どんなに好きな道でも、引き返すべき時はある。闇の中を手探りで進むのは危険です。落とし穴が待っているかも知れない。
1.転職
私、浜田怜は高校卒業後、各種学校を経て希望していたコピーライターになり、中小の広告会社を遍歴した。
コピーライターになった時、指導してくれたのは業界では名の通ったコピーライターだった。
「様々な業界の仕事をした方が良い、会社を渡り歩くのは、ライターとしての勲章になる」
素直だった私は、先輩の言葉を鵜呑みにした。確かに見識は広まり、会社を移るごとに臨機応変に、すぐに仕事に入れた。
私のライター生活は順調だった。集団での仕事が苦手な私は、フリーのコピーライターを目指した。
仕事を始めて二年程過ぎると、考えは変わって行った。自分の、コピーライターとしての能力に限界を感じ始めたからだ。
仕事が、どうしても好きになれなかった。
斬新な言葉ならまだしも、文法を無視した、出鱈目が売り物になるキャッチコピーや、語呂合わせや、はやり言葉を取り込んだ、意味のないコピーの要求に、私は苦しんだ。
もう一つには、仕事に対する向き合い方だった。
私達はクリエイターだから、と昼間は仕事場で時間を持て余し、夜になると仕事を始める仲間達。徹夜は当然のことで、二日続けての完徹も、私は何度か経験した。
朝出社すると、寝ぼけ眼でパンを齧り、缶コーヒーを胃に流し込んでいるクリエイターを何度見たことだろう。
クライアントから営業への発注が夕方で、営業から仕事の依頼があれば、クリエイター達はすぐに対応しなければならない。
「明日の朝迄に頼むよ」又は「明日の午前中がデッドライン」との依頼が多かった。
断るなんて、仕事を放棄するようなものだった。
当時の私には、締め切り間際の仕事ばかり回って来る会社に所属していた自分の、実力のなさが理解出来ていなかった。
困ったのは、宣伝屋を続けている内に、私の言動にしっかりと根付いてしまった『ハッタリ』だった。
依頼されたクライアントの所に原稿を持って行き、良い、悪いに関わらず「こんな素晴らしいキャッチフレーズはないですよ。受けること間違いなしです」と大風呂敷を広げる。
「おかしな言い方だなあ」と、クライアントの担当者に言われた場合には決め言葉があった。
「そうは仰いますが、消費者は新しい言葉に飛び付きます。おかしいな、って目を止めさせる必要がある。メインコピーで説得すればいいんですよ」と開き直る。
三年も続けている内に、私の頭の中には、珍奇な言葉や言い回しを産み出す造語マシンが組み立てられていた。
長くは続かない、と思っていた。キャッチコピーを作れと言われる度に、胃の中から胃酸がウワッと吹き出す。胃が爛れて来るのが良く分かった。
「このまま、自分本来の性格を曲げるような仕事をやっていたら体を壊してしまう」いつしかその思いがつのって行った。
コピーライターには、キャッチコピーには携わらない仕事もある。製品の詳しい説明をしたり、客に使用方法を伝授し、製品にまつわるエピソードを紹介したりするパンフレットの制作だ。
会社を移る度に、私は裏方の、パンフレットの内容を埋める地味な仕事を好むようになった。
数年間は裏方の仕事に励んだが、要求されることは似ていた。
「製品の良し悪しは別にして、消費者が買い求めたくなるような文章にして欲しいんだよ。あんた達の仕事だろ」と要求される。
「この製品にはそぐわない言葉がある。変えてくれないか」担当者の要求は、文句の言い易い女性だとエスカレートしていく。私は恰好の相手だった。
ついに日常茶飯事に、胃がヒリヒリと爛れているのが分かるようになった。
医師から、胃が拡張してダランと垂れ下がっている、と診断されるに至り、三十代を目前にして、私は事務職に変わった。
しかし、文章を書く、扱うことへのあこがれは、日ごとに増して行くばかりだった。
三十代半ばを過ぎた頃、私は編集者募集の広告を探し始めた。
殆どが経験者の募集で、未経験の場合は大卒が主だ。私には資格がなかった。
常識のある方達には笑われるだろうけど、私は無謀にも履歴書を持って応募先へ乗り込んで行った。結果は、その場で条件に合わない、と即座に断られた。
「編集者ってさ、こんな本一冊位すぐ書けるんだよ。あんたに出来るの?」と、私の経歴を見ただけで嗤い、机上に置いた単行本を叩いた面接担当者もいた。
ある会社の編集部に行った時、一緒に面接した女性は「あなたの持っている物、作品? ただの広告じゃないの?」と侮蔑の眼差しを向けた。
出版業界での、商業ライターに対する蔑みの眼差しは想像以上だった。
しばらく私の履歴書は、どの会社にも相手にされなかった。
「出版社はまずダメ。仕方がない、広告会社と出版社の中間に位置する編集社でもいいか」と私は判断した。.
