「ギランバレー症候群」
非常に稀な疾患で、発症率は毎年10万人に1〜2人の割合だ。
食中毒やインフルエンザなどの感染があった後、免疫システムに不具合が生じて1〜3週間後に両手足に力が入らなくなり、急速に麻痺が全身に広がり、重症化すると呼吸するための筋肉にも麻痺が生じ、人工呼吸器が必要になることや死に至ることもある自己免疫性疾患である。
神経や筋肉の回復には、何年もの努力を要し、後遺症が残る可能性もある。一般的に予後良好と言われているが、生活に支障をきたすほどの後遺症が残る人が約二割程度いる。
(「ギランバレー患者の会ギランバレー症候群とは?」
https://sites.google.com/site/gbskanjyanokai/home/guillain-barr-syndrome参照)
上田さんはギランバレー症候群が重症化したケースの一人で、ピーク時には呼吸困難になり人工呼吸器を装着していた。
意識ははっきりしているが、急激に体が動かなくなっていくという状況の中で、人は何を思うのか、そしてどのような関わりを求めるのだろうか。
もし自分が同じ状況になったらと想像した。ベッドから全く動くことのできない自分。私の頭のなかは果てしない絶望でいっぱいになるのではないかと思った。死んでしまうかもしれないという不安。一命をとりとめたとしても今までとは同じ生活はできないかもしれないという不安。考えれば考えるほど、嫌な想像ばかりが浮かぶ。なんとなく怖くなって考えるのをやめた。
上田さんは、何を思ったのだろうか。そして上田さんの話を聞いて私は何を思うのだろう。
上田 私ももう今年ね還暦なんですよ
たぶんその辺もね人生観に大きなベースになると思うんですよね。
上田 理系の大学を出て当時のコンピューターに興味を持っていて、働いている人の表情が明るかった外資系の企業に就職したんです。でも、平成不況になって一緒に働いてる人たちが辞めてつまんないなと思ってしまって、当時30を過ぎてて恐れを知らなかったので、辞めてしまいました。
その後4、5年は研修講師とか技術講師とか色々やりながら生活していました。その中でオーストラリアに仕事で行く機会があってそこで再就職して10年間働いていました。その後は日本に帰ってきてのんびりとITのコンサルとか専門学校でゼミをやったりとかで生活しようと思ってたのね。でものんびりやろうとする反面、自分で自分で商売していかなきゃいけないから、ビジネス交流会とかいろんなところで人といっぱいあって結構忙しくしてた。睡眠時間とか足りなくなって大変だったんだけど、色々やり始めようとしたタイミングでギランバレー症候群になっちゃったんだよね。今から、5年前だね。
―そう言いながら上田さんは私に資料を渡した。そこには病気の発症から現在までに起きた体の変化やそれに付随して考えたことが体験談としてぎっしりと書かれていた。私はその資料を見たときに発症から現在までの5年間の経験をこんなにも事細かに覚えているということに驚いた。そしてこの資料を受け取った時に上田さんは私に伝えようとしてくれていると思った。すごく嬉しいと思ったのと同時に上田さんの言葉をしっかりキャッチしなくてはいけないという緊張でペンを握りしめた。
その一方で、上田さんは「これよかったらどうぞ」と持ってきてくれたお菓子を開け、発症した時の出来事を語るのだった。
【問題解決能力というか生きる力を試されている気がした】
上田 今まで、大きな怪我や病気になったことがなくて何もかも初めてで本当に大変でした。
年末の忘年会で生煮えのモモ肉を食べたんだよ。それでひどい下痢をしちゃって、治って二日後にギランバレーの症状が出たからカンピロバクターとかの菌は検出されなくて原因ははっきりとはわからないんだけど。最初はね、夜に歯を磨こうとしてマグカップを持とうとしたら指が逃げちゃう感じがあって変だなあとは思ってたんだよね。でもその前に下痢だったし、二日間くらい眠れなくて徹夜とかしてたのね。今思うとこの時すでに体がおかしかったんだよね。それで、疲れてるのもしれないと思って寝ちゃった。
