は考えていてもそれを誰かに言ったり行動に移したりするほど勇気も行動力もありません。まだまだ自分の中だけでモヤモヤを抱えたり、自分一人で納得できてしまう感じでした。


映像を創ることは思考力や想像力が身につく、かも。


このミュージックビデオは自分で編集を行いました。編集ソフトはFinal cut pro7を購入、高かった!貧乏暮らしの自分には超高額でした。提案から編集、完パケまでの一連の工程を全てやると映像がどうやってできるのかを初めて体験しました。そしてとても楽しかったことを覚えています。さらには想像力が鍛えられる、とも感じました。


頭の中であーでもないこーでもないを繰り返し、紙に書き起こし、絵コンテにして、物語を作るこの一連の流れは本当にイメージ力が身につくと僕自身は感じました。「映像を作る」という体験、これは多くの人に経験していただきたいと思いました。極端に言うと、専門学校以外の公教育や私学でも映像制作を学習内容に取り入れてもいいのではと思っています。

個人的に楽しいとか出来上がっていく過程が楽しいとかの感情的な部分より、映像を作るという行為は思考や想像の訓練になるのかなと。この想像するという役割を果たすポジションとして1つ目は「ディレクター」、2つ目は「編集(エディター)」かなと、そして3つ目は「発信力」ではないかなと思っています。


1つ目の「ディレクター」

物語を作るために様々な情報を蓄積し、頭の中で思い描き、台本に落とし込んだり絵コンテを書いたりしてイメージを視覚化していきますよね。これはまさにイメージ力・想像力です。まだ見ぬ世界のイメージを膨らませる作業はとてもクリエイティブで想像力の訓練だと思っています。様々な情報からピックアップし、選択肢を絞りながら面白くなりそうな物語を脳内で構築し、新たな展開を生み出す想像と思考の繰り返しです。そしてスタッフ間で共有するというコミュニケーション能力や言葉の表現力を養うのにも役立つかもしれません。


2つ目の「編集(エディター)」

実際に画面を見ながら「こうしてみよう」「あれを入れてみよう」「この効果はどうだ?」「タイミングはここか?」などの、試行錯誤を繰り返すという気の長くなるような作業の中に自分の想像を実行する作業の連続です。一つ一つの画面をつなぎ合わせ、加工(se・エフェクト・BGMなど)を加えながら少しづつ具現化していく流れを自分で作れるポジションがエディターということです。もちろんディレクターの指示を受けてからが編集ですが、自分の想像次第ではディレクターのイメージを超えるものを生み出すことも可能だと思います。「実際に自分で操作をして目の前に想像したものを具現化する」という意味では、感覚的にはプログラミングと近いかもしれません。

さらに、映像の場合は手を加えても加えても、もっといいものはできないか?という上を目指せばきりがありませんから、果てしない?のかなと勝手に思ってます。「試行錯誤する」という思考の訓練という意味では、映像編集は思考を鍛えるのにいいツールかなと思います。あと、編集は忍耐力が身につきます笑。


補足として、「撮影」は絵の中に何を取り入れ、どう構図を作るとかいうアート思考が養われるとメディアアーティストの落合陽一さんも仰っています。

絵の中に何を入れ、何を省き、何を主張し、何を影に潜めるか。

1つの絵にどんな物語を作るかという視点でファインダーを覗くと「記録」とはまた違った視点で撮影できそうですね。これも思考の訓練になると思います。


3つ目の「発信力」

今後益々発展するであろう映像メディアを活用し、自らも発信できる力を身につけられるという点です。これは多くの方が有用性を説いていますので、ネットで調べれば色々出てくると思いますので簡単に。

「映像メディア」はこれまで以上に身近になってきています、それは自分のPRや表現というツールにもなってきていると思います。しかしその作り方については、絵の書き方は教わっていても「映像メディア」の作り方を教わることは普段ほとんどありません。

映像という知識・技術を持っているのと持っていないのとでは表現方法の幅も変わりますし、選択肢を多く持つことが柔軟な発想につながります。もっと突き詰めたい場合は専門学校で学べばいいと思います、学校教育では「映像メディア」とはそもそも何で、どんな種類があり、活用方法は何があるのか、といった簡単な映像制作の実習はあってもいいと思います。