見付けたのが、アリノブ企画だった。大手T観光会社の社内報や、有名企業の販売促進物を出版編集している代理店だ。
未経験可の募集だったので、今後のキャリアになれば、と私は早速応募した。
面接をした社長は私の新鮮さが気に入ったのか、多くの応募者の中から私を社員として採用した。
私は、あこがれの編集者の端くれになった。今から三十数年前のことだ。
アリノブ企画は、最低限の社員数で取材も編集も担当し、人手が足りない時は外部タレントで補っていた。
応募当時の私は向こう気が強く、自分が編集者としては未経験であることなど全く意に介さず、やる気があればどんなことでも乗り切れる、と思っていた。
社内には有信社長の他、編集営業のK、営業のW子、S美、版下製作のC代、トラフィックと呼んでいた所謂使い走りのアルバイトAがいた。Kは社長から直接頼まれた仕事をしていたが、実際は何が担当なのか、私には分からなかった。
その他に、常勤ではないが、社長の友人の、アドバイサー的な存在である年配のQが時々在社していた。
ひと口で言えば、発展途上の会社と言えた。
私の担当は、T観光会社の社内報の編集と、単発で入って来た原稿をこなすことだった。
例えば、某有名理髪店の社史の編集や、大手J通信社の電話案内帳の見開きページ編集などだが、販売促進物のコピーライターをやっていた私は、短い編集物はお手の物で、滑り出しは順調だった。
T観光の担当は、T観光の総務課長だった。
課長は気さくで、観光会社の様々なイベントやしきたり、取材の際の連絡の仕方など、その都度丁寧に教えてくれた。
課長はお喋りで、全国各地の、観光会社らしい面白い話をその都度聞かせてくれた。
何の不都合もなく、半年が過ぎた。取材にも慣れ、私は何年も経験を経ている担当者のような気分で、毎日を充実して過ごした。
各号で掲載の、T観光の支店の社員のインタビューに回るのは少し苦手だったが、号を重ねる度に、社員達との会話もスムーズに運び始めていた。
私がリライトした原稿のチェックもT観光では問題はなく、インタビュー原稿のまとめ方にも全くクレームは付かなかった。
私はこのまま、編集者としてのキャリアが積まれて行くものと思い込んでいた。
有信社長は、常に積極的に行動する私を気に入ったのか、三カ月の試用期間を待たずに正社員として受け入れてくれた。
何事もなく、半年は穏やかに過ぎた。
アリノブ企画に大きな仕事が入った。J通信の社内報で、ページ数も多い月刊誌だった。私を取り巻く状況は変わって行った。
スタッフを増やさなければならず、社長は専任担当者としてOを採用した。
OはZ大学の文学部卒業で、編集経験はないが、文章に関してはスペシャリストだ、と、自負しているのが態度で分かった。
中背で小太り、丸顔、目は細く、唇が厚い。Oは、社内では存在感があった。
一見「調子の良いお兄さん」風に見えるのだが、初対面の時から態度は威圧的だった。
Oが出社して来たので、私が「お早うございます」と挨拶しても、応えたのかどうか聞こえず、首をちょっと下げるだけだ。
自分の机の前の椅子に座り、腕を組んでグルっと椅子を回転させ、ふんぞり返って周囲を見回す。入社したての社員とは思えない態度だった。
入社後半月余り、OはJ通信の仕事で走り回っていたが、一段落した頃、私の周辺をウロ付き始めた。
Oは、大学生の時に同窓生と結婚し、五歳の息子がいて、現在妻が定時制高校の教員をして生活費を稼いでいる、早く金が取れるようになりたいらしい、と周囲の噂で聞いた。
Oとは関わりのなかった当時でも、Oが近付くと、異物と接した時の軋みにも似た、不安な風が漂って来るのを私は感じ取っていた。
不安は的中した。たまたま残業で居残っていた時だ。私が取材した原稿をまとめていると、Oが私の背後で声を掛けた。
「遅く迄やっているじゃない。残業する程仕事があるの?」
Oは狡猾そうに眼を細めると、盛り上がった唇でニヤリとした。
柄物のTシャツの上からワイシャツを重ねて着ていたOは、昼間他の社員からいで立ちをからかわれると「うるせえ、貧乏が悪いかっ」とやり返していた。
私も、Oの姿がおかしかったので、ニヤッとしながら下を向き「ええ、今一番忙しいんですよ」と、特に意識もせずに応え、仕事に没頭し続けた。
「あんたさあ、仕事遅いと思わない? それで俺より給料高いんだぜ。どう思ってるんだよ」
Oは不満たらたらの口調で呟いた。Oがなぜ私の給料の額を知っているのか不思議だった。
