
2005年4月サクラ舞い散る季節、ボクは中学生になった。春先の、まだ新生活スタート真っ只中の時期、W先生のところへある話をしに行った。
「先生、ボク水泳やめようと思います。」
いきなりのこの発言に先生自身も驚いたようだったが自分は結構本気だった。ある程度勝つ喜びみたいなものを知ってしまい正直もう満足してしまっていたこと。それによって水泳に対する情熱を失いかけていたこと。そして何より小学生最後のJO、100mバタフライで負けたことが大きかった。
50mバタフライでは100分の一秒の差で優勝を決めたが一番良い記録を狙っていた100mで負けたこと、しかも良いタイムを出し切って。「悔しい」という感情より「あぁなんかもう、終わったな」と心の糸が切れたような感じだった。先生はそれを感じ取ったのか、一時的な感情の変化だろうと思ったのか、案の定説得された。
「お前を目標としている選手が全国に何人もいるのに、そいつらの気持ちを踏みにじってもいいのか?」
「8年後のロンドンオリンピック、目指してみないか?」
なんで自分を目標にしている人たちのために続けなくちゃいけないのか理解出来なかった。それにオリンピック??全く想像できなかった。周りの友達からも結構聞かれていたけどこの話題はどこかスルーしていた。
「酒井さぁ、将来オリンピック出るの〜?」
「わかんねーよそんな先のこと…」
「出たら応援行くから、絶対出てね!!」
「……。」
のらりくらり話を流していたがこの話題をされるのは辛かった。客観的にみれば全国大会で優勝するのだから順調に成長を重ねそこを目標にしていくことはある意味当然なことなのかもしれない。一流となる選手は子どもの頃から夢を持ち「いつかあの舞台に立ちたい」「表彰台の一番上に登り金メダル取りたい!」そう思うのだろう。
しかしボクはそうではなかった。オリンピックをテレビで見て「マジすっっげぇー!おれもいつかここに出たい!!」というより「頭おかしいわこいつら… 無理無理、お疲れ様で〜す。」真っ先に、素直にそう思っていた。
「ただ楽しくやりたいだけなのに」
高い目標を設定してそこに挑んでいくよりも、今ある日々を楽しく過ごすことが好きだった。小学生の頃は学校の友達と放課後の校庭で野球をしたり公園に行って普通に遊んだりすることの方が好きで、そのせいで練習に遅れていったりサボったりすることは度々あった。
上に行けば行くほど今よりも必ずキツいことや苦しいことが待っている。それはこれまでの経験を通じても体感的にわかっていたし、その未来を想像するだけで物怖じしていた。結局は二流三流のマインドしか持っていなかったと言えばそれまでなのだが、ボクの興味関心はオリンピックに行くことではなかった。
「・・・わかりました。ちょっと考えさせて下さい。」
2週間ほど練習を休み考える時間をもらった。その期間中、母ともかなり話し合った。
「水泳を辞めてどうするの?」
「知らない」
「なんか他に、別のことでもやるの?」
「やりたくない」
「他の部活は?」
「やらない」
ただのダダコネだった。
「水泳辞めてもいいけど、何か別のことやらないのは、お母さん許さないからね。」
これは中々強烈だった。
「なんでただ辞めたいだけなのに、みんな許してくれないんだろう?」
でも言うことも一理あった。ボクはただ追われる立場に疲れ、楽しいことをしたいという建前の元逃げたかったのだ。
「だって最近楽しくなくなってきて練習もどんどんキツくなるし、もうやりたくねーよ」
「それはあんた、ただ逃げているだけでしょ?こんなに今まで頑張ってきたのに…… 大人になっても楽しいことばかりやれる訳じゃないよ。」
苦しいことに立ち向かうことを止め、他にも何もしようとせず廃人のようになっていくことを母なりに恐れたのだろう。自分にもそれは容易に想像できた。悩みに悩んだ末「先生、また一からやろうと思います。」と返事を出し、続けることになった。このきっかけがドン底へのスタートだった。
異変
練習に復帰すると、なんだか身体の調子がおかしい。
「あれ?いつもより苦しい・・・?」
普通に出来ていたいつもの練習がこなせなくなる。タイムが出なくなる。2週間のブランクもあるしそのせいだろう。。(水泳は1日休むと戻すのに3日かかると言われている)最初は慣れるまでだ、と思ってやっていたが何週たっても元に戻らない。何か原因があるのかと思い家の近くにある呼吸器内科へ行ってみた。運動誘発性気管支喘息と診断された。
日常生活には全く支障は無いのだが激しい運動をすると急に呼吸が苦しくなり、運動することによって誘発される喘息とのことだった。発症の原因はわからずどれくらい治療を続ければ治るのかも個人差があり、喘息患者にはお馴染みの吸引器をプシュッと押して薬を肺の中へ吸い込む日々が始まった。先生に理由を話し長距離の練習は本数を減らしたり、短距離の練習も呼吸が苦しくなると所々休ませてもらうようになっていった。