「思考の訓練✖️映像制作」は、活用できそうな気がします。

 

AD→フリーランス→今の仕事へ(ちょい駆け足)

本格的に映像の道へ進むために当時所属していた芸能事務所を脱退し、制作会社でADとして働き始めました。ミュージックビデオを作った時は全て独学でやっていたので、基礎は誰からも学んでいませんでした。

制作会社でロケハン・アポ・機材準備・編集などAD業を一通り学ばせて頂きました。やっぱり有名企業が絡む内容は忙しいけど楽しい、ちょっと高尚な気分に浸ったりもしました笑。

働いた期間は短かったですがここで色々と学ばせて頂きました。株式会社みこしの皆さん、特に勝浦さん、ありがとうございます!

東京で映像制作に転向して大体3年経った時に、家庭の事情で大阪に戻ることになりました。祖母の体調不良が理由です。

大阪に戻ってから最初はフリーランスで仕事をしていました。東京で知り合った方から編集の仕事を頂いていたので、自宅で部屋に閉じこもって黙々と編集をしていました。編集の量はそれほど多くなかったので生活の為に制作会社へ自分のポートフォリオを作って営業して仕事を受けたりしていました。


この時の僕は物事に対して、能動的ではなく受動的でした。仕事自体は淡々と進めることができると思いますし、とくに大きなトラブルもありませんでした。skypeでの打ち合わせや事務所に行って打ち合わせ、地方に行っての撮影や素材データを受け取って編集。最初に期日を決めれば、あとは基本的に自分で撮影や編集スケジュールを決めて進めていました。それほど大きな仕事を受けていないっていうのもありますが、、、。この時に感じたことは、リアルな人間からの情報や刺激、そして社会が動いている実感がわかないことに対する「不安感」でしょうか。

当時僕はニュースアプリで情報収集やTwitter・Facebookもやっていませんでした。インプット・アウトプットはほとんどしていなかったのです。周りの人間がどんなスキルアップや経験、どんな現場に行っているのかが正直分からず、孤独感すら感じていました。同僚や近くに他者がいれば話をしたり行動を見るだけでも自分なりの考えを巡らすことはできますが、それらが基本無かったので自分の主観でしか物事を考えず、俯瞰して判断できないような状況でした。自分が能動的に情報を集めることをしていなかったことは自分の責任ですし、考えが甘かったのも事実です。しかしこの時はそんな考えを巡らすこともせず、ただモヤモヤを感じていました。

もしかしたら他の理由があったのかもしれません、思いだしたら追記します。そして、どこかの制作会社か企業に所属して働こうと決めました。


求人募集を漁っているとたまたま教育系企業の映像職募集を見つけたので応募しました。当時は派遣社員として派遣会社から出向の形でした、面接も1回でだけで通過したのでそこで働くことになりました。教育にもともと興味があったわけではなく、この時は本当に偶然この仕事を見つけただけです。映像授業と呼ばれるネット配信用の動画の制作です、東進のCMでやっているような動画です。この仕事は2012年3月から2019年6月の今の時点でも継続しています。フリーランスは約1年半ほどで終了しました。

 

教育系企業(進学塾)で授業映像を作る

関西で200以上の校舎を展開する進学塾に就職し、映像の仕事に派遣として従事することになりました。入社当時僕は32歳でした。授業映像を制作する専用の撮影スタジオがまだできたばかりでした。

反転授業と呼ばれる家庭で視聴する10分程度の動画や生徒が欠席した時用の動画、有料コンテンツなど映像に関する制作をしています。基本的には教師が白板の前で授業を行なっている動画なのであまりクリエイティブな要素はありません。ただ数が相当多くて、年間約1000本弱程度は撮影しているでしょう。


入社当初、撮影の準備・撮影時の流れ・編集時の注意点・ファイルの管理・サーバーアップの手順などは一切決まっていなく、僕以外はアルバイトだけだったので全ての手順を僕が決めていきました。入って3ヶ月くらいは昼飯は週1か2日くらいしか食べる余裕はありませんでした。まあ動き出して最初の時期は大体どこもそんなもんかな?と勝手に思ってます。