「でも、今一番忙しい時期なんです」私にはそれ以上言えなかった。
「あんた今迄どんな仕事して来たの?」Oはしつこかった。
私は、広告会社でマニュアルや宣伝物のコピーをかなり書いていたことを話した。
Oは「フウン」と鼻で息を吐き、「冗談じゃねえよ」と呟いた。不愉快極まりない態度だった。
思い返せば、社長の態度からも頷けた。社長の私を見る目は確かに変わって来ていた。
Oが入社する前は、出社時や帰社時に挨拶すると「お早う」「はいご苦労さん」とにこやかに笑みを返してくれたのだが、いつからか、私の挨拶にも軽く頭を下げるのみになっていた。
慣れて来たせいだろうと、私は軽く思い、原因があったから社長も変化したことに気付かなかった。
Oが社長から、社員達の給料の額を聞き出していたのは間違いがない。
専門の分からないKは、二十代半ばに見えた。Oより少し上背があり、ボサボサ頭で血の気のない顔をしていた。社内では無口だが、いつの間にか、行動を見る限りはOの部下になっていた。
当時、編集者と言えば花形の職業で、新聞の募集広告には一人の募集に十人以上の応募者があるのは常だった。
編集者募集に応募しても、入社してみたら編集とは名ばかりで、編集室に出入りの営業だった人はざらにいた。Kもその類だった。
OがKに私のことをどう言ったかは知らないが、Kは、私を排除することにもろ手を上げて賛同したに違いない。
社長の信任を得て私の給料の額を聞き出したOは、自分の給料が私より低いことに腹を立て、Kを引き込み、私を会社から追い出す作戦に出た。
T観光の仕事には、アリノブ企画内での発言権が増しているOにも、余計な口出しは出来なかった。
社長に取り入ってT観光の担当を変えさせること、その目論見は明らかだった。実力が伴っていない人間は担当から外した方が良い、と社長に力説すれば良いのだ。
社長の、私に対する態度が変わったのも頷けた。
2・闘いの日々
苦しい毎日が始まった。出社するとNが待ち構えていて私の予定を確認する。
私は、収入を増やす為の個人的なアルバイトはしていなかったが、コピーライターと言えば、他社の仕事を掛け持ちでやっている人は随分いた。むしろ当たり前、と考えられていた。
Oは私からマイナス面を引き出そうと、やっきになっていた。
T観光の社内報は、月々の行事や単発の出来事、社員の意見、支店で評判の人物のインタビュー記事など、T観光社内で主な原稿は用意出来てしまう。
私の仕事は、社内原稿を誌面に載せる為の文章チェックや文字数合わせのリライトが多い。コピーライターの知識でクリヤー出来たし、インタビューのテープを纏める作業も苦労はなかった。
T観光社内のチェックも大雑把で、私に対するクレームは入社以降全く出なかった。
J通信の社内報は規模が大きい為、内部スタッフでは足りず、レイアウトのデザイナー、イラストレーター、カメラマンなど必要なタレントを、Oが外部に発注して業務をこなしていた。
アリノブ企画は、今後の為にも、社員の募集広告を出し、タレントを揃える必要があった。
「来月からインタビューの仕事は今度入ったB代にやって貰うから、仕事を教えてやってね」
Oから言われた時、私は「来たな」と思った。
どう考えても必要以上に社員を増やしていた。B代も中の一人だった。入社しても専任の仕事がなく、上司からの指示を待っていて、使い走りや書類の整理をしている。
社長とOの、明らかに不愉快な物を見るような、私への眼差しも気になった。
「じゃあ私は何をすればいいの?」不審に思い、Oに聞いた。
「今後、T観光の社内報はB代に移して、あんたには俺の指示した仕事をやって貰う」
私には到底受け入れられない告知だったが、断定的な言い方に、Oの言葉を覆すのは到底無理だ、と即座に思った。
社内で仕事が奪われる立場、イコール失職につながるのが、過去の経験から私には良く分かっていた。
「あんたさあ、なんか、違うんだよな、編集なんてやる人間じゃねえよ」Oはうっとおしそうに私を見た。
「どう言う意味ですか? 私、どう見えるの?」
はっきりと覚えてはいないが、Oに対し、私は苦笑しながら返事をしたように思う。
Oが何を言いたかったのか考えてみる。
「お前は俺を軽視している」
Oの態度が不愉快だったから、としか言いようがない。
「専門教育を受けている俺に、文章とは何ぞや、と教えを乞わなかった」
Oが近付き難かっただけだ。
「俺と雑談しない、俺に微笑みを返さない」
私は、気さくな人間ではなかった。
実務上で仕事を切られる原因は、私には全く見当らなかった。
