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父の死がつらすぎた女子大生が、インドへの逃亡をきっかけに地球の裏側まで旅した話

Image by Olia Gozha

見渡す限り、360度、青。

ずっと遠くにある空と水面の境界は曖昧で、わたしと、ここまで乗ってきた小型のバンだけがぽつりと青の中に浮いてるみたい。

午前5時。

さっきまでの満点の星空は急速に明るみに溶けていき、気づけば東の方角から太陽の気配を帯び始めていた。冷え切ったからだが、微風の中にわずかなあたたかさを感じ、喜ぶ。


南米ボリビアにある、ウユニ塩湖。四国と同じほどの面積を持ち、雨期には水面に薄く水が張るおかげで、空と大地が一体となるような鏡張りの絶景が見える。この広大な湖の真ん中で、太陽の最初の一光を今か今かと待ちながら、わたしは父を想った。

いつのまにか、ここまで来ていた。4年前には想像しえなかった世界が、目の前に広がっている。父を想い、悔やみ、悲しみ、絶望し、逃げた先に、こんな人生が待っていたなんて。

明日、ウユニ村から首都ラパスへ戻り、そのままヨーロッパ回りで日本に帰る。その次の週には大学の卒業式が、そして4月からは入社式が控えているのだ。わたしの日々に、ひとつの区切りがつく。その前に、わたしの大学生活を振り返りたい。わたしの人生唯一の後悔と、再生について。

父が死んだ。

その日、わたしは大学の講義をさぼって部室のソファで寝転がっていた。前日の夜に人生初めてのカラオケオールをして、そのまま大学に来ていたので寝ていなかったのだ。大学に入ってからわたしは毎日のように友人と遊びまわり、ほとんどの時間を家で過ごしていなかった。

田舎の高校から都内の大学に入ったわたしにとって、キャンパスライフはあまりに華やかで眩しく、目まぐるしく、とんでもなくエキサイティングなものだった。できたての友人たちと覚えたての遊びを片っ端からこなし、会えない時間もSNSで繋がり続ける。時間がいくらあっても足らなかった。

そんなわたしが父の病気、そして余命を知ったのは、入学して1か月が過ぎたころだった。母は泣き、弟も泣き、そしてわたしも泣いたけれども、次の日には何もなかったかのように、わたしはまた遊びに出かけていた。どこかで他人事のようであったし、「今がどういう時期であろうと、わたしの大学1年生も、18歳も、今しかないのだ。全力で楽しむしかない」と、なんだか勘違いした考えを持っていた。要するに、家族よりも友人優先の、親不孝な娘であった。

それから月日はあっという間に夏、秋と廻った。わたしは相変わらずであったが、知らぬ間に、というか知らんふりをしている間に、その日は近づいていた。

「今日はカラオケオールしてくる」と母にラインしたとき、いつも外泊にはうるさい母が諦めたように淡白な返信をしてきたのを覚えている。今思えば、母はかなり衰弱していたのだろう。わたしは父の入院する病院に頻繁に顔は見せていたが、看病やお世話の類いは全くと言っていいほどしていなかった。すべてを母がひとりでやっていた。

そんなことはまるで考えず、初のカラオケオールに高揚しきったわたしは次の日部室で昼寝をし、夕方ふとスマホを見ると着信がいくつも入っているのに気づいた。母だけでなく、普段電話をかけてこない父方の祖母からの名前もあり、さすがに目の前がぐらりと揺れた。

急いで病院まで駆けつけた時、祖母も母もみんな泣いていた。父はまだ生きていたが、目はうつろで意識がなかった。今でもこの時の父の顔は思い出したくない記憶のひとつだ。思い出したくないが、忘れることもできない。

その日の深夜、父は亡くなった。


それからしばらくわたしは茫然としていた。時間が経つにつれてあらゆる後悔が次から次へと生まれ、消えることなくいつまでも重く、わたしの心を殴り続けた。それは予想していた以上の痛みだったので、わたしは驚きと手立てのなさに茫然としてしまったのだ。さらに、母のやつれた姿が見るに耐えず、家にもいられなくなってしまった。わたしは再び友人と出かけては、夜遅くに帰宅し、化粧も落とさず眠りにつく生活に身を沈めた。同じ悲しみを共有する家族と、支え合い生きていく未来など想像もできずに、ただ自分だけがこの状況から逃れることを考えていた、18歳のわたし。あの頃の眠りはいつもひどく浅かった。

そして毎日、帰りの夜道を自転車で走っていると涙が止まらなくなった。このままでいいはずがない。いいはずがないのにどうしようもできない。つらい、悲しい、さみしい。時間、戻ってよ。でも戻らない。だれか助けて。でも、だれにもわたしを助けることはできないと分かっている……。

遠くへ行こう、行かなくてはならない、と思い始めたのは1年生も終わるころだった。どこか、家から、いや日本から遠く離れた場所で、父のことも母のことも考えない時間を作りたい。でなければつらくて仕方がない。

逃げたい!


こうしてわたしは、母や親戚中の反対を押し切り、その年の春休みにインドへ数週間渡った。初めての海外渡航だった。






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