スキャモンの成長曲線にもあるが、中学生の期間は心肺機能が一番向上する時期でもあり、有酸素トレーニングをたくさん行って高校生になるまでに基礎体力の下地をつけていく。しかしボクには身体的にできなかったことに加え、元々有酸素系のトレーニングは苦手で嫌いだったこともあり、トレーニングの原理原則であるオーバーロード(過負荷のトレーニング)を行えなくなっていった。
ここからタイムが少しずつ伸び悩むようになり中学1年生の夏、全中への出場を逃してしまう。全国大会に出場すらできないという経験は久々だった。
自分の身体的・心理的な変化に加え、周りでも動きが出てくる。自分の他にEくんというもう一人全国トップクラスの速い仲間がいて、小学生時のボクらの活躍に刺激を受けた他のスイミングクラブの選手が「ここのクラブで練習すれば速くなれるのではないか」と2人移籍してきたのだ。どちらも全国クラスの選手だった。中学に上がったと同時に選手コースのクラスも一番上のAコースに上がったり、チーム編成があったりしてクラブ内での状況も変わっていった。
この頃から徐々に練習中にも変化が起き始める。
「みんな中学生になったので、今までの練習のやり方を変えます。今までサボったり練習に来なかったりしても何も言ってこなかったけど、そういう人たちには辞めてもらってもいいので。今までが甘やかしすぎました。とにかく変えていくので、よろしく!」
小学生までのボクたちは頑張る時は頑張るのだが、調子が悪い時は特にだらけていて好不調の波が激しかった(その代表格はボクだった)。だがそれにしても急な方針転換過ぎて「ちょっとどうしたの?」みたいな空気になり戸惑いが広がった。練習中笑いが生まれたり、ちょっと手を抜いたりするとストップウォッチやベンチがボクらめがけて投げ込まれるようになった。
さすが野球出身でピッチャー経験者、エゲツないコントロールだ。またいつもの調子でのおふざけかな?と思って顔を見ると、めっちゃガチな顔をしている。「え?まじなの?」と少しずつ指導が厳しくなり練習中の雰囲気が変わっていった。それが関係するのかしないのか。それまで小さい頃から一緒に頑張ってきた古参の仲間が一人、また一人とクラブを辞めていく選手が増えていった。
後に先生から「あの頃はお前たちのことがわからなくなった」と言われたがボクらもこの時、先生のことがわからなくなっていった。
思春期ということもあったのかもしれない。それまで密にコミュニケーションを重ね、選手の意見や想いを尊重し聞き入れ、各々の特性・特徴をすべて理解した上で適切な目標設定の手助けをしてくれていた。「お前ならこれくらいやれる」とどんな時でも背中を押し目線を引き上げてくれた。絶対的な信頼と、この人に信じていけば間違いないという確信みたいなものがあった。中学に入ると徐々にそれがなくなっていき、会話することも少なくなっていった。
踏ん張りをみせるも
中学2年生になり、喘息の症状も薬を服用しながら続けていくうちに段々よくなっていく。しかし各種目の県を代表する選手が参加する合宿に行ったら全くついていけなかった。W先生は他コーチから「酒井くんってこんなに練習弱いんですか?」と聞かれたそうだった。
確かに練習は強い方ではなかったが、周りとの差が想像以上に開けてしまっていて自分でも参ってしまった。小学生時の貯金を切り崩し、過去の残り財産だけで勝負している状況になっていた。
だがここでも仲間の存在が自分を救う。中学生の大会、主に全国大会や関東大会では各都道府県それぞれで選手団として一つの団体になり、ホテル宿泊や会場での控え場所、お互いのレースを応援し合うなど、学校という枠を越えて行動を共にしていた。神奈川県は選手数も多く、全国トップクラスの速い選手もたくさんいていつも和気あいあいとして楽しいものだった。
所属しているスイミングクラブや学校は違えど、同じ神奈川県の選手団として試合や練習で互いを高め合ったり励まし合ったりしながらやれていたことが、自分の中にもう一度「頑張ってみたい」と火を付けさせてくれたきっかけとなった。
3年生となるにつれ少しではあるが盛り返す。中学生最後の全中では100mバタフライで7位入賞・400mフリーリレーでは優勝し、なんとかまずまずの成績を残すことが出来たのだった。しかし目標としていた結果(個人種目での表彰台)とは程遠い状況で、フレーリレーで泳いだ100m自由形のタイムは、2年生時のタイムから殆ど上がっていなかった。
この時は「何かがおかしい」とは感づいていた。小学生の時の、いやそれ以上の決意と本気度をもって2年生から3年生にかけて練習をしてきたつもりだった。でも大会に臨む前から、自分が表彰台に上がれるイメージを持てていなかった。中1から中2にかけて練習しなきゃいけない時期に殆ど自らを追い込んだ練習ができなかったことが原因と結論付けたが、結局はそのきっかけも自分自身が引き起こしたものだ。
「みんなから辞めるなと言われたから続けた」
「病気という言い訳材料が増えたことで、限界まで追い込まなくてもよい免罪符ができた」