翌日目が覚めたら、両手に力が入らなくてなんかすごい変な感じだったんだけど、立ち上がることはできた。この時、知識がなかったからもうちょっと寝たらいいのかなと思って寝てしまったのね。でもなんかスッキリしなくて色々調べて、ギランバレーじゃないかって思った。
それから、総合病院の緊急外来に電話して、普通とは違うことが起きているって感じがしてるっていうことを伝えたら、「色々心配ならすぐに救急車で来なさい」って言われたのね。調べた時も進行がすごい早いってどこにも書いてなくて、ああ入院なら準備しなくちゃって思って一時間くらい準備してた。そうやってゆっくりぐずぐずしているうちに立てなくなっちゃって、いよいよまずいなって思った。その時鍵が空いてないことに気づいてね、その時は一瞬パニックになりましたね。なんとか必死に鍵を開けて玄関で転がって待ってたの、ドアが開いて救急隊のたくましい人がきたときには「助かった」って思った。
それから、救急車から病院に連絡してもらったら「もう急患でいっぱいだからきてもすぐに見られない、だからさっきなんで来なかったのか」って言われちゃってね、それで他の病院に行ってMRIとか色々やってくれたんだけど、なかなか診断がつかなくて。こっちからなんか言って先生の機嫌を損ねたらどうしようって思ったんだけど、ギランバレー症候群じゃないんですかっていうことを上から目線にならないように伝えた。そしたら、先生もなんかネットなんか調べちゃって俺と同じじゃんって思ったんだよね(笑)
それで、ギランバレー症候群なんじゃないかってなったのだけれども、そこには神経内科がなくて、最初に連絡した病院に連絡してもらって、そこに行ったの。でも、病院同士って情報の連携をしてないから、同じ検査をゼロからやり直すのね。それから、ようやく夕方になってギランバレーの可能性が高いってなってIVIg(免疫グロブリン大量療法)が始まった。本当にこの時は安堵した。
この時、問題解決能力というか生きる力を試されている気がした。
―救急隊の「たくましい」人。私はこの「たくましい」という表現が、突如迫ってきた荒波をなんとか乗り越えた先に、上田さんがみた希望のように感じた。それはまるで映画を見ているかのような非日常的な感覚だ。共感とは違う何か。この感覚は一体何なのだろうか。
【もともと生きることには肯定感があった。】
上田 いよいよ人工呼吸器が入ってコミュニケーションも取れなくなって、自律神経もやられて、すごく鼓動が早くなった。お医者さんからも「麻痺が進行すると心臓が持たなければ終わりですね」とか「心臓マッサージの時には胸骨が折れたりするかもしれない」とか言われて。自分で自分の最後を看取るのかなと思いました。すごく珍しい体験でしたね。でも、笑っちゃうんだけどもともと生きることには肯定感があって、「生きるんだ」って自分で頭の中で言ってました。
稲森 それは自分を奮起させていたってことですか?
上田 そうそう。その時私は、誰でも生命の危機に落ちた時はともかく必死で生きようっていう思いが湧いてくるのかなって思ってたんだけど、他の人の話を聞くとどうやらそうじゃないらしいね。鬱になったりとかあんまり肯定的な話は返ってこない。
稲森 ダメかもしれないっていう思いはなかったんですか?
上田 なんか、色々考えるっていうのではなくて、単純に、ものすごくお腹が空いて、なんか食べたいという感じ。議論の余地なし。みたいな感じですね。
―意外だった。
急激に病状が変化する中で、上田さんの頭にあったのは私が想像していた絶望ではなく必死で生きようという強い思いだった。
ダメかもしれない状況を考えないのは、私のように考えるほど嫌な状況が目に浮かび、それが怖いからなのではないかと思っていた。しかし、不思議なことに上田さんの話から恐怖心や考えたくないという気持ちがあるようには思わなかった。
【生きることの意味をよく考えました】
稲森 目も耳も聞こえてただ体だけが動かないという状況の中で何を思いましたか?
