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プロフィール第十回

Image by Olia Gozha

この仕事を始めて2年3年4年…と月日が経っていきました。

始めの1年目は理不尽に怒られてばかり。2年が経つ頃にはそれにも慣れてしまいました。会社や顧客のことを考えて怒るのならまだしも、個人的な都合を一番に考えて感情的に怒るのはいかがなものかと思いますが。

そんなんだから、お客さんからのクレームも多かったです。

荒療治と言いますか、クレームまみれで、もうその対応で精一杯で、自分がコミュ障だなんてスッカリ忘れていました。窓口の仕事はほとんど私に回ってきたので、そこそこ場数を踏んだと思います。

そして3年、4年経つ頃には周囲から頼られるようになっていました。この頃から、良く言えば頼られる。悪く言えば甘えられる。と、なんやかんやで良くも悪くも重宝される存在になっていました。

母のうつも大分マシになって「死にたい」という連絡はほとんどこなくなりました。その一方で職場から、勤務時間外、休日かかわらず「ちょっと聞きたいことあるんだけど」と電話がかかってくるようになりました。

けれど今まで他者からハブられるという経験をしてきた私にとっては、「頼られている」という嬉しさもありました。だから雑な対応はできず、丁寧に話を聞いていました。

5年目にして、この会社の居心地が良くなってきました。

思い返せば、この会社での事務職を選んだのは「あんたは営業職なんて無理だから」という母の一言がきっかけでした。

だから、営業職なんて絶対に出来っこないと思い込んでいました。

高校生まで、私はずっと母の言うことを聞いて生きてきました。母はいつも絶対的で、私の世界の中心でした。何かあればいつも母にすぐ相談していましたし、自分一人では何も決めれませんでした。

だけれど、課長から「営業に向いているかも」と言われたことや、顧客から「いつも丁寧な接客してくれて」とお礼を頂いたり、様々な経験を積み重ねるうちに、

実は営業職の方が私には向いているのかもしれない。

と考えるようになりました。それと同時に「親は絶対に正しいの?」という違和感がふつふつと湧き上がってきます。しかし大好きな母を否定するかのようで、ダメなことを思っているように感じ、モヤモヤする日が続きます。

数ヶ月後、意を決して、唯一信頼できる上司に相談しました。すると「あなたは、あなたの人生を生きないとダメよ。あなたはまだ自分の人生を生きてないんだから」とキッパリ言ってくれたのです。

肩の荷が下りる思いでした。この胸にある小さな違和感を否定してはいけない。「私の人生は私で決める」と、初めて自分の気持ちを肯定できたのです。

まもなくして、5年半勤めた運送会社を退職しました。

退職のときは、内輪で送別会を開いて頂き、とても大きな花束と、いろんなプレゼントをもらいました。色々ありましたが、その時のことを思うと胸が温かくなります。

ここから始まる私らしい旅。決められた安心ルートを外れ、未知なる世界へ

それはもう、不安と期待でいっぱいでした。

とりあえず退職してからは、いろんな仕事をすることに。カフェ、居酒屋、コールセンター、お菓子屋、WEB系、もろもろ10以上。トリプルワークしたり、好き勝手に働きました。5年半、1つの会社で働いたとはいえ、それぞれの職業は全く別種。また1から学ぶことばかりでした。不安も多かったですが、それと同時に新しい世界への期待も大きかったです。

カフェは、ほとんど学生のバイトの子たち。みんな慕ってくれ、とてもかわいく思ったのを覚えています。飲み会を開いたり、色んな相談に乗ったりもしました。その中に1人、とても引っ込み思案の女の子がいました。彼女は「私も星野さんみたいになれたらいいですけど…服もないから遊びにいけないし…」と言ってばかりいたので、「じゃあ一緒に買い物に行こう!」と声をかけました。洋服屋、寿司屋、岩盤浴、など、あちこち一緒に行ったり。カフェでのバイトは充実していました。しかし、すぐにお店は潰れました(泣)

居酒屋は、特に12月の忘年会シーズンは大忙し。溜まっている洗い物をしながら、フロントを走り回ってオーダーを取りつつ片付けをし、次の宴会のセットをする。あとは酔ったお客さんに絡まれたり。朝、帰宅するとヘロヘロ…そんな状態でした。ある時、お客様から「笑顔と接客が素敵だった」というお褒めの言葉を頂き、表彰され、ずっと家に賞状を飾っていました。だがしかし、すぐにお店は潰れました(泣)

