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日本社会の底辺に落ちてから

Image by Olia Gozha

私はしがない高卒の30代だ。


そんな学歴によるコンプレックスを抱きながら人生を、世界を恨み、運命を憎んだのは他でもない。


この資本主義社会、日本の最底辺に身を置くことになったからだった。





私は自然豊かな場所で育ち、そこまで貧乏な家庭で育ったわけじゃなかった。


小中と運動もそこそこ、勉強も別にと言った所で女の子にもモテた。

部活もそこそこに成績を出し、傍らで格闘技なんかを噛りながら大した努力もせずにそれなりに結果が出せるような人間だった。


強いて問題を上げると言うならば、我が家が熱心な宗教一家だったと言うことぐらいだろう。

またそれによってひとつ下の妹はおかしくなっていたのも事実だ。

その頃まだ幼かったもう一人歳の離れた妹が生まれるも、私はそんな家族を置き去りに、高校から一人家を飛び出した。



高校生活は自由だった。

下宿生活だが、親の目もなく、友達も多くいた。


算数もまともに出来ない人間ばかりの学校では、私ですら授業に出るまでもなくトップの成績を収める事ができ、やることと言えばセックスかケンカ。

そのうち学校も行かなくなり、バイトの日々で気付けば学生生活もあっという間に終わりを迎えていた。


その後立ちはだかる資本主義社会最大の二択。

大学か、就職か。


私の成績なら三流の私立大位はノー勉強でも行けただろう。

その時、友達だった一人がある大学に夢を持って行こうとしていた。


私に関しては特に何も目標もなかったので、なんとなく同じ大学へ一緒に行こうと考えていた。



だがそこで彼に一言言われた事がある。


あまり覚えてはいないが、「そんな適当な理由で進学を決めるな」とかそんな事だ。

情熱的で、目標を持っている彼にとっては私がだらしなく見えたのかもしれない。

たまに登校して授業を受け、好き勝手に遅刻、早退しながらテストではトップ。真面目に頑張る人間から見たら馬鹿にしているようにも思える私の行動。


もしくは何気ない一言だったのかもしれない。

だがなぜだか私は無性にこの言葉へ苛立ちを感じ、だったら高卒で十分。

親への迷惑料として、早く働き仕送りでもと考えてしまったのだ。


私はそんな些細な事から、資本主義で手に入れなければならない最低限の学歴を捨てることになったのだ。







だがそれでも。

両親にお金を払わせてまで、なんの夢もなく大学に等行きたくはなかった私はこの選択にまだこの時後悔はしていなかった。



将来はアメリカでブラックリストハンター(賞金稼ぎ)でもやろうかとふざけたことを考え、気付けば私は、教師の薦めを無視して適当な警備会社に就職していた。


初任給の最初の使い道は仕送りと決めて頑張った。だが結局、その後親には幾度も助けて貰ったと思う。


入社から一年経つ頃には学生の頃の貯金と合わせて、既に100万を貯めていた。


だが使い道は特になかった。


ただ一人の生活はとても寂しく、昔の彼女とよりを戻して家を借りる為の資金にした。


そして私は警備会社を僅か一年で辞める。


ブラックリストハンターなんて今考えても正気の沙汰じゃない。

そんな理由で真面目に就職を決める若者がこの日本で私以外にいるだろうか。

それぐらい適当だった。


人生に興味がなかったのか、本気で考えていたのかは今はもう解らない。


ただ、18歳の子供だった私には、ただ立ちっぱなしの警備員なんて人生がものすごくつまらなく思えたのだろう。


研修では山奥に連れて行かれたり、自衛隊にまで入れられ厳しい日々だったが、配属後の人間関係は良好だったし、様々な経験をした今でもこの会社ほど素晴らしい人に囲まれた事はないと思える。