入社から2年くらい経った時に、僕がスタジオの責任者になることが決まり、派遣から正社員として正式に採用されました。

 

ショップ運営

会社に入ってから3年程して、映像以外の何かをしたいと思うようになりました。その理由は、祖父母が営んでいた自宅兼居酒屋の店舗が何年も前から荷物置き場になっていて、なんか勿体無いなあと大阪に帰ってきた時から思っていました。使えるスペースがあるんだから有効活用できないかな。

シェアリングエコノミーが広まり、スペースマーケットなどのシェアサービスも出てきていることは知っていたので活用方法を探していました。

貯金もそれほど蓄えがあったわけでもないので、費用を抑えて何かレンタルや販売ができるものはないかと考えた結果、委託販売であれば資金を抑えられると考えました。

そして思いついたのが「ハンドメイド」でした。


2015年ですがホビー全体の市場規模は1兆9331億円、クラフトでは8906億円にも登ります。関西では定期的に大きなイベントも開催されたりハンドメイドの委託販売はやっている人もそれなりにいるので知名度はあると単純に考えました。それからオンライン販売を視野に入れて居酒屋の店舗改装に着手しました。

水道管とガス管は個人ではできないので業者に依頼し、それ以外の簡単な電気配線・扉修繕・塗装・壁紙張り替え・コンクリート埋め・天井の補修などは、週末や連休を利用して約半年間かけて妻と一緒にやりました。リノベーションまじ楽しかった!

HPを作り、google mapにも店舗を登録しました。フライヤーやショップカードも作りました。店舗の改装が終わり、オープンの日程も決まったので近隣住民の方々に安いですがハンドタオルと手紙を一緒にして挨拶周りをし、2016年8月にやっとこさオープン!

店名は「krukku(クルック)」と名付けました。

魔法陣グルグルご存知ですか?その名前をもじっただけですが、個人的には結構気に入ってます。



平日は会社員、週末はハンドメイドショップを開くというスタンスで続けていきました。基本休みは大型連休の時に数日休める程度で、それ以外の日は全て店舗を開けることにしました。オープンして1・2カ月は近所の方やチラシを見て来られる方、物珍しさでお客さんもそれなりには来てい頂きました。

しかし、3ヶ月目くらいからはお客さんはそれほど多くは来ませんでした、理由はやはり場所です。ほぼ近隣住民しか通らない「シャッター商店街」と言ってもいいでしょう。人通りが少なく、駅からも歩いて10分程度かかります。民家街にある店舗なので、このお店のためにわざわざ来るお客さんも少ないでしょう。しかしそれは想定してました、場所がよくないので店舗での売り上げはそれほど見込んでいませんでした。売り上げの主軸はオンライン販売を考えていましたから。

オンラインでの販売方法を模索し、プラットフォームを開発することも検討しましたが、minneやcreemaなどのハンドメイド大手オンラインプラットフォームが既にあるので、今から立ち上げても効果は薄いでしょう、しかも個人ですから。知名度も信用度も比較にすらなりません。

オンラインで販売する場合、商品を自分で作っていれば販売金額の7割程度は自分の収益(残りはwebサイト側の手数料)になりますが、委託販売は作家さんに売上げの7割、残り3割がこちらの利益です。なので委託販売は薄利多売、数を売らないと売り上げが上がらないのです。メーカーやプラットフォーマーで主導権を握るレベルにでもならない限りは薄利多売なのかもしれません。

自分の考えの詰めが甘く、結局2017年12月で店を閉めることとしました。

しかし、ここでの経験も大切な「学び」になりました。

 

行動と自問自答

頭の中でビジネスモデルを描いたりイメージしてみたりすることは大切ですが行動が伴わなければ机上の空論、絵に描いた餅です。

まずはやってみて実現可能かどうかを動きながら確かめる、ということの大切さをこの時から考えるようになりました。始める前から実現可能かどうかは分かりません。もちろん資金が潤沢にあればより実現しやすくなりますが、資金のない個人ではまず小規模から試行錯誤してみること。何より「行動するクセ」を身につけていくこともこの経験で大切だと感じました。見苦しい部分はあるかもしれませんが、まずは動き、形を作り、試行錯誤を繰り返すことが大切なんだというふうに考えるようにしました。