コールセンターは、基本的には電話を取り続ける仕事。多種多様な注文、様々な客層と話す機会がありました。クレーマーの人もいたり、穏やかな人もいたり千差万別。

私のいた職場の雰囲気は、殺伐とピリピリしていて、とても悪い印象でした。上の人が自己中心的な性格で、気に入らない人を即クビにしちゃう独裁っぷり。1年以内に辞める人は9割以上でした。新人時代は当然わからないことだらけ。にもかかわらず、わからないことを聞いたら怒られる。ビクビクしながら、その日その日をやり過ごしている新人が多い職場。

そんな職場の空気が嫌だなぁ~と思い、出来るだけ丁寧に教えよう、話を聴こう、と心がけました。するといつしか新人だった私は、「星野チーム」という同僚10人をまとめるリーダーになっていました。他のチームのメンバーからは「あのチームはみんな仲良さそうで羨ましい」という声もあったそう。

毎日、電話を取る率(受電率)にもとづいた、順位が職場に張り出されます。常に50人中3位以内の成績を心掛けました。ただし受電率を意識するあまり、雑な電話対応にならないよう丁寧な接客を目指しました。電話は顔が見えない分、声色で判断するしかないので、その人の反応に気を配る癖がついたように思います。

「丁寧だった」など、お褒めの言葉はコールセンターで一番多く頂くことが出来き、すごく嬉しく、やりがいを感じました。後日談、というか最近の話ですが。退職した後も仲良くしてくださる方々がいます。その先輩から「毎日あなたに勝とうと思うのに勝てないから悔しかった~」「いつも旦那に今日も負けたー!!って言ってたんだよ~」と飲み会の席で聞かされ、びっくりしました。

・・・

他にもライブハウスもぎり嬢など、いくつか仕事を経験しましたが、長~~~くなるので割愛(笑)

この頃というのは、今までギュッと抑圧されていた好奇心がバチンッと弾けるように、やる気がとめどなく爆発していました。何でもやってみたい気持ちが満ち満ちて、とにかく行動へと駆り立てるのです。

最初でこそ漫画や小説しか読んでいませんでしたが、仕事で使える知識も欲しくなり、ビジネス書あるいは実用書など読むようになります。実用書はすぐに使える知識が書かれてあって、とても役立ちました。そのときは「便利だなー」程度でした。

中には、古い哲学書など、難解な本もあります。そんなときは、解説番組などが理解の手助けになったり。「何で、こんな素晴らしい世界を知らなかったんだ、私は」と、今まで損して生きてきた気分になることも。哲学者プラトンの「饗宴」を読んだ時というのは、当たり前だと思っていた世界がひっくり返る衝撃でした。

英語を上手に話せませんが、民泊の手伝いで知り合った異国の人々がいます。アメリカ、スペイン、マレーシア、コートジボワール、韓国、台湾、カナダ、ドイツ、など数十人。

彼ら彼女らが日本に来た時、あちこち案内したり遊んだりしました。神社、夏祭り、定食屋、電気屋、展望台、UFOキャッチャー、ボーリング、プリクラ、バーベキュー、等々。

帰国してもメールやLINEで、やりとりは続いています。日本に来るときは連絡をくれ、都合が合えば必ず会います。たまに、その友達のさらに友達もやって来たり。

上手く思いを伝える言葉は持ち合わせていないけれど、笑顔と大ぶりなジェスチャーで気持ちを伝えていました。

長年続くメール友達もいます。朝起きてパッと携帯見たら異国の文字がずらずら。いつも長文と現地の写真をたくさん送ってくれて、朝から新鮮な気持ちになることも。

遠方なのでなかなか会えませんが、また会いに行きたいなぁと思っています。住んでる場所、文化は違えど、とてもかけがえのない友達たち。

気づけばコミュ障だった私はどこにもいませんでした。国を超えても仲良くなれる。そんな自信すら生まれてきたのです。そして「私らしい人生を旅している」と思えたのです。

そんなある日、全ての仕事を辞め、完全無職となりました。自分自身と向き合う時間が欲しくなったのです。貯金を切りくずしながら数ヶ月間ニート生活をしようと思っていました。時間はたっぷりある。さて何から始めようかな…

久しぶりに古い友人と会うことになりました。雑貨屋の店長になっていた彼女に「今、何してるの?」と聞かれ、私は「今は何もしてない、ニートだよ」と答えました。すると彼女は「それはヤバい!!」と半笑い。その言葉を聞いて、そんなに私ヤバいのかな?と思いました。とはいえ、いずれは働かねばなりません。

色んな仕事をしたけど、何が私に向いているのかな?

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