「そもそも勝てなくなっても、楽しめればいいと思っていたし」
スポーツを競技として行うなら、”勝つことの喜び”を知ってしまったらその下で楽しむことは不可能なのだと後に気付くことになるのだが、この頃のボクは何がどうなっているのかも理解できないまま、自分以外への責任転嫁の傘の下でもがき苦しむ穴にずるずると落ちていった。
出会い
全中が終わり、中学最後の夏のJOに出場するとある方から声をかけられた。
「はじめまして、〇〇というものです。」
生まれて初めて名刺を渡されたその人は、神奈川県にある水泳部の強豪校、顧問のM先生とI先生だった。
「酒井くん、正式に君をうちの水泳部にスカウトしたいと思います。インハイで総合優勝するために是非君の力を借りたいです。検討して下さい。」
なんとか全中の決勝に残ったことでオリンピック選手も輩出している水泳部からのオファーを頂いた。所属していたクラブの尊敬していた大先輩の多くもこの高校を卒業していて、本当は嬉しい話のはずだがその時に思ったのは「はぁ、これからもまた大変そうだなぁ。。。」という印象で前向きなものではなかった。
今度は自分のことのみならず、所属しているクラブの同級生とその親、W先生も含めみんなで進路について話し合う機会も増えていく。県にあるいくつかの私立高校は、保護者も一緒に大会に来て選手の応援やサポートをするのが慣習となっていてそういった付き合いも増えるからだ。今までのように自分たちで好き勝手やっていればよいとはなくなってくる。特に強豪校になればなるほどその色は強かった。
「高校受験をして県立の高校に行くの?あんたそもそも勉強する気ないじゃない。仲間もたくさんいるし環境も整っているし、ここがいいんじゃない?」
持ち前の臆病心が顔を覗かせる。
不安が大きかったものの水泳を辞める選択肢はこの時はなく、先のことはわからないがひとまず高校3年間は本気で取り組むと決めたこと。また、この学校の水泳部では練習拠点が「学校練習組」と「スイミングクラブでの練習組」という形で分かれていて、個人種目で全国大会に出場している選手はスイミングクラブでの練習を許可されていたこともあり、ボクはクラブでの練習を望んでいたことからお誘いを受けることにした。
迎えた2008年4月。湘南工科大学附属高校(以下:湘工)に入学し、水泳部に入部した。
この高校は普通科や特進コースなどの他に体育コースがあり、各部活動で推薦で入学をするスポーツのエリート達が集まっていた。ボク達の代は2クラスあったが3年間クラス替えはなし。まさに仲間意識・共同体感覚が否が応でも強くなる3年間が幕を開けた。それと同時に初めての部活動生活もスタートする(中学校は水泳部がなく大会の時だけ先生に引率の同行をお願いしていた)。
新入生を交えて先輩達との最初の顔合わせ、教室に入りミーティングが始まる。
「これからミーティングを始めます。」
『しますっ!!』
統一された返事、教室内に緊迫した空気が解き放つ。新入生のボクらは圧倒された。昔のスポ根よりはマシかも知れないが、それなりに厳しいルールや先輩もいたりして「全国で勝つための集団」という感じだった。
「我々が目指すのはインターハイでの総合優勝。ここしかありません。各自が自分の目標とするタイムを一つずつクリアして、夏までに準備を整えて行きましょう。」
『はいっ!!』
「それではミーティングを終わります。」
『したっ!!』
たまたまなのか運命なのか。ボクら同期は各種目で全国トップクラスの選手が集まっていた。小学生の頃からしのぎを削ってきて、大会では毎回のように顔を合わす気心の知れたメンバーだった。これだけのメンツが一つの高校に集まるのは珍しくまさにオールスター状態だった。一個下の代は「上が強すぎて試合に出られないかもしれない」と考え、別の高校にあえて進学をするという選手もいたそうだ。全国にある強豪校では日本中から速い選手をスカウトするという高校もある中、湘工は地産地消、一部東京から通うメンバーもいたが殆どが神奈川県出身のメンバーだった。
一年生は朝、授業が始まる前に早く学校に来て部室の掃除をすることが部のしきたりになっていた。ここで同期の男子8人、みんなでふと話し合う。
「なぁ、おれらの代で3連覇したらさ、最高じゃね?」
「いや。。それもし出来たら鬼ヤバいね!」
インターハイのシステムはポイント制になっていて、出場した選手の順位が高い順に点数が割り振られ、その合計点が1番高い高校が団体としての優勝を決めるというものだった。つまり一人だけ速い選手がいる高校よりも、どれだけ多くの選手が決勝まで進み高得点を狙えるかが重要で、チームとして各々がいかにレベルの高いレースをできるかが優勝するために必要不可欠だった。
今でも昨日のことのように鮮明に覚えている。この時のこのやり取りが自分の唯一と言ってよい心の支えになるだが、高1の入学当初の時点でそれはまだわからなかった。
誰が出る?