そして仮説検証しながら同時に行動する。

考えながら行動し、予測と異なる結果が出ればそこから軌道修正、また検証しながら行動。当時、そんな事を感覚的に考えていたと思います。


そして、もう一つ。

自分のアイデアを疑うこと。

行動の大切さを書きましたが、「そのアイデアは考え尽くしているか?」という自分へ問いかける意識は持ち続けなければなりません。それがてきなければ行動しても途中でビジネスモデルやプラン変更の確率は高まります。行動は大事ですが、途中で変更が発生すると逆に時間がかかってしまったり場合によっては最初のアクションが無駄になる場合もあるでしょう。

過信せず、自分へ問い続ける、そして迅速な行動。

このことを店舗運営で学びました。

 

違和感

店舗を閉めた後、気持ちを切り替えるために今の会社の仕事に集中して取り組んでいました。撮影や編集そして数十人いる撮影に来られる講師とのやりとりや情報共有、各事業部から種々入ってくる案件に対応していました。管理的な仕事も多いですが、それなりに頑張っていました。仕事は集中して取り組んでいたと思いますが、入社当初からある疑問というか違和感みたいな「もやもや」を感じていました。多分多くの方が感じていることだと思います。


ちょうど店舗を運営している時くらいからだったと思いますが、この疑問や違和感の原因は「そもそもどこから来ているのか」ということを考えるようになりました。これが今自分が行なっている取り組みのきっかけになります。

その違和感は2つです。


1つ目は、

この会社に入って早々から気になっていた事ですが、「自分毎意識」を持っている人が少ない、ということです。

例えば、「本来伝えなけえればならない相手に情報が伝わっていない」としましょう。伝える側は「ちゃんと伝わっているか」、複数人が絡んでる場合「ちゃんとみんなに伝わっているか」という確認が場合よっては必要でしょう。しかし、メールを「送った」という1つのアクションで満足しているのでしょうか、確認する事なく終わるケースが度々起こり、情報を伝えるべき相手に伝わっていないケースが発生したのです。つまり、誰に連絡すればいいか分からない状態で、「おそらくこの人に送ればいいだろう」程度の認識でメールを送り、知る必要のある人が知らない、という問題が起こったのです。

結果として、期日ギリギリになって「聞いていませんが・・・」「詳細がまだですが・・・」などの問題に発展しかねない出来事が頻繁に起こりました。最近では「情報を受け取る側が確認をすることが前提」みたいな風潮も感じて、「そもそも知らないのにどうやって確認するんだろう・・・」みたいな、仕事ってそもそも何なのか、色んな矛盾を感じていました。

仕組みができていればこんな問題は回避できるかもしれませんが、その仕組み自体が出来ておらず、そこにテコ入れする必要があると申し入れても、「う~ん」とか「それはどうしょうもねえ」など、果ては「俺は指示を受けただけだから」というなさけない返答。

現状維持ならまだいい方かもしれませんが、現状維持すらできていないケースが多々あります。課題を感じている人は大勢いるでしょうが、そこに踏み込もうとしない人が大勢いるんだということを身をもって感じました。


この問題は、私がいる企業だけに限ったことではなく、経営年数が長い企業ほど陥りやすい問題だと思います。よくいう「大企業病」というやつでしょうか。社会がデジタルに変化しても思考がついて行かなかったり、前例を踏襲してアナログな手法で解決しようとしても相手がデジタルであれば根本解決には至らず、問題が複雑化して浮き彫りになることもあります。そのような体質になってしまった企業はそう簡単には変化できず、それが長くなると「もういい」「そんなもんだ」などの他人事意識を生み出すのかもしれません。

はっきり言ってあまりにも無知と言わざるを得ないと思いますし、危機管理が無さすぎる。そして情報を共有するという意識があまりにも欠落している、これがどれほど混乱を招き、人の成長を阻害している行為かを恐らく認識すらできないのかもしれません。