「ばあか、お前程のばかはいねえんだよ」
Oの口癖が出た。普段でも、私の近くに来ると私の顔を見ないようにして「ばあか、ばあか」と、私にわざと聞こえるように言っていた。余程憎らしかったのだろう。
T観光は大切な秋の繁忙期の最中で、キャンペーンの終了に際して、社長の長々とした訓示をリライトして社内報に載せなければならなかった。
Oの軋轢で苦痛の毎日を過ごしていた私は、初めて仕事で躓いてしまった。頭の隅には、来月から担当を降りなければならない、との不安が蠢いていて、仕事の合間に顔を覗かせる。
仕事に集中出来ず、リライトにクレームが付いた。
何度か書き直し、やっとOKが出てホッとした。Oに知られずに済んだのは外部の仕事である賜物だった。
大きな山場を終え、仕事が一段落した時だった。帰り支度をしている私にOが近付いて来た。いやな予感がした。
「ちょっと話があるんだけどさあ、上に来てくれないか」
社内にはOがお気に入りのKしかいなかった。上とは、来客が来た時や、社員に重要な話を伝える時に社長が使用している応接室だ。
社員達が通常仕事をしている部屋の一階上で、来客用のテーブルとソファが備えてあった。
良い話でないのは分かっていたが、私は黙って従った。部屋に入るとKも一緒に付いて来て、応接セットのソファに黙って座った。
Oは、今回も具体的に何が問題なのか言わず、私をなじり始めた。
「どう言うつもりでいるんだろうなあ、お前の為にみんなが迷惑しているんだぜ」
「迷惑って? 何かしたんですか? 私」他に聞きようもなかったので、いつもの通り尋ねた。
「チッツ。ばあか。はっきり言うけどさ、お前に辞めて欲しいんだよな」
以外にも甲高く、女性的な声がぶ厚い唇から出て来た。
実際にこのようなミスがあって、皆が迷惑しているからやめて欲
しい、というのなら、私も納得は出来たろう。
相変わらず、私は返事もせずに黙っていた。
Oの発言は、社長が社員の進退に関わる全権をOに委任している事実の証だ、と私は思った。
Kは一切口を開かずに下を向き、黙ってOと私のやり取りを聞いていた。Oに証人として同席を依頼されたか、社長からの指示で状況を社長に伝えるよう頼まれたか、のどちらかに違いない。
最後まで、Oは具体的な何事かを理由に挙げることはなかった。単に「あんたがいるから皆が迷惑している」と一方的に私を非難するのみだった。
私は一歩も引かなかった。辞めなければいけない理由は全くなかったからだ。
Oの脅しめいた試みは失敗した。
「それならいいけどさ、今後あんたの扱いはどう言うことになるか分からないぜ」Oが捨て台詞に言ったのを覚えている。
自分の立場は益々苦しくなる。漠然と分かっていたが、それでも辞めたくなかった。
アリノブ企画に在籍していれば編集者の道が開かれるのではないか、とのはかない夢は捨て切れなかった。
私がOからしごきを受けていた時、周囲の女性達は部外者としてだが、一部分を見ていた。二人の女性が私にエールを送ってくれたことを今でも思い出す。彼女達、特に営業のW子のことは忘れられない。
「怜ちゃん頑張りなよ。私達がついてるから」とOがいない時に勇気付けてくれた。
W子をアシストしていたS美も同様に、「負けちゃダメだよ」と私に囁いた。
W子もS美も、私が出掛けている時にOから私の良からぬ話を聞かされているに違いない、と推測出来た。
例えば「怜は能力もないのに編集などやっていた馬鹿な女。社長も迷惑している、会社にとっても損失になる」私の想像出来る範囲だが、Oならその位は平気で言うだろう。
陰ながら私を応援してくれたのは、Oの言っていることに女性達が反発していた確かな証拠だ、と思った。
私を辞めさせることに失敗したOは、私を自分の配下に置き、いびり出す方法を考えた。
OとKの脅しに合った日から、私は出社するのが怖くなっていた。
「この災いから抜け出すにはどうしたらいいのか、外部に相談出来る窓口はないものか」と考えた。
当時、雇用問題でトラブルがあった場合に、相談出来る機関がいくつかあった。セクハラ相談は少なかったと思うが、理不尽な理由で解雇される女性はかなりいた。
私は、電話帳で見つけた相談窓口に出掛けて行った。ネットがあればもっと楽だったろう。
担当のZは、今でもフルネームで名前を思い出せる方だ。確かに親切に状況を聞いてくれたが、回答は想像通りだった。
「あなたの気持ちは良く分かるし、何の落ち度もない正社員に平社員が退職を迫るのはおかしいが、威嚇された証拠がなくては何もすることが出来ません」