だが当時の私は、新卒切符等と言う社会の暗黙のルールも知らず、ただつまらないからと言う理由で全ての安定を手放した。







ここからの人生が私の底辺の始まりだった。


この日本社会全体を、どれだけの時間下から眺める事になるのか。



新卒切符を捨てた高卒に、社会はあまりに厳しすぎた。

それだけじゃない。


ただ働く事にも嫌気が刺し、人生に意味を見い出せない。そんなふうに藻掻く10代の若者が、ただ生活の為に仕事を探すなんて出来はしなかった。


つまるところ、楽しい仕事。

そんなものを探していた。


当時彼女を無理やり上京させた私は、当然一馬力。

100万と言う貯金は、日本で暮らすにはあまりに端金だ。

あっと言う間に底をつきた。


彼女にも見知らぬ土地で何とかバイトをして貰い、自分はとにかく面白いと思えそうな仕事を見つけるのに必死だった。



手前勝手な話だと思う。


若さからだろう。

だがどちらにせよ低学歴が就ける正社員等ブラックな会社ばかりだ。

毎日が地獄だった。


泣きながら出勤し、彼女に慰めてもらったこともある。


お金は無かったが、それでもその時は彼女と二人で、喧嘩ばかりだったが幸せも多かった。



そのうち、私は高時給と言う事からまだ当時はメジャーじゃない派遣社員になっていた。

派遣がどういう仕組か、バイトがどんなものか、正社員がどんなものか、そんな事すら知らないまま私はただ必死だった。






その頃の夢といえば、「勝組になる」と言うただそれだけ。


勝組と言っても、スーツで出勤するごく普通のサラリーマンだ。

決して起業家や、投資家ではない。


その頃はユーチューブもなかったし、ネットメディアも盛んではなかったから、10代のガキがそんな起業家や投資家などと言う人種を知るわけもない。



皮肉にもサラリーマンを辞めて初めて、普通にサラリーマンが世の勝組だと感じさせられていたのだ。



その時の勝組の印象といえば研究者だろうか。

そう、会社で薬品なんかを扱う化学者とか、科捜研とか。

そんなのが雲の上の勝組。

社会を何も知らないままここを目指そうと、その頃の私は考え始めていた。



馬鹿だと思う。

低学歴、情弱、喧嘩と女位しか考えてこなかった男の思考はこの程度なのかもしれない。


それでもその時の私は、今のこの状況を抜け出すため、立派な会社で研究者をするようなそんなサラリーマンに憧れた。



だがただの高卒がいきなり研究者になどなれるはずもない。


そんな時にたまたま見つけたのが薬品を扱う倉庫の仕事だった。



よくわからなかったが、少しでも化学に近づくならそれもいいかと私はそこで働くことになる。

だがそこはただの倉庫だ。

薬品も結局の所なんの関係もなく、気付けば毎日ただプリンターのインクをピッキングしてダンボールに詰めるだけの毎日だった。



何をしているのかと思ったが、地味でルーティンな仕事も意外に嫌いではなかった。

その当時にしては給料も日給一万と、繁忙期には残業も死ぬほどあって月に30万近く稼げる事からすっかりそこに居座っていた。


自腹で数万の出費をして、フォークリフトの免許を取ってからは、新たな事業展開が決まり派遣社員にも関わらず現場責任者を任されていた。


2年も立つ頃には正社員試験を受けないかとの話も出た。

某大手〇〇通運の本隊社員だ。


もしなっていれば今頃マンションでも買っていただろう。



だが私はその話を蹴っていた。


何故ならその職場で出会ったある一人の先輩に職業訓練の学校なら化学も学べるんじゃないかとの話を聞いていたからだ。



私はまたも、全ての安定を捨てて、身銭を切ってその職業訓練に通うことにした。


この時22歳だったと思う。



職業訓練校は、ハローワークが行う就職支援の為の技術習得を行う学校だ。


入学試験は簡単で、期間や科目によっては無料で行くことができる。


しかも失業保険を貰いながらなので、その学校に毎日通いながら月に15万程度が支給される。



私は入学費10数万を払い、一年間化学に関する技術習得を行った。



そこでは今まで会ったことのないような高学歴、頭の良い人が多くいて、自分との世界の違いをまざまざ見せつけられた。


だが私は毎月勝手に振り込まれるお金で、毎日酒を飲んだり、友達と遊んだりを繰り返していた。


その間にも彼女はバイトをしていた。


一向に良くならない生活の中、それでも若い二人は楽しかった。



一年の疑似学校生活が終わったものの、結局学歴は変わらない。

あくまで職業訓練は職歴だ。


私が化学系の会社に入社することは極めて困難だった。



この頃から私は日雇いに身を染めるしかなくなっていた。




思えば既にどれだけの職種を渡り歩いただろうか。

飲食の接客から、ホテルマン、温泉、スキー場、倉庫作業に、バーテンダーに警備員。

ティッシュ配りに図書館受付、コンビニに測量、携帯販売、アパレル、ホストにデリバリーホストもやった。


他にも何かしらやった気がするがもう覚えていない。



彼女と共に日銭を稼ぐ日々。