「一つの種目に対し、各高校から出場できる選手は3人まで」
高校の試合ではこのようなルールが決められていた。例えば100m自由形という種目の中では、一つの高校から3人までしか出場できないということ。これがレギュラーと控えを分けるものだった。100m・200mバタフライがボクが出場できる種目だったが、当時バタフライに出場しようとする選手の枚数は多く、自分も含め5人選手がいた。
持ちタイムの速い順からレギュラーを確保でき、うち2人は出場することはできない。ボクはちょうど3番手に位置していたが4番手5番手の選手とは殆ど差がなかったため校内レースを実施し、そこで出たタイムで残り一枠を決めることになった。
FUJIWARAの原西のように一発ギャグを一兆個くらい持っていたチームのムードメーカーと、文化祭の当日でも暇な時間に部室で腕立て伏せとか始めちゃう超絶ゴリマッチョな一個上の2人の先輩だった。結果ボクの持ちタイムを越えることは出来ず、先輩を蹴落とすような形で3番手としてレギュラー入りを果たした。
高校は各都道府県で予選会を通じ、各種目の上位8名が関東大会への出場権を獲得できる。そして関東大会でインハイの参加標準記録を突破しはじめて全国大会出場への道が開かれる。梅雨真っ只中の6月、初めての県高校を迎えた。レースに出場すると100m・200mバタフライ共に大沈没。元々200mは苦手で見込みはなかったが、100mも全中で出したタイムより2秒以上遅いタイムだった。
中学までは結果が出なかったとしてもちゃらんぽらんしていられたが、自分の成績がチームの成績へと直結する高校の試合ではそうはいかない。何より先輩2人は出場したくてもできなかったという中で1年坊主がやらかしてしまった。冷や汗と申し訳無さが止まらない。中学上がる時に感じていた「追われる苦しみ」なんて・・・なんて甘ちゃんなことを思っていたのだろうと痛感した。チームの役に立てない、力になれない、これ以上に苦しいことはなかった。
ボクの成績とは裏腹に、8月のインターハイでチームは男子総合優勝を果たす。湘工では通算3度目の団体での優勝だった。あれよあれよという間に高校1年目の夏が終わってしまった。
中学からこの時にかけて、クラブ内で顕著に表面化してきた「コーチ選手間のコミュニケーション不足」や「練習や取り組みに対する不平不満」に加え、更なる問題が噴出してきていよいよヤバいぞということに拍車がかかってきた。JOに出場している時にEくんが表彰台が狙えそうなレースの予選前に突然お腹が痛くなりトイレに籠もっていたら招集漏れしてレースに出られなかったり、先生自身がそこそこ大事な大会のエントリーをし忘れ、大会に出場すらできず「あれ?何のために練習してるのボクら?」状態になったり、とにかくありえないような奇怪現象とも思えるミスをチーム全体で連発するようになっていった。
「ちょっとさ、あのクラブヤバくない?」
この噂は徐々に広まっていき、他クラブの人たちからの目が変わっていくのを感じるようになる。冬に差し掛かるある日、ある辞令が通達された。
「選手コースのコーチ変更」
幼稚園の時からずっと一緒にやってきたW先生から、他系列店に所属しているO先生というコーチが移籍してきてコーチを変更するということだった。寝耳に水だった。しかしこの体たらくな状態はクラブ全体でも大きな問題として上がっていたそうで体制変更せざるを得なかったのだろう。
他の仲間はどう思っていたかわからないが自分にとっては大きな衝撃を受けた。このまま高3までは確実に一緒にやっていくものだと、なにより10年以上どんな時も一緒にやってきた先生と選手という関係がこんなにも突然終わりを告げるのかと、呆然とするしかなかった。その驚きと同時に「このままだと3年間何も出来ずに終わってしまうかも」という危機感と恐怖感もあったので新たな環境を迎えることは悪くないかもしれない、とも思えた。
複雑な気持ちでもやもやしながらも、4月からの体制変更の前にクラブ内で説明会が開かれた。
「えー、◯◯からきたOです。今まではW先生のもとでやっていたかと思いますがー、聞く所によるとだ〜いぶ甘い感じでしたので、私はそうはいきません。すべて以前とは変えます。今は週8回の練習ですが11回に増やします。1回でも練習に参加出来ない人は辞めてください。例外は認めません。」