「証拠、会話のテープですか?」私は必死の面持ちで聞いた。
Zは黙って頷いた。私は言葉を失った。
「あの場でテープが取れたろうか?」マイクロテープもなかった時代だ。録音してあれば当然持って行ったろう。他に方法がないかを私は聞いた。
「彼らと話合って、あなたの立場を少しでも改善出来るよう尽くすより、今のところ方法はないですよ」
Zは、気の毒そうに私を見た。
「テープが取れたら、持って来ます」と頭を下げ、私は重い足取りで帰宅したのを覚えている。
2・屈辱
T観光の最終校も済み、発刊を待つばかりとなった。もうT観光に行く必要はなかった。
「次号から担当者が代わります。次の編集会議の時によろしくお願いします」と担当の課長に伝えると、課長は一瞬真顔になったが、
すぐに「そう」と頷いた。私も寂しかった。
B代には仕事の説明をしたが、Oから私のことをどう聞いていたのか敵意のある目付きで私をじっと見詰め、ニコリともしなかった。
何を説明しても、「ふうん」とか「うん」とか「へえ」のみで、最後には「分かりました」で終わってしまった。
B代は、最後まで私に微笑みを返すことはなかった。
T観光の仕事から離れた私には、社内の端下仕事が待っていた。あらゆることに手を染めたのは、辞めたくない一心だった。
私の支えになってくれたのはW子だ。
「J通信社の電話帳の表紙の色指定をやってくれませんか?」W子の注文も、私は喜んで受けた。
色指定の経験はなかったが、過去にデザイナー達の仕事を見て来ているので、資料をあさりながら急場しのぎではあったが、色指定をやった。
私に仕事を回してもしも私が失敗したら、W子は責任を問われるに違いないはずなのだが、W子は平気だった。
私に漫画絵を描く特技があったせいか、J通信のイベント用のイラストも描かせてくれた。
なぜ大胆にも、追い出されそうになっている私の肩を持ったのか? W子の懐の大きさ、と解釈するより方法がない。
W子の行動だけを聞くと、男まさりで、人好きのする顔の、大柄な女性を多くの人は連想するに違いない。
実際のW子は、小顔、色白で、目鼻立ちの整った痩身の、美しいという言葉がピタリと当てはまる女性だ。
三十歳に届くか届かないか位の年齢で、目がいつも笑っていた。営業職の為か言葉使いがはっきりとしていて、口を大きく開けて喋る闊達な姿が、今でも私の脳裏に浮かぶ。
営業マンとして貢献して来ているから、社長にもW子のやることに口は出せなかった。
Oの重圧で心がくじけそうになっている時でも、W子の笑顔は救いだった。
社内の女性達は、細い目の奥で何を考えているのか分らないOには近付かなかった。Oにいつも寄り添っているKにしても、Oから社長に何が伝わるか分からず、不安だったに違いない。
私には、さらに追い打ちを掛ける出来事が重なった。
クリスマスも近付いたある日、既にOから指示される仕事ばかりだった私は、J通信社に届け物をして午後六時を過ぎた頃帰社した。
「怜ちゃん、お家から電話よ」
私は、帰って来たばかりで頭の中は空白だったが、一年前からガンを患い、入退院を繰返していた父の余命が短いことは承知だった。父の件、と瞬間思った。
電話は兄からで、父が危篤だと告げられた。
それまで私は「会社の仕事は順調」と、家人に話をしていた。
会社で身の削られる思いをしている自分の姿は、命を終ろうとしている父にも、家人にも決して知られたくはなかった。
私は父の入院している病院に飛んで行った。間に合いはしたが、父は一時間程後、私の腕を握って亡くなった。
あるいは、父は私の勤務先での状況を感じ取っていたのかも知れない。
葬儀の為に会社は一週間程休んだ。
「お前の会社は、父親が亡くなっても何のお悔やみも言ってくれないのか?」と家族に尋ねられた時、私は応えに窮した。
「忙しい会社だから、お悔やみは私が辞退したの」と返答して置いた。追い出されそうになっている状況は、何があっても知られたくなかった。
当時、私は都心に近い方が就職に便利と、六本木近隣のアパートに住んでいた。1Kだが、トイレ、風呂が付いて八万円程で、勤務時間を考えれば安い方だ、と、金銭感覚に疎かった私は考えていた。
編集者としての給料は安く、預金を取り崩す毎日で、父が亡くなる直前には翌月の家賃も足りない状況になっていた。会社を辞めたくなかった一因も、金銭的なことにあった。
