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何でもできると勘違いした男が仕事が全くできなくてうつ病になり台湾に行き人生救われた話。〇〇〇に恩返ししたい。

Image by Olia Gozha

1、いたって大学までは順風満帆。


大学卒業までは超順調。

高校受験で慶應義塾高校に入り、2年連続成績優秀者となり、慶應義塾大学法学部法律学科に入る。

大学生時代は好きなピアノを弾き、千住明さん指揮でオーケストラとも共演させていただき、中学時代に暗算9段取得したその実力で、そろばん塾も切り盛りできるくらい、アルバイトをしまくった。子供と触れあうのも大好きで(当時は若かったしまあまあ人気もあった)、ピアノを弾きそこそこ勉強し、就職活動もコンサル会社に内定をもらう。

ほんと、ここまでだったら誰もが羨むような人生だったかもしれない。自分ってなんでもできるんじゃないか、って調子に乗っていたと思う。

2、コンサルで何もかもができない、周りがすごすぎると感じる日々。

だがしかし。

2011年3月。東日本大震災が起きた。東京に住んでいた僕は被害こそほぼなかったが、卒業式がなくなった。一区切りつける場所がなかったのだ。

そのまま内定をもらっていた誰もが知るコンサル会社に入社。

学生気分のまま研修が始まった。

今まで大学時代は文系でもありなんとなく勉強すれば単位は取れ、大学4年のときはほぼ午前はピアノを弾いて、午後はそろばん塾での指導の毎日。大学で勉強するのは週に2回程度。

そこから当たり前だが月曜日から金曜日は毎日会社に行く。そしてコンサル会社の研修だからいきなりガチなケーススタディ。

グループがそれぞれ編成されたのだが、それぞれ東大の院を出て宇宙工学を専攻しており、パソコンなんか余裕で使えるし頭のキレもすごいし性格もすごすぎる人と同じ。なおかつ今まで研究室にいたからお金もらえなかったもののコンサルに入れば今まで無給だったものがお金をもらえるとなる。

対する僕。

エクセル、パワーポイントさっぱりできず、論理的思考力なし(完全な右脳型人間なんです僕。今思えばコンサルは右脳型の人間が欲しかったのかもしれない…と前向きに考えられるが)おまけに体力もなければお酒も飲めない。(なぜか東大の彼らはお酒もバンバン飲めるしそれがおわったあとでもハイパフォーマンスで働けた)

入社1週間目から、これはこれはヤバいところに来たなと。

そして、研修課題が与えられるものの、何をやってもさっぱりなので、とにかく時間をかけるしかない!と思い終電まで残る&朝は始発出勤。

それでも全く追い付かないどころかもともと体力はない方なので精神的に参っていく。

3、新入社員歓迎会の失敗とついに会社から〇〇〇〇た日。

新入社員歓迎会での一コマ。何か得意なことを披露するのだが

僕は3桁×3桁の暗算を披露。

こんなの普段だったら暗算9段持ってる人だったらまず間違えない。

しかし自分よりすごい人たちに圧倒されてしまった僕はついにそこでミスを犯してしまう。

もうこれはダメだ。

自分のできるものまで失敗。失意のまま誰もフォローしてくれない。

そして新入社員初のゴールデンウィークを迎える。

ゴールデンウィークも出社しつつ何も成果を出せず、迎えた2011年5月17日。研修のプレゼンは明日に迫っていた。

お昼ご飯を食べ終わった僕は研修会場から突如姿を消した。

会社から逃げ出したのだ。

ついに耐えられなくなってしまったのだ。どこまで歩いただろうか。皇居、神田、その先まではもう覚えていない。

母にどうしようもなく電話して、家までは帰ってきたが放心状態。

間もなくうつ病と診断された。

人は何もできない環境だとうつ病になるのだ。いやぁ弱いのは分かっていた。体力もないしメンタルも弱いし、全てが塞ぎ込み毎日自殺を考える日々。

4、うつ病の中、助けてくれたひとことで台湾へ。

そんな中、見かねた両親が、

もう一度台湾で中国語勉強すれば?

と言ってくれたのだ。

もう一度、というのは、

僕は親が両方とも台湾人だが日本生まれ日本育ち。

だから家では中国語聞いてわかってはいたけどしゃべれるってほどしゃべれるわけではなかった。

だから環境を変えてもう一度中国語勉強してそれから考えたらどう?という提案があったのだ。

その時はまだ意識朦朧としていて、とりあえず台湾には行く。とだけ決めた僕。

国立台湾師範大学で中国語の語学留学をすることになる。

5、みんなよく中国語しゃべれるわ。なんでこんなに?いや裏返すと…

そして最初に入ったクラス。

アメリカ人、南アフリカ人、ドイツ人、ベトナム人、カナダ人。めちゃくちゃよくしゃべれる。

うつ病の僕はほとんど何も言葉を発せず圧倒される。

ただただ毎日とりあえず3時間のみの授業を受け、淡々とこなす。それしかやることがないから、授業が終わり、当時お世話になっていた叔母と、一生懸命中国語の勉強。

そうすると、なんとかだんだんとディクテーションのテストで点数が取れてくる。(リスニングをして漢字を書きとるテスト)