O先生はこの時から遡ること10年前に一番上のクラスを担当していて、インターハイで優勝する選手を輩出しているベテラン名コーチだった。絶対的な指導に対する自信と自負を持っているような話し方だった。
新体制
こうしてW先生はクラブを去っていく。最後はこうもあっさりかと思うくらい、悲しんだりする余韻と余裕はなかった。
新体制がスタートしていく。O先生の指導はW先生の指導とは180度違ったやり方だった。完全なるトップダウン、ひたすら練習量を課し週11回の練習が始まった。月曜日の朝と夜・火曜日の朝と夜・水曜日の朝と夜・木曜日はOFF・金曜日の夜・土曜日の朝と夜・日曜日の朝と夜。今やれば完全に過労で死んでいようことも高校生はすごい。必死になりながらでもなんとかできてしまう。
練習中では「歯を食いしばっていけぇ!」がよくプールサイドに鳴り響いた。「歯を食いしばったらどうやって呼吸するの?頭悪いのかな?」としか思えなかったがスポーツ界の雰囲気では圧倒的屁理屈な考えで、悪はボクの方だった。
「あのさぁ〜、文句があるんだったら、結果を残してからにしてくれます〜?そしたら何でもしてやるよ!」
「お前のそれが全力かよおい!なめてんじゃねぇよ!ばぁああかぁ!!」
セクハラパワハラが叫ばれる昨今ではあるが、当時こんなのは日常茶飯事でボクと後輩のRくんは特に”標的”として集中砲火を浴びせられていた。O先生は恐らく叱咤激励からボクらを奮起させようとしていたのだろうが、怒られると異様に萎縮する性格と、気合や根性論よりも何をどうやればどうなるのかの理論理屈(若しくは根性論でもギャグ要素高めであればOK)で指導してもらいたい自分の思考が、相性の悪さを感じさせた。
とはいえボクも変わらなければいけない。このままでは何もできない。そういう考えもあったのでとにかくこのやり方に慣れようと必死になって食らいついた。
2009年6月、2回目の県高校を迎える。全中決勝以来約2年ぶりに自分の自己ベストを0.1秒更新した。高校2年でも関東高校にすら進めないしょぼすぎるものだったが「あぁこれでなんとか怒られれずに済むな」とほっとして上に戻っていった。梅雨の時期、外では雨が降り続く中、会場内にもカミナリが降り注ぐ。
「おーい、おい!!!おぉぉぉいいいい!!!!!」
身体が築地であがったマグロのように硬直する。
「お前こんなんで許されると思ってんのかぁ?よくもオレの顔に泥を塗ってくれたなぁおい!!どうしてくれんだよ?どうすんだよ?おい!!!」
どうすんだよ??何を言っているのか…自分は1ミリもふざけず真剣に全力を出し切って、確かに結果は満足出来ないけど持てる力の全てを出し切ったのになんで怒られてるの??混乱しかなかった。
「わかりません。。。」
「わかりませんじゃねーよ!丸坊主じゃすまされねーぞお前よぉお!」
「。。。。」
「明日の練習までにどうするか考えてこい!誠意見せてこい!!!ふざけやがって!!!バカじゃねーのかお前ら…いいな!わかったかよ!?」
「・・・はい。。。。」
とりあえずボクと先輩のHさんは頭を5厘刈りにし、全面的にボクたちが悪い、申し訳ないですという稚拙な反省の弁を述べた。なんとかその場は納得してもらい練習へ戻るも、この日を境に何かが自分の中で崩れ落ちた。
「オレの顔に泥を塗ったってどういうこと?ボクは先生の面子を保つための道具?」
「自己ベストを更新して怒鳴られるなら、これ以上ボクは何をすれば良いの?」
「なんで坊主にすると許されるの?逆にナゼ?誠意ってナニ??」
自分が出場することで試合に出られなかった先輩には会わせる顔がないくらい申し訳ないし、入学する前に高校3年間は本気でやると誓ったけれど、もう頑張ることを止めよう…そう決意した。今まで張っていた糸が切れるように、完全にバーンアウト(燃え尽き症候群)した瞬間だった。
その日から「どう手を抜いて高3の引退を迎えるか」がボクの頭の中を支配する。水泳を辞めて退部するとスポーツ推薦で入学しているので高校も退学することになる。ここまで来てそれはできない。かといってもう頑張ることはできない。行き場のない地獄の日々が始まった。この時の自分は物の例えじゃなく無味無臭の世界が広がり、全てが灰色に見えていた。
オワリを数える日々のハジマリ
個人的な状況とは打って変わり、チームは全国で大暴れし爆進していた。