「父の葬儀は済んだけれど、この職場は残業代も出ない。その上持ち帰りの仕事が多く、何か資格を取りたくても勉強している時間さえない」心の隅には、常に先行きの不安があった。挙句に、Oに監視される毎日だ。
「アリノブ企画で何のキャリアが積めるの?」
私は、あらゆる部分で打ちのめされていた。そのまま何処かに消えてしまいたかった。
『妙なこと』は突然起こった。時期的に考えると、何もこんな時に、と不思議でならなかった。
実家での葬儀を済ませ、自宅アパートの玄関に座り込み、立ち上がる気力もなくじっとしていた時だ。
「浜田怜さんですね。お帰りになるのを待っていたんですよ」
一人のビジネスマン風の男性が、開き掛けている玄関口で挨拶をした。
「私はこう言う者です」と差し出された名刺には、某不動産 営業主任某と書いてあった。
「実は、このアパートにはヤクザ者が入り込んでましてね、今アパートの皆様に転居をお願いしているんです。ひと月以内に転居して頂ければ、引っ越し費用込みで、諸々の金額をお支払いします。我々としては、早急に立ち退きをお願いしたいんです」
通常の住人が立ち退いた後なら、ヤクザ者を強制退去出来るのかどうか、は知らなかったが、金銭的に窮していた私は喜んで受け入れた。
会社での問題に始まって、家族達の疑惑の目、強制的な転居要求と、私の頭の中はごった返した。
喪が明けて出社した社内では、私の姿を見ても、誰も何とも言わなかった。ただ、目を反らすだけだ。
私は会社には黙ってアパート探しを始めた。
費用を支払って貰えるなら早い方がいいと思い、必死で探した。年をまたいだ一月末までに決めたアパートは、1DKだが出窓のある角部屋で、陽当りも風通しも抜群だった。家賃も以前の部屋より安かった。
都心から離れた閑静な住宅街にあり、実家にも近くなった。亡くなった父親も喜んでいるだろうと思った。
反して、会社での仕事は、益々熾烈になって来ていた。
Oは、私に決定的な打撃を与えて辞めさせようとした。
「あんた、ここに評論家の某氏のインタビューの元原稿があるからさあ、これを原稿十枚程度にリライトしてくれない?」
二月初旬の昼過ぎ、Oは私に原稿を差し出した。インタビューしたテープを書き起こし、ざっと纏めたものだった。いつになく穏やかな口調のOに、私は素直に承諾した。
J通信の社内報に載せる原稿なので、私は「今後J通信の仕事を貰えるのかしら?」とまだ甘く考えていた。
「明日の朝迄に頼むよ」と言われたら、午後の予定は入っているのだから、私は家で作業するより方法はない。
引っ越したばかりのアパートに運び込んだ荷物は包みを解く間もなく、部屋中が家財道具やダンボール箱や、大風呂敷に包んだ内容物不明の物体の山で、足の踏み場もなかった。
極寒の時期だったが、寒かった記憶はない。ただ、災いを乗り切る時の気力だけが私を引張っていた。
弁当を食べた後、ダンボール箱の上に折り畳んだままの卓袱台を置き、Zライトの光だけで原稿を直す。終わったのは夜中の一時頃だ。
布団袋も開けてなかったので、荷物と荷物の間の細長い空間に、間に合わせの薄い夏物の布団に包まって寝た。
翌朝、待ち構えていたOに原稿を差し出した。Oは、数分間原稿に目を通すと、私の所に来て「ダメ。書き直し」と言った。
「どこがどうダメだからこう直せ」とは言わない。「ダメ」と言った切り自分の席に戻ってしまった。
言葉を返す余地もなかったので、私は黙って従った。
翌日も同様に原稿を見せたが「ダメ、やり直し」と言うのみだ。
翌日も同じで、同じやり取りを四回繰り返したのを覚えている。
四回目に返された時は、一旦「はい分かりました」と平静を装って引き下がりはしたが、目を閉じると、瞼の裏側が涙で滲んで来た。私は、堪えるのに必死だった。
非常勤の、社員の中では一番年配のQは温厚で、常に中立の立場で社員の相談役も務めていた。Qはマスコミ関係の仕事をしている、と聞いたが、詳細は不明だった。私は惨状を話した。
「そりゃ、きついことだなあ、原稿見せて御覧」とQは言った。
私は、四回も書き直しているのだから、多少は好意的に見てくれているのではないか、と思ったが、Qはさらっと見通して「ふうん、まだまだだね」と言い、私に原稿を返して下を向いてしまった。
何がどうダメなのか、どこをどう直したらいいのか、私には分からず仕舞いだった。
寝不足に加え、Qの空を掴むような反応に、私は途方に暮れた。模範原稿とはどう言う物なのか知らないし、修正すべき部分も分からない。
OKを出して欲しい一心で、徹夜に近い作業で自分なりに原稿を書き直し、窮状を切り抜けられることを祈りつつ、翌朝Oに原稿を差し出した。