上田 生きることの意味をよく考えました。人工呼吸器が入るまでは命が助かったっていうことがありがたかったんだけど、考えることがだんだん生活面の不安に変わってきました。もう助かって生き続けるんだけどどうやって生きていくのか。でも不思議なことにあんまり悲観的に感じなかったんですよ。
結局生き物って生きてるだけで意味があるんじゃないかって、結局役に立つかどうかはその時点で結論は出ないわけで。このまま動けなくても喋ることはできたから、何か話すだけでお金を稼ぐ方法を考えなきゃいけないのかなって考えていました。
【お節介な看護師さんとかいて】
上田 昨日もカルテをパラパラと見て、ここは知らなかったとか覚えてなかったとかあって、だから外から見た客観的な患者さんの状態と自分が思い込んでるのと違いがあるんだなと思いました。
お節介な看護師さんとかいて、ラジオを聞いたほうがいいとか、テレビを見たほうがいいとか色々言われたけど、ここ3ヶ月間テレビも見なければラジオも聞かなかった。もちろん新聞も読めなかった。その間すごく自分で考え事をしていましたね。
周りから見るとぽけっとしているように見えるかもしれないけど、この時の体感時間は結構違っていて、早く時間が過ぎるんですね。で、三時間ごとに褥瘡防ぐためにひっくり返しにくるでしょう。体を拭いてくれたり、朝食も経管食だと時間がかかるし、検温とか、トイレにいつ行こうとか、考えているうちにお昼になって、リハビリの人が来てとかですごく忙しいんですよ。うっかりすると寝てるだけでしょって言われちゃうかもしれないけど、それは全然違くて、合間に考え事をしたくても長い時間考えることは出来なかった。
―「お節介な看護師」この言葉は私にとってすごく考えさせられる言葉だった。
私だったら、あれこれ考えるよりもテレビやラジオを聞いている時の方が心が休まって落ち着くと思う。しかし、誰もが同じだとは限らない。実際、上田さんはそうは思わなかった。
同じ病気の患者さんに同じ看護をしたとしてもその患者さんにとって必要がなければそれは「お節介」でしかない。どのような看護行為もその患者さんのニーズによって良い悪いは決定される。もちろん良い看護というのは患者さんの主観的な評価にのみ決定されるわけではないが。
それを踏まえて看護師としてどうあるべきだろうか。
お節介になるかもしれないと気にして何もしなければ当然何も生まれない。しかし、自分にとって癒しとなるものが全員癒しになるとは限らない。そこに私の目の前にいる患者さんは私ではない存在で自分の理解の範囲を超えるものという認識は不可欠なのではないかと思う。そうではないと、見えるものも見えなくなってしまう。
【全然「違う人」って感じの接し方だった気がする】
上田 急性期病院でありがたかったのは、助手さんですね。看護師さんは全然話す余裕がなくて、でも助手さんは結構お話ししてくれるというか。助手さんと話して癒されてましたね。
稲森 どういう話をされたんですか?
上田 たわいもない話です。助手さんは車椅子でリハビリ室に連れていってくれたり意外に患者さんに寄り添っている時間が長いのね。その中で覚えているのは、病院で困っていることとか不満とか言いたいことが色々あって、助手さんと「あんな短い時間で患者さんの顔も見ないで診察してそのうちこの病院に人がこなくなっちゃうわよね。」とか、「退院した後アンケートでも取ればいいのよね。」とか話した。本当にたわいもない話なんですけど、色々と思っていることを共有している感覚があった。
でも看護師さんは医療従事者で、医療行為が仕事って感じで、それ以外は助手さんにやってもらおうって感じだった。看護師さんに病院食について聞いてみたりしても「食べたことない」って言われちゃうんだよね。だから、そこで会話の接点がなくなっちゃう。看護師さんも患者と同じ体験をすれば、患者との距離ってすごく変わる気がする。看護師さんは全然「違う人」って感じの接し方だった。人と人が何かを共有している感覚がなかった。
―私も急性期病院でのコミュニケーションは普通のコミュニケーションとは違う、何か違和感の
ようなものがあった。それは、人と人が話しているのではなく、「看護師」と「患者」が話し
ているという感覚。まさに「違う人」と話しているようでそこに「何かを共有している感覚」
はないのかもしれない。医療職としての役割のもと関わることは大前提であるとは思う。しか
し、その関わりのみで看護師がその人の人間性を見つけていけるのだろうかとも思う。