苦しい生活費。

見えない将来。


喧嘩も増え、次第にお互い浮気を普通にするようになっていた。

挙げ句の果てにはお互いの新しい相手を家に呼び合い乱交状態だ。



諦めと絶望。

ごまかしの日々。


食べる物すら買うのが大変で、女性の家に上がり込んで身体を対価にご飯を貰っていた。

トイレットペーパーの紙が買えなくて、よく駅から盗んだ。



もう分かっていた、自分の人生が詰んでいると言う事は。



練炭自殺をしようとトイレを内張りし、火をつけた。



睡眠薬が無く、途中で目の痛みに耐えられなくなり、涙と鼻水と煙に咳込みながら必死に内張りをはがして脱出した。



これだけ辛いのに、こんなに意味がない人生なのに、身体だけは生にしがみついていた。



情けなくて、悔しくて、悲しくて、ただ泣くしかなかった。




その頃から、彼女との終わりも確実に近づいていた。







いくつか山のように登録していた派遣会社。

その中でも一際他よりも敷居の高い派遣会社から、仕事を紹介する広告が入っているのに気づいた私は、ダメ元で化学系の仕事へ応募していた。



何社か面接を受け、そのうちの一つがフォークリフトを持っていて、若い人を欲しがっていると言うことから奇跡的に私が選ばれることになった。



一部上場企業の子会社、そこの化学分析系の部署だった。



恐ろしい事に周りに高卒等はいない。

いるとしてもベビーブームに生まれた世代で、いくらでも大手に就職出来た年代の人達ぐらいだ。


国立大学が当たり前。

東大、早稲田、慶応とさすがの私でも知っているような大学を出ている人間が普通にいる会社だった。


そこで初めて私は、大学卒より上の、院卒、ドクターがあると言うことを知った。


夢のようだった。


まさかゴミの掃き溜めの中で、所得税すら払っていないような人間たちの中で生きてしまった自分が。


勝組だと思って来た人間と共に働ける日が来る等。


私はあくまで派遣だったが、それでも時給は破格の1500円。派遣のくせに年に一度数万のボーナスも貰えた。



考えられなかった。


今までやっていた派遣は何だったのかと。


ここまで簡単に金を払ってくれる世界があるのかと。



この転職によって、私の家計はあっと言う間に好転し始めていた。

だが同時に彼女との仲は、悪転の一途を辿った。






彼女との仲を終わらせようとしていたのは私だけではなかった。


随分前から続くマンネリのせいもあるし、若さもある。

合わせて彼女と私の両親の仲は最悪だった。


彼女とは学生時代からの付き合いもあり、色々と破天荒で自由にやっていた私が原因で、彼女の印象は私の家族からは最悪だ。

それに輪をかけ、私の家の宗教思考は彼女にも合わなかった。


特に私の家族が、彼女の家族を貶したことが何よりの原因だろう。




経済が安定してきたと同時に、私は8年と言う不遇の時を共に歩んでくれた人を手放した。






気付けばもう32歳の私は、資本主義の底辺に落ちてから10年以上の時が経った。


あの時の、私の意味のわからない勝組になりたいという思い。


それは既に実現している。



私はそのまま正社員となった。

時にスーツを来て、時に接待をし、ボーナスを貰い、高学歴と話を合わせて。



あの頃二人合わせて手に入れた年収は一人で手に入るようになった。



気付けば夜の世界から引き上げてあげたいと思っていた中卒の女性を嫁にし、その人との間に生まれた子供ももう4歳だ。





ここまで書いていてすっかり昔を思い出し、泣きそうになった。

そうして思う。


世の中には随分としなくていい苦労があった。



よく、お前は苦労が足りないと吐き捨てる人間がいる。

絶望を知らない、挫折を知らない。

だから弱いと。



勘違いも甚だしい。



記憶を整理して分かったのだが、苦労する人間というのは、それだけ好き勝手な事をした人間にしか訪れない。


逆に苦労をしない人間というのは、それだけ自分の欲望を抑えてきた人間だ。

仕方なく社会のレールに乗る為に勉強も頑張っただろう。



世の中にはしなくていい苦労が多くある。


苦労なんてしなくても幸せになれる。


寧ろ苦労すればするだけ幸せは遠ざかると言うことを伝えたい。




日本社会の歪な層を様々味わった私は、今や安定的なサラリーを得て、パソコンを弄るのも初めての所からデザインで副業をしたり、サイトやブログ、ホームページを作るまでになった。




これから先、私が副業を本業に出来るかは分からない。


本業を失って、また底辺に逆戻りするかもしれない。


この世に本当の安定等ないのだから。



それでも自分で這い上がった力と、傷つけた数多くの人達と、助けられた多くの人達を私は忘れない。


次の私の夢はなんだろうか。


面白く生きたい。


人は一人じゃ生きていけないから、どうか愛のあふれる世界になってほしいと心から願う。





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