2009年のインターハイは大阪で開催され、男子の自由形種目は全て湘工の選手が優勝するという快挙を成し遂げたのだ。ボクはそれを練習の合間に自宅からテレビで見ていた。インターハイの最終レース・花形種目でもある800mフリーリレーを取り、レース後インタビューに答える選手たち。みんな笑顔で楽しそうで、ちらっと映る応援席も皆一致団結している。眩しかった。同じチームに在籍しているとは思えない心境になった。
「こんなにもみんな輝いているのに、自分は何をやっているのだろう・・・」
心が引き裂かれる。チームの一員であればもちろん喜ぶべきことなのだが、ボクはとてもじゃないがそんな精神状態にはなれなかった。チームは見事団体2連覇を達成。その中でも自分は相変わらず死んだ魚の目で練習に向かっていた。そういう腐り果てた日々が続くといい加減O先生も呆れ果ててしまう。
「うちでちゃんとやれないなら邪魔なので消えてくれない?お願いだから。M先生と話しして学校で練習した方がいいんじゃねーのか?とにかくうちにはいらないから話してきて下さ〜い。」
水泳部監督M先生へ相談しにいく。「学校練に切り替えてもうちは構わないよ」と。環境を変えればまた気持ちも入れ替えられるし、みんなからも刺激を貰えるから。でもそれもボクにはできなかった。もう頑張れない以上、全国大会で良い成績を残すために前を向いて必死に頑張っているチームメイトに迷惑はかけられない。ボクのような腐ったみかんがその場にいるだけで悪影響を与えてしまう。そう思い込んでいた。
あまりにも見るに見かねて我慢できなかったのか、スイミングクラブの同期女子2人に呼び出された。
「悠生さ、もうあたしたち高3になるんだよ。1番上だよ!このままでどうするの?後輩のお手本にもなれないし、何より悠生自身このままで終わっていいの?」
「…………。」
「ねぇ。聞いてるんだけど!」
「いや、その………。」
「なに!?!?」
「もう・・・頑張れないんだ。」
「意味わかんない!それで終わっていいの?」
「よくないけど。。」
なんとも惨めなものだった。せめてもこの高校の片隅に在籍することを許してもらうには何か存在できる理由をつくらねばと思い、それまで大っキライであった勉強もそこそこちゃんとやり学内では良い成績(といっても偏差値40に満たないスポ科の中で)を取っていった。
O先生からは匙を投げられ、M先生の救いの手も振り払い、同期女子からはブチギレられる。もう水泳をやってきたこと全てをなかったことにしたい。どこか遠くへ流れていって、自分の存在をみんなの記憶から消し去りたい。自分の殻に閉じこもりひたすら闇に飲み込まれていった。
ある日練習に向かう途中、買い物帰りの母とチャリですれ違う。母が止まり、ボクを止め、驚きのことを口にする。
「悠生、あんたもう、練習行かなくていいよ。」
「は?何言ってんだよ」
「このままじゃあんた、おかしくなっちゃうよ…」
「意味わかんねーこと言うなよ・・・もう遅れるから行くわ」
サボったりいい加減な行動をすることに厳しかった母が、母の方から休めと言ってくる。意味がわからなかった。足止めを振り払って「ヤバい、遅刻したらまた怒られる!」とダッシュで練習に向かった。ボクの原動力は「どう逆鱗に触れず、かといって頑張ることもせず、終わりの日を迎えるか」それだけを考え練習していた。
何のために練習をしているかなんてことは重要ではなく、事を荒らげずにささっと終わりたい。それだけだった。なんでそれを続けるの?と傍から見れば思うのだろうが、この時は「それでもやらなければいけない」洗脳意識が自分の身体を突き動かしていた。
県高校まであと〇日、練習はあと〇回。あと〇回やれば全てから開放される。ちょくちょく精神がおかしくなって同級生の仲間を誘っては江ノ島の岩屋に行き海を眺めて黄昏れたり、授業中や休み時間に突然奇声をあげたりなど、所々要所で逃避行動に走りながら一日一日が早く終わることを願うように。
ついに高3の6月、最後の県高校を向かえた。
すべてのおわり
100mバタフライ。ゴールタッチし、電光掲示板を見上げた。
59.4秒。3年前の全中の決勝の時よりも遅いタイムだった。結局高校3年間ではただの一度もインハイには出場すら出来なかった。努力というのはただやればよいというものではなく、明確なゴールとビジョンの元そこへ到達しようとする健全な精神状態と意志、限界を超えた取り組みや行動を持ってはじめて実る可能性が生まれるものだと、全てが終わったあとに気付くことになった。
プールから上がり一礼する。荷物を持ってサブプールに向かうと同じクラブの仲間や水泳部の後輩が号泣していた。