私はこのプロジェクトを進めていく上で、人と人が話すとことを一番大切にしている。人とし
て患者さんを知りたい。それが私らしさだと思うから。そんな自分の原点を上田さんの話を聞
きながら考えていた。
【お医者さんも看護師さんも先に説明してくれるって感じじゃなかった】
上田 胸の筋肉も動かなくなって人工呼吸器を入れた時、知識がなかったからこれで楽になると思った。でも、実際人工呼吸器ってすごく侵襲が大きくて自発的な呼吸と関係なくポンプで空気を送り込まれる。これがこんなに苦しいものなのかと驚きました。
最初にね回復までのストーリーを説明してくれるとわかるんだけど、この後どうなっていくか見通しを教えてくれないわけ。それはどこまで治るかという話ではなく、例とかストーリーとかを知りたかった。急性期病院ではこういう治療が行われて、人によっては長い短いあるけれどこういう風に回復する例もあって、リハビリ病院ではこんなことをするみたいな。急性期を乗り越えたから、次はリハビリ病院に行くっていうのはわかるけど、そこで何をするかはわからない。だから、この後何があるか全然わからなくて不安だった。
―患者さんに何の情報をどのように伝えるかというのには非常に慎重さを要する。この話
は看護師としてというよりか医療のあり方まで話が広がってしまう。情報は人によって安心にも絶望にも繋がる。それに、いろんな可能性が起こりうる中でその人にとって適切な情報を提供することは難しいことではあるとは思う。
ただ上田さんは「生きたい」と思っていたから、情報を必要としていたのかもしれないと思った。ここから先も生きていく強い意思があったからこそ未来についてのビジョンを必要としていたのかもしれない。
【結構自分って強いところがあったんだなって】
稲森 上田さんの人生にとってギランバレー症候群とはどのような影響を与えていると思いますか?
上田 今は大きな意味で、人生のターニングポイントだったんだなって感じ。
自分のことってよくわかってなくて、結果として、結構自分って強いところがあったんだなって、大きい病気とか怪我とかしてこなかったから、そういう意味で困ってる人とか弱ってる人とかわからなかった。でも患者会とか通してメンタルが弱い人にも気づきがあった。それで、もっと人を大事にするようになった。前は使える人とだけ付き合っていきたいという感じがあったのですがもう少しその人がどうかっていうことよりも何かできることをしてあげたいなってなりました。あと病気に対する理解が自分が退院するまで全然わかってないってことを知らなかった。だから、逆にいまはそれがモチベーションになって、病気のことを教えてあげたいって気持ちになってる。
今はクラウドファンディングとかで人の助けを求めながらギランバレーを知ってもらうために冊子を作ったりとかもしてますね。あと、未だに週4でリハビリもやってます。やっぱりうまく指が動かなくて、でも私は、「治る」っていうことを見せたくて頑張っている感じですね。
―自分が病気になったと想像した時、誰の役にも立たない自分が怖かった。必要とされていない自分に価値があるとは思えなかった。誰かのために様々な活動をしている上田さんの話を聞いてホッとしたのを感じた。それは、気持ちさえあれば人の役に立つ方法はたくさんあって、それに向けて努力し目標を達成することもできる。というストーリーを聞いたからだ。病気を発症し後遺症が残るという苦しい状況の中でも、新たな自分を発見し前に進むことができるということだ。これを書きながら、インタビューで上田さんの話を聞いて、あんなにネガティブだった自分の思考も自然と前向きになっていることに気づいて笑ってしまった。
事前に「上田さんらしさを表す写真」をお願いしていて、その写真を見させてもらった。
その写真は、上田さんがオーストラリアにいた時のもので、いろんな国の仕事の仲間たちとの集合写真だった。
また、インタビュー後にメールのやり取りで、「40代を過ごしたオーストラリアの生活は忘れられない思い出です。20代にアメリカに住んでいた時の思い出もいっぱいだけど、アルバムをデジタル化していません。それに、病気になったのが55なのに、20代の写真はないよね(笑)」と。
海外での生活や経験が上田さんを作っているのだなと思った。それは、病気になった時も現在も変わらない。その時のやりたいことや、やれることを探し自分で掴み取っていく。
そういった上田さんらしさが私はとても素敵だと思った。