五回目の原稿を見たOは、以外にも軽く「彼女、これでいいよ」と言った。原稿には、いつもと同様に赤字は全く入っていなかった。
私が泣き出す、とか、諦めて作業を放棄すれば辞めさせ易い、と思っていたのかも知れない。
その後、Oは特に何を言うこともなかった。
私に当たらず触らず、時々私に原稿を届けて来て、とか校正をして、とか雑用を頼むだけだった。
社長、O、Kの、遠くから私の動きをじっと観察している様子は変わりなく、私の目に入った。真意の分からなさが私を苦しめた。
3・決断
私にとって心の救いだったW子は結婚退職した。笑顔が輝いていたのは、すべてを受け止めてくれる相手がいた為だ、と納得した。
代わりに、何が専門なのか分からない、短大出身の派手な服装のR江が入社して来た。
目がパッチリとしていてちょっと見は可愛いが、傍若無人で、誰彼かまわず自分の思っていることを喋りまくる。
私に対しても「あたしさあ、ハワイに行きたいんだよねえ。あんた行ったことある?」と、まるで何年も前からの知り合いのように話し掛け、擦り寄って来る。
単純で扱い易い女性に思えたが、厚かましさは仕事の邪魔だった。
私の、アリノブ企画での在席期間が長引いたのも、社長の注意がR江に移り、私の心の負担が軽減されたことにある。私は、いつしか気楽な立場にどっぷりと浸っていた。
この会社にいてもまともな仕事は来ない、いつ、どんな策略で辞めさせられるか分からない、と確信はしていても、今日頼まれたことだけをしっかりやっていればいいと、物臭根性が顔を出していた。
失業したら面倒だ。また職業安定所に通い、仕事探しをしなければいけない。実家から会社に電話され、退職したことが分かったらどうしよう、失職にまつわる不安が頭を過る。慌てて目を瞑る。
「いつまでもこの会社にいればいいじゃない、何も悪いことはしていないんだから」
W子のアシスタントだったS美は激励してくれた。
嬉しかったが、W子程存在感のない二十代前半のS美は、私にとっては心許なく、私の味方をすることでS美自身の評価を落としはしないか、と心配になった。
私がせっせと雑用をこなしていた時期、一人室内にいることも多く、来社する客の応対もしなければならなかった。外部ライターのPもその一人だった。
「J通信社のカタログが上がったんですよ。どうですか?」
社内に誰もいなかった時、Pは私に仕上がったカタログを見せた。
さすがに大企業のカタログで、紙質も、野生の鹿を撮った写真も一流に見えた。表紙には、数行の詩が書いてあった。
「これ、Pさんが書いたんですか?」
私は、モノローグにも似た文章を指して聞いた。植物や動物達が営む、自然界を讃えた呟きだ。
仕事で来社しても、社員と喋っている姿を見たことがなかったPが、口元を少し緩めて頷いた。
Pは、まだ二十代後半なのに頭頂が禿げ上がっていた。四つ年上の妻がいて、幼い子供がいる、社内でPのプロフィールが広まるのは早かった。
モノローグには、深みがあった。頭の中でじっくりと考え、余分な部分をそぎ落して産み出したに違いない言葉だった。
「いいですねえ」私は二の句が告げなかった。
丁度昼時だった。気を良くしたのか、Pは私を食事に誘った。
特別な話しをした覚えはない。元来無口な人で、私も聞きたいことは特になかったが、仕事に対する向き合い方に興味を持った。とにかく全身全霊で打ち込んでいる。
Pは「フリーで仕事をするのが私には合っているんです」と、今迄に見せたことのない笑顔で言った。
Pは一本筋が通っている。自分に信念を持っている。
「私は一からやり直した方がいいのではないだろうか?」と思った。
Pの文章を見た時、私が築き上げて来た理想の城が音を立てて崩れ落ちるのを感じた。
これから先就職口がある、ないに関わらず「アリノブ企画は辞めよう」私は決心した。
問題の多いR江は、営業が担当だった。社長が何度かクライアントに挨拶に連れて行ったが、無駄口が多いせいか営業職には付けず、社長の使い走り専用員になっていた。
R江が暇を持て余すことが多くなると、社内はR江に掻き乱され始めた。一社員でありながら、ここまで我が物顔に振舞う輩を、私は見たことがなかった。
出社すると誰彼構わず話し掛け、お喋りを始める。やることがないとパソコンをいじったり、立ったり座ったりし、「あんた今何してる?」と私の後ろにやって来る。
「校正? ふうん」と言い、次の人の所に行く。