●どうやって情報共有するか。

●伝えた相手は同じ認識を持っているのか。

●一緒に物事を進めるため、合意点を見つけるまで話し合っているか。

(個人で何かをやるのなら別ですが会社で同じ仕事をするわけですから合意形成は必要だと思います)


こういったことまで想像できるかどうか、おそらくここが重要なんだと個人的には思います。そしてそれが「他人事」ではなく、「自分事」と捉えることになるんだと考えています。そこが欠けているような気がします。


※トップダウン体質の企業は権限委譲をあまりしないので、上長や関係各所への確認のオンパレードです。他人事意識の原因はダントツでここです。

で、私の所属する企業もこれにあたります。

 

2つ目は、今の学校教育システムです。

大多数の方が受けてきた教育方法だと思います、教師1人対数十名の集団授業というシステム。これは明治維新頃に生まれた集団授業、そして戦中・戦後に確立された軍隊教育の名残がシステムとして今だに継承されています。この集団授業に違和感を感じます。

20年くらい前は僕もこの形式で授業を受けていたのでわかるのですが、全員一緒に同じ問題を解いて一緒に進める。教師の誘導で教科書通りに進めるこのシステムは、高度経済成長の時代では有効であり効率的に均質な人材を輩出する教育を提供できていたんだと思います。しかし、時代や価値観は当然変わります。現代において、本当に子供の「知りたい」という気持ちや疑問力や好奇心を養えているのか、という疑問は当然感じます。

教師が「わかる人」と言って生徒が手をあげる。完全に誘導であり、わからない人は後で先生のところに質問に行ったり、質問せずに分からないまま帰る。これは置いてけぼりを食う子供が出る仕組みです。問題がわからない生徒に寄り添ったアプローチができていない。

質問タイムでもない時に生徒が手をあげ、間違っていても両隣や前の席の友達がサポートしたり、それを教師や生徒達が認めるという土台がそもそもできていないと感じました。正解を言わないと恥ずかしい。間違えられない。だから言わない。間違えることが成長のヒントだということを現代社会ではまだまだ理解できていません。


これが「正解主義」です。


本来、その間違いこそが成長の鍵になるもののはずです。「何故間違えたのか」「その間違いから何を得るのか」これが大きく人を成長させるポイントになるはず。しかし、その間違いを良しとしないのが今の教育システムです。「自分から能動的に好奇心を持って知る」という根本的なところに重きを置かず、昔からのやり方をただ踏襲しているだけなのではないか。

「知識の詰め込みは」受験では有効です。子供達も受験に合格すると嬉しいでしょう、それが子供達にとっては目標ですから。しかし、本来教育の目的は、「社会で活躍できる力を身につける」ことが目的であるはず、その為には受験よりも先を見据えた意識を教師自身が持ち、「子供にとって何が重要か」を考え続ける必要があります。それが本当の「子供の為」なのだと個人的には思います。

会社内での「他人事意識」と、学校の教育システムは紐付いていると僕自身は考えています。

 

行き着いた先は「母親」

思考力の弱い大人、おかしい事に声を上げない。

矛盾や疑問を今の会社で感じ、その根本的な問題は何なのか、どこが原因なのか。

自己肯定感の低い大人が溢れかえっている現状、これは好奇心や疑問力を高めることが出来なかった学生時代の教育システムが原因だと当然ですが考えました。

ここの改革をするには国家レベルのテコ入れになるので、一個人では正直厳しい。


更にその先を考えてふと浮かんだのが家庭環境です。

要するに、学校で知識をインプットする前に、家庭での「愛情」が自己肯定感に最も影響を与えるんじゃないかと。

家庭環境の中でも特に最重要なのが「母親」、母親とお子さんとの良質なコミュニケーションが最も重要だということに行き着きました。

人生最初の教育とも言える母親からの何気ない会話、問いかけ、そして母親の笑顔が子供の思考力や好奇心・疑問力の土台になる、僕の結論はそこに至りました。

やりたいこと認めてくれる、肯定された状態で成長する場合と、「やめなさい」「早く行きなさい」と言われ続けた状態で成長する場合。どちらが想像力や好奇心が醸成されると思いますか?間違いなく前者です、断言します。