「なんでお前らが泣くんだよ。。」
彼らはボクが苦しんでいることを身近で見ていてよく知っていた。小学生の時に背中を見て憧れていた”高校3年像”と、無残で哀れな自分の姿とのギャップにいたたまれない気持ちになった。彼らの表情を見て自分もヤバくなったのですぐさまサブプールに飛び込んだ。最後を噛みしめるようにこれ以上なくゆっくりダウンする。プールから上がるとO先生のもとへ最後の挨拶をしに行った。
「終わりました。今までお世話になりました。ありがとうございました。」
「うん、おつかれさん。」
それだけを言い残し去っていった。上の観覧席に戻るとかつてお世話になったW先生が立っていた。最後のレースを観に来てくれていたらしい。なにか励ましの言葉をかけてもらったようだったけど何を言われたのか全く耳に入ってこなかった。ひたすら涙がこぼれ落ち何も話すこともできず、ただその場で立ちすくむ。
これまでの自分の人生のすべてであった代名詞を捨てる日。いつかくると思っていて、むしろそれを願っていたけどいざその日を迎えると表現し難い感情が自分を包み込んだ。
栄光と挫折、両極端の橋を渡って辿り着く。涙にまみれたボクのすべてが確かに終わりを告げたのだった。
夏の締め括り
県高校が終わり次の日の朝、目が覚める。快晴だった。起きてふと外を見つめ、徐々に実感が湧き出てくる。
「あぁ、、そうか、もう終わったのか。。。」
「おれの人生。 終わったな。」
若いくせに何を言うかと激を飛ばされそうだが、この時滲み出るようにそう思った。そう、紛れもなく自分は終わったんだ。その日から練習に行かなくなった。朝練も行かなくていいのでゆっくり起床して学校に行って、チンタラ脳天気に授業を受けてチャリで帰る。帰宅途中、小田急鵠沼海岸駅近くのファミマでジャンプやサンデーを立ち読みし、家に帰っても貪り漫画を読み続ける日々。ルフィとナルトのメンタリティにめまいがする。数日、数週間かけて、現実を受け止めていった。
自分自身は引退してもチームは止まらない。迎える夏のインターハイ、高校3連覇をかけた戦いが待っていた。
一旦ボクの今までのことはすべて忘れもう開き直るしかない。最後くらい、少しくらい、このチームの役に立ちたい。ここからは完全にサポートメンバーとしてチームを支える立場になった。同じサポートメンバーの後輩1・2年には「お前ら、来年は絶対選手で出ろよ!サポートする側はこれで最後だからな!」と、ボクが高1の時に先輩から言われたことを今度は彼らに託した。
サポートメンバーは、マネージャーが行う仕事の補助に加えメインは選手の応援。声のデカさだけは誰にも負けなかったこともあり「いよいよお前の本領を発揮するときがきたな」と笑われながら会場へ到着する。2010年のインターハイは沖縄で開催され屋外のプールで強い日差しが肌に突き刺さる。南国特有の突然のスコールに見舞われ、汗なのか雨なのか何で濡れているのかわからないが、そんなことは気に留めることもなく準備に取り掛かった。
会場のスタンドと控え場所の場所取り、チーム備品の荷物運び、控え場所からサブプール・メインプールまでの移動距離をみてどのくらい時間がかかるか確認する。選手用のスポドリの粉を水と混ぜて作り、ウィダーやカロリーメイト等の補助食品がどこにいくつ必要なのかそれぞれの場所に設置。マネージャーの手が回らない時はウォーミングアップでは選手のタイムを図ったり、スタンドからレースのビデオ撮影をする。挙げればいくらでもある仕事をみんなで役割分担して一つ一つ順序立てて取り組んでいった。
徹夜で会場の前にシートをひいて会場入りを待つ。アブや色んな虫と戦いながら選手が最高のパフォーマンスを発揮できる準備を整えていった。
「〇〇のレースがこの時間にあるからこれとこれは用意して!あと部旗は絶対一番目立つところに張るぞ!」
『はいっ!!』
「ウィダーいくつ?〇〇は?」
「おい!〇〇ねーじゃねーか、動けよ1年!!」
『はい!!!すいませんっ!!!!』
まるで新卒1年目とワンマン上司がいる激烈ベンチャー企業のようなやり取りが飛び交い、選手自身も戦っているがこっちはこっちで色んな戦いがあった。水泳は個人競技ということからあまり理解されないのだが、この時の湘工水泳部は各々の役割がしっかりと割り振られ組織化されており、一つのチームとして動いていた。