そして、僕は取れているけれども、周りの欧米人はしゃべることはできるのだがさっぱり書けない。

ここでほんのちょっとずつだが、自分が人よりも”できる”ものがある、と久しぶりに気づけたのだ。

うつ病の当時は水をポットからコップに注ぐのすらできなかった。

だけどもともとできた勉強、というものが自分の中でもう一度できるとわかって(うつ病の薬飲んでいたけど頭はおかしくなっていなかった、ごめんなさい、親には飲むなと言われていたけど実は隠れて飲んでいた)、
すごくすごく一歩を踏み出せた気がした。

そして、クラスメート、先生も温かい人柄で本当に良かった。

ある日、自転車でカナダ人、ベトナム人、もう一人いた日本人と台湾の中山というところから、淡水まで走ろう!となった。

3人が誘ってくれたのだ。(特に何も当時は本当に口数がほぼゼロだったのに)

これは嬉しく、自転車で自然の風を浴びながら走り切り、思ったことは…

台湾の自然は素晴らしい。

そして、

人間、だれしも弱いところがある。

これだった。

これに気づいてから今までのうつ病が嘘のように吹き飛んだのである。

日本人は書き取りや読み取りが得意。欧米人は聞き取りやしゃべるのが得意。

それぞれみんな得意分野があり、逆を言うと

弱さ、があったのだ。

人間誰だって弱いところがあるんだから、僕だって、たまたまそういう会社に入って、そういう運命になってしまったのだと。

だけど、得意で好きなことを今度はやればいいじゃないか。

そう思えて人生が楽になったのだ。

そうして、台湾での生活はどんどん前向きになり、最終的には雑誌の論評の授業をする、

台湾師範大学において最高レベルの授業を受講するまでになった。

6、復活かと思われたが次々と重なる謎の出来事に帰国するはめに。

ところがところが。

今度は、クラス内でいじめが始まる。ある生徒が僕の選んだ金融の記事にいちゃもんをつけて、先生とその生徒がグルになってめちゃくちゃ批判をし始めた。

そして、台湾ですごく仲の良かった親友と大喧嘩をし、当日付き合っていた彼女とも別れ、挙句の果てに、何が悪かったのかいまだによくわからないのだが、当時住んでいた叔母の家に帰れなくなり、家族仲まで崩壊。

台湾各地を転々とする中、貯金が底を尽きた。

2011年11月ごろにうつ病が治り、やっとやってきた束の間の幸せも、2012年4月に貯金が底を尽きて日本に帰ることとなったのだ。

そして、日本に戻ってきてからも、以前お世話になっていたそろばん塾のところで働いているある助手から、塾長先生からいじめのようなものを受けている。相談に乗ってほしい。と言われ、世の中、人間とはいったいどうなっているんだ!?と大きく怒りを覚えた僕。

もうそろばん塾をやるしかない!と思い立った。

7、そろばん塾どうやってやったんだ?お金ないだろ?うつ病の再発も!?

しかし当然資金はない。

でも想いは通じるのだろうか。父の知り合いで、そろばん界、古いからあなたに変えてほしい、出資してあげる、という人が現れたのだ。

これはもうやるしかない。ということで勢いで2012年8月にそろばん塾Abacus Studioをオープン。生徒が一人もいないのに、家賃30万円のところを借りてしまった。

最初はネガティブな感情でスタートし、実はうつ病が再発していたかもしれない。なぜならこの時期くらいまでは歩いているうちに訳も分からず涙が出ることが何度かあった。男なのに恥ずかしい、とは思っていたが止められなかったようだ。そして、資金はさらに飛んでいく。

8、大丈夫。好きで得意で、社会貢献できてお金が稼げる!と信じれば怖くない。

だが、そろばんは小さいころから慣れ親しんだもの。

好きで、得意なことで、お金が稼げる(いやきっと将来お金が稼げるはず)。

紆余曲折もちろんそろばん塾をやりながらもいろいろあったが、

今や7年ほど経つが、おかげさまで日本一の生徒も2名輩出できたほか、生徒は1教室しかないものの140名~150名ほどは常にいる状態。

2018年11月には

『”そろばん式暗算”が子どもの右脳を鍛える!』(大和出版)を出版することができた。

https://amzn.to/329SNCV

まだまだ売れ行きはそこまでではないが、とにかく好きなことができて、得意なことで社会貢献できて、そこそこお金が稼げることに感謝をしている。

9、本当にやりたいことは何なのか?何に恩返ししたいのか?

じゃあ、そろばんをやれば満足なのか?

実はそうではない。

やっぱり、

台湾の師範大学で中国語を学び、そこで人間みんな弱いところがある

と知らなければ僕はうつ病で死んでいたかもしれないのだ。

じゃあ、台湾に恩返し、そして中国語そのものに恩返しがしたい

そして、ずっとそろばんを”教えてきた”ということもあるので、恩返しするには、中国語を”教えて”しゃべれる人を増やして、日本では生きづらいけれども、台湾や中国語がしゃべれる環境だったら(少し台湾の方が雰囲気もゆるいし)生きていけるかも!と思う人が一人でも増えてくれたらとてもうれしい。

そんなことで、Youtubeチャンネル、

毎日5分で中国語がしゃべれるようになるチャンネル

https://www.youtube.com/channel/UC6_ZFCDKJAVL2DXvKTBZIJw

を開設しました。

まだまだ登録人数は少ないですし、試行錯誤の日々ですが、皆様のお役に少しでも立てるように、そして僕を救ってくれた中国語に恩返しができるよう日々発信を続けていきたいと思っております。

よろしければぽちっとチャンネル登録してくれるととてもうれしいです。

最後までお読みいただきましてありがとうございました!

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