そしてこの想像力は、未来を良い意味で変える力も持っていると確信します。想像力のない大人が一歩先を想像出来ず、目の前のことだけに囚われ、主観で物事を判断して他者と合意形成もできない。そのような価値観で仕事をする。

「いじめ」の原因もここにあると僕は考えています。

つまり、「自分以外の価値観がある」ということを意識できない、考えられないから結局自分の価値観に合う者同士が集まる。自分の中の「当たり前」という価値観にそぐわないものを排除する行為が「いじめ」なのです。


麹町中学校の工藤勇一校長の著書【学校の「当たり前」をやめた】にも「他者との対話による合意形成」の重要性が書かれています。「他者を意識できない人」はそもそもなぜそんな意識になっているのか、この本を読んで腑に落ちました。言語化できないモヤモヤを「他者との対話による合意形成」という言葉で言い表されていて、本当にしっくりきました。

いじめ、差別、足並みを揃える、「指示・命令」という同調圧力と思考停止。

他にも色々あると思いますが、これらは全て学校で「他者との対話による合意形成」を小さい時から行う経験が少ないから起こっているのではないか。その結果「自分以外の価値観がある」という意識をそもそも持てないことが根本的な原因なんだと考えました。


①母親と笑顔会話している状態で学校教育を受ける場合

②母親がイライラして会話も少なく「早くしなさい」「困らせないで」と言われた状態で学校教育を受ける場合


どちらがより自己肯定感高く学校生活を送れると思いますか?考えるまでもないかもしれませんが、一度考えてみてください。

 

子供の脳

下の画像はエビデンス(科学的根拠)も実証されている統計です。

子供の脳は、個人差はありますが大体3歳くらいまでに80%成長しきることが実証されています。つまり、学校に行く前の家庭での良質な声かけや会話、触れ合いというコミュニケーションが脳の成長に大きく影響し、成長に連れて脳の成長度合いにも大きく影響します。

母親の笑顔は子供を安心させる効果があります、そしてこの安心が好奇心や疑問力、行動力に繋がるのです。だからこそお母さんの力は重要であり、お母さんの笑顔は社会に良い影響を与えると信じています。それぐらい重要な存在だと認識しています。

僕が子育てや教育に関する取り組みをする理由はここにあります。

 








振り返って

小・中学生時代は他者の言動を強烈に意識するいじめという体験。芝居や映像と出会って想像力の重要性を感じる体験をすることができました。これらは僕が偶然出会った事象であり、誰でも同じ経験をするわけではありません。もし同じ経験をしたとしても、その経験をどう捉えるかは人によって当然違います。僕と同じ考えになることはまずないでしょう。

しかし、どれか一つ欠けていても「今自分が大切にしていること」や「今の考え方」は得られなかったでしょう。ひょっとしたら考えることから逃げている生活を今でも送っていたかもしれません。

「いじめ」を受けていなければ他者を意識することもなかったかもしれません。勿論経験する必要のないことも当然あります、僕の場合はまだ程度が軽かったので良かったんだと思います。

映像をやっていなければ間違いなく今の会社に入っていないですし、人生最初の教育である家庭での親子のコミュニケーション、そして母親の重要性に気がつくこともなかったでしょう。

そしてそのきかっけをこの会社で得ることができました。

特にこの会社では疑問や矛盾を感じることができて本当に良かったです。この会社と出会っていなければ間違いなく「疑問」を直視することもなかったと思う。そして「子育て」にも「母親の重要性」にも目を向けていなかったでしょう。


企業としては課題が山積してるかもしれません(どんな企業でも課題は常にあると思います)が、僕個人ではその課題を現状維持や放置している事実と直面した結果、「そもそも」を考えることができました。その時その時の状況をどう捉えるか、それ次第で課題も見えてくるでしょうし、どう判断するかでも状況は変わります。

時代時代に応じた捉え方や自分なりの判断基準を見つけるには、様々な情報をインプットする必要があると思います。そして、常に考え続けることです。

 