一時間程ブラ付くと、「喉乾いた、ジュース飲もう」と、勝手に社外に買いに出掛ける。
たまに社長が顔を出し「おいR江、これをB社に持って行ってくれ」と仕事を頼む。
R江は悪びれもせずに「はあい」と笑みを浮べて言う通りにする。
R江が外出すると、社内は静まり返る。
「この会社には使い物にならない社員がなんと多いことだろう、私を含めて」
社長には人を見る目がないと言う事実を突きつけられ、私は苦笑せざるを得なかった。
Oが夜間に私を脅し付けてから五カ月以上は経過していた。
社長もOも、私が完全に居据わってしまった、と思い込んだかも知れない。
「俺、今度鳥取まで取材に行くんだ。留守を頼むよ」
ある朝、出社するとOは笑みを浮べて言った。
まだ会社にしがみ付いている私に気を許していたのか、三日間会社を留守にするとのことだ。
「はい、分かりました」私は笑顔で了承した。
頭の中では「今だ」と思った。毎日社長やOの監視の眼差しに、絶え間のない苦痛を感じていた。早く逃れたいが、辞める、と言ったらどんな嫌がらせが待っているか分からない。
被害妄想にも似た観念が私を支配していた。
「辞める覚悟は出来ているけど、辞めますって社長に言うのは嫌。Oとは二度と顔を合わせたくない」
会社の誰もが私が引っ越したことを知らない事実は、せめてもの私の慰みで、小気味良くもあった。
会社から疲れ切って帰ると、荷物の整理が終わらず、雑然とした部屋の中での生活が続いていた。
「ひと月」と期限を切られて引っ越したので、装飾品と日用品がごちゃ交ぜになっていたり、内容物の表示もないダンボール箱がいくつもあり、荷物の整理には時間が掛かった。
私と懇意の女性達は誰も、OとKの、陰での私への退職要求は知らなかった。S美、版下製作のC代、問題の多いR江さえも、私には好意的だった。
彼女達に別れの挨拶をするのは辛かった。自分の負け犬のような姿を見られるのもいやだった。
「黙って辞めるのが、一番いい」Oが出張した日、私は決行日と決めた。
小さな事務所なので、社内への出入口は一つだった。鍵は幾つかあり、社長と経理担当者が一つずつ持ち、残業する社員の誰かが残りの一つを責任を持って扱うことになっていた。
当日に私が鍵を持っていたのは幸いだった。当番だったのかも知れない。
六時に皆が退社すると、私は鍵を掛けて職場を出た。駅迄歩き、近くの喫茶店に入った。食事をし、時間を潰した。
午後八時になった。私は店を出て、暗がりの中を会社に向かった。たまに、社長が遅く会社に戻ることもある。社長と鉢合わせしたら大変だと思った。危惧はしたが、道々は誰にも会わなかった。
ビルの外側から見て、会社の窓に明かりはなかった。
エレベーターのないビルで、二階にあるアリノブ企画に行くには階段を上るしかない。足音が響かないように注意しながら、私は上った。ビルに管理人がいなかったのは幸いだった。
オフィスに付くと、私は部屋の扉の小窓を見た。部屋に明かりはなかった。私は鍵を開けた。
月の光だったか、他のビルの照明がこぼれて来ていたのか、私の机には、青白い光が射していた。
オフィスの明かりは点けず、私は机の中を覗いた。昼間、目立たないように整理して置いたので殆ど空だった。
必要のない書類や、文房具などは持って来た紙袋に放り込んだ。最後に、机の上を雑巾で拭いて綺麗にした。
明日から会社に来なくて済むと思うと気持ちは軽かった。
一時間程で整理は終わり、会社を出た。鍵は所定の郵便受けに入れた。私は、二度とアリノブ企画には足を踏み入れない、と誓った。
当然、それで済むはずもない。翌日、経理担当者から退職の手続きをして欲しいとの連絡があり、私は指示される通りに済ませた。
社長やOからの連絡は一切なかった。辞めるのを待っていたとしか思えない。
しばらく、私は家の引っ越し荷物の整理に集中した。部屋が片付くと、就職先を探しに外出するようになった。頭の中には、編集、の文字は全くなかった。
職業安定所へ行くには、アリノブ企画への通勤駅と同じ駅を使う。半月程控えていたが、安定所には行かざるを得なかった。案の定、真昼間にも関わらず、C代に呼び止められた。
「怜さんが急にいなくなったから、皆びっくりしちゃってる。今どうしてるの?」
咄嗟に、私は「フリーでやってるの。これから打ち合わせに行くんだ」と応えた。自分ながら「見栄っぱり」と苦笑した。
終り
□浜田怜は、筆者の匿名です。アリノブ企画、社長名も匿名です。
登場人物のアルファベットのみは男性、アルファベットプラス漢字は女性です。