そんなボクらの誰にも知られることのない裏の努力の甲斐もあってか、4日間の激闘の末に湘工は首位をキープしながら最後の800mフリーリレーを迎える。2位チームとの差は殆どなく、どちらかがこのレースに勝った方が男子団体総合優勝を決められるというドラマのような脚本が仕上がっていた。
インターハイの最終レース、笛の音がなり選手がスタート台に上がる。これまでの3年間、いや13年間の思い出が走馬灯のように蘇る。このレースが多分本当の最後。顔は既にぐちゃぐちゃだった。
「みんな・・・がんばれ!」
約7分半に及ぶ時間はこれまででもっとも遅く刻が流れていった。
ありがとう
このレースを見事に勝ちきり、ボクらは高校3連覇を達成した。
“ボクらは”なんて言っていいのか。お前最後だけ調子よくねーか?あんなに死んでたくせに自分はチームの一員になれていたのか?今でも全く自信はない。でもあの時に部室で語り合ったことが間違いなく現実となったんだ。
「なぁ、おれらの代で3連覇したらさ、最高じゃね?」
間違いなかった。最高だった。
自分がどうだとか、もうそんなことはどうでもよくなった。みんなでこの瞬間を3年間目指してきて本当に掴み取ったのだ。なんて凄いやつらなんだろう。もちろん同期だけでなく先輩・後輩の力もあってこそ。心底凄い仲間達を持ったと恐れを感じるほどだった。
だがあの時の話を後になってすると、皆それぞれで苦しみを抱えていた。チーム内、先輩後輩、選手とコーチ、男女、各個人同士、それぞれで確執なり問題なりを抱えていて、最高の結果をチームとしては収めたがそれなりに苦しいものだった。
特別なことを、誰かと違うことをしようというのは痛みが伴うことなのかもしれない。良し悪しでは語れない、その範疇を越えてただただチームが全国で1番になる。そのためだけに選手、サポートメンバー・マネージャー・コーチ・トレーナー・家族、皆が一つになった。
「気に食わない」「納得できない」「あいつがキライ」「理不尽」日々負の感情に苛まれることもあったが、たった一つの目標だけをみて各々の役割を遂行しようとする意志の結晶。チームとは何なのか、言語化できないがその本質のようなものを見た気がした。
。。。。。。
あれから9年余りが経つ。
銀行マンや保険の営業マンになったやつ、幼稚園の先生になったやつ、飲食店を何店舗も経営する実業家になったやつ、ミスタージャパン(!?)になったやつ、皆それぞれの道を歩んでいる。
今や同期の結婚式くらいしか集まらないがそんなんでいいと思っている。彼らがどこで何をしていようとも別に何も変わらない。あの時の想い出は、忘れたくても忘れることができない。元気でいてさえいれば、たまに何してるのか耳に入ればそれだけでいい。
あまり面と向かっては言えないが、いつも思っていることがある。
ありがとう。
こんなクズを仲間でいさせてくれて。
彼らがいなければ確実に途中で折れていた。いや、実際は折れていたんだけどなんとか繋ぎ留めてもらいながら引っ張ってもらいながら、やってこれた。
タレントの上地雄輔さんが「高校時代に戻ってまた松坂選手とバッテリーを組みたいですか?」という質問に「いえ、1億積まれても戻りたくありません。あの3年間は何にも代えがたい宝物です。」とテレビで言っていたのをたまたま見たことがあったが、その気持ちがよくわかる。二度とあんなに辛い想いはしたくない一方で、誰もが経験できるわけではない最高の体験を皆から与えてもらった。
濃すぎるほどに濃密で、ただただ苦しく泣きじゃくるも、人生で最も得難い経験をした3年間だった。

もれなく全員アホだけど、最強で最高な同期たち
追伸:
私が経験したような選手としての炎が消えることは、日本のスポーツ界では珍しいことではありません。きっかけや経緯は様々ですが、後に大学でスポーツコーチングを専攻し、多くのアスリート達との話を通じその状況を理解しました。この話を書いた経緯としては偶然の出来事ではありましたが、私の過去を蒸し返したいわけではありません。未だに声なき声として埋もれている”弱き立場”の選手がいるということ、似たような経験を通じ自分が行ってきたスポーツを嫌いになって辞めてしまう選手がいること。私の持つ影響力はほんの微々たるものかもしれませんが、少しでもこういった現実があることを知るきっかけとなれば幸いです。日本・世界中の全てのアスリートが自身の競技結果を問わず、幸せで有意義な選手生活を営める環境作りがなされることを私自身、切に願っております。