過去を再定義

僕が経験した出来事は今の僕を作っています、それは間違いありません。そして1つ1つの出来事を今の自分がどう捉えるか、それ次第では「いじめ」も”経験”に変えられます。勿論いじめを肯定しませんし、経験する必要のないことはいくらでもあります。しかし、経験してしまったことは取り消すことはできませんから、過去に対する捉え方を自分なりに工夫することが重要になります。

今では自分の過去を再定義できたのでは、とも思っています。しかしどう捉えるかは、自分の中に知識がないとどう捉えていいかわからなくもなります。経験したことに対してどう認識するか、どうアプローチするかは自分の中の引き出しからアプローチの方法を探さなければなりません。その引き出しが空っぽだったり少ないと辛い出来事も辛いままです。

引き出しの中に様々な知識があれば辛い出来事に対してどう対処するべきかを選ぶことができると思います。だから僕はできる限り様々な情報を吸収するようにしています。(多少は嗜好もあるので偏ってますが)

ニュースアプリや人から直接聞くことももちろん重要です、いろんな勉強会やセミナーに参加することもいいでしょう。「知らない」ということは選択肢を持たないということに似ています、というか同じだと考えています。

そして僕自身は、「自分が何をしたいか」という目標を見つけることで過去を再考察・再定義することができるようになりました。ただ、もし過去に戻れるとすれば1つだけやっておきたかったことがあります。学生時代、色んな疑問や矛盾に対して、自分なりの「思考」をもっともっと、とにかくもっと考えていたかったと思っています。その時に答えは出なくてもいいんです、アウトプットしなくてもいいんです。

考え続けることが何よりも重要で、この訓練が新たな視点を見つけ出すきっかけになるからです。

今の僕は、やっと少しは物事に対して別の視点で考えられるようになりましたが、もっと若い時から考えられるようになっていたらどれだけ世界をもっと俯瞰して見ることができたか。これは経験値としては大きなハンディキャップを負ったと思っています。

 

ターニングポイント

「何となく」生きることができるのが今の日本です、目標を持たず周りに同調し、摩擦を生じさせないよう振舞っていたら過去が嫌なもののままだったかもしれません。過去の体験のなかで自分自身が何に違和感を感じ、何が楽しかったか、何が悔しかったか。いつまでも心に残っている「違和感」がひょっとしたら原体験なのかもしれません。その「何か」を意識し続けていれば過去を原動力としてこれからの人生を大きく動かすキッカケになるかもしれません。

大切なことは、違和感を忘れないことです。そうすれば、見えてくるものが必ずあるはずです。


僕の座右の銘は、「全ては繋がっている」です。これは十数年前から変わっていません。(その前は座右の銘なんて持ってませんでした)

良いことも悪いことも、感動も喜びも悔しさも後悔も全て繋がっていて、「やりたいこと」を見つけることで、自分自身を作る要素になるかもしれません。少なくとも僕はそう思っています。

この執筆した記事は自分の身に起きた事象を、今の自分がどう捉えているかという視点で書きました。端から見れば思い出したくない出来事だったり、どうでもいいことかもしれませんが、それらも全て捉え方次第でターニングポイントになると思っています。


この記事をご覧の方に僕から何を提供できるかわかりませんが、僕自信の経験として。

過去の事象、そして今感じている違和感を忘れず、考え続けることができれば捉え方も変わるはずです。ターニングポイントとは、起きた事象に対して自分自身がどう捉えるか、だと思います。

その為には色々な情報を吸収してください、趣味嗜好で偏りはあってもいいと思います。インプットの癖を身につけて下さい。そして考え続けて下さい。考えるとは「得た知識を脳内で編集・応用する」ということです。考え続けることで新たな視点、閃きなどのヒントを生むと思います。この考える力が、悔しい過去や思い出したくないこと、おかしいと思う事象を「再定義」という結果に導いてくれるんだと考えています。

 

書けていないことがまだまだありますが、とりあえずこんなところです。

この記事は構成など一切考えてないですし、めちゃくちゃな乱文で申し訳ありません、校正もしていませんのでご理解ください。


機会があれば清書でもして再公開、しないかな?


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