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神様からのプレゼント

Image by Olia Gozha

私はホンマにアホな子やった。

 高校3年生の夏休みは、海辺で使うビニールベッドを部屋の真ん中に置き、寝てばかりいた。一番勉強せなあかん高校3年生がアホのピークやったように思う。

 マーフィー博士の「眠りながら成功する」という本を読んでからというもの「ふむふむ寝ていれば願望は実現するんだ!」と都合の良い解釈をし、1年前に通販で買った睡眠学習の効果が全く出ていないことは、頭の隅に鍵をかけて忘れたフリをし、ひたすら寝ていた。ただ寝ていたのではない、眠りに入る前にイメージすることがとても重要ということなので、一生懸命イメージして、一生懸命寝ていた。

 私には、どうしても叶えたい夢があった。

アイドル歌手になること!いやいや高校3年生でアイドルなんて遅すぎるんちゃう?という思いが頭の隅に浮かぶことすら封印し、イメージトレーニングに勤しむ。

 当時はおニャン子クラブ全盛期。私でも、いけるのではないか・・と思うほど普通の子がTVに出ている。おニャン子も新メンバーを募集していた。さっさと応募すればいいようなものの二の足を踏んだ。

 何通かオーディションには応募していたがすべて書類選考で落ちていた。書類選考すなわち写真審査で通らないのはどういうことか、わかりそうなものなのに、現実を直視することを避けていた。要するに応募して落ちることが怖いのだった。

 写真が命の写真は、自撮りという素晴らしいシステムもなく。写真館に行って写真を撮ってもらおうと思う頭もお金もなく、母親に頼むしかない。

母親は、私が歌手になりたがっているのを、知っていたはずなのに応援することはなく、写真撮影を頼んでも、いつも面倒くさそうで、出来上がってきた写真は(当時はデジカメがなかったので、写真はカメラやさんで現像してもらうしかなかった)足がきれて、空ばかり写っていたり、逆に頭が切れていたり、ピンぼけばっかりだった。

 多くのタレントがスカウトをきっかけにデビューしている。受かりそうもないオーディションに何度も応募して傷つくよりも、スカウトされることが早道だ。私もスカウトされたい!自分の風采がどういうものか、度外視。だってマーフィ博士が潜在意識にアクセスすれば、どんな夢も実現できるって言っているし、その為に、日々トレーニングに勤しんでいるのだから、きっと、きっとスカウトされるはずと思いこむようにしていた。

 頑張りたいのに、何をどう頑張っていいのか分からない。この有り余るエネルギーをどう使えばいいのかもて余していた。ボーカルトレーニングやダンスレッスン受けて、無我夢中で取り組みたかった。しかし、右を見渡しても、左を見渡しても田んぼしかない田舎で、そんなことできるはずもない。仕方なく「歌手養成講座」という通信講座を購入しカセットから流れてくる「ド~ミソドソミド♪」をなぞって発声してみるが、合っているのか間違っているのかさえわからない。これで、歌が上手くなるとは到底思えなかった。

高校生活も残り少なくなってきた頃、友達のちえちゃんの受験に東京まで、もうひとりの友達ラムちゃんと一緒にいそいそと付いていく予定だった。大学に行かせる余裕はないと両親から言われていたので、勉強はしていない。もう、高校3年生だ。東京に行ってスカウトされる。ここに賭けるしかない!

アホの考えそうなことである。そう強く自分を信じ込ませようとしていた。

 最終の亀山行きに乗り、そこから乗り変えて名古屋まで行き、名古屋から普通の夜行列車で、早朝東京に到着予定だった。しかし、乗車予定の最終列車が到着したのに、前の駅から乗り継いで来るはずの二人がいない。乗ろうかどうしようか迷ったが、乗らずにボーゼンと最終列車を見送った。

 家に帰りしばらくして電話があった。2人とも列車に乗り遅れ、真っ青になっていると、親切な人が、間に合う駅まで送ってくれたとのことで、私は始発列車で追いかけることにした。携帯のない時代は、行き違いが多く不便だった。

 翌朝、寝坊してしまった。息せき切って駅まで行くと列車は発車するところで、ガタンと動き出した。改札口の駅員さんに「列車を止めて!!」と言ってみたが「無理や」と言われる。次の列車は1時間後で、到着時間は大幅に遅れる。私はとっさにホームから飛び降り、走りかけた列車を無我夢中で追いかけた。「待ってぇぇぇーーー」髪振り乱し、すごい気迫だったのだろう。列車は止まり、半べその私を乗せ再度出発した。

 普通列車を乗り継いで片道9時間の道のり、変わり映えのしない風景を見ながら、ウォークマンで当時流行っていた ダンシングヒーロを繰り返し繰り返し聞いていた。

夕方にようやく到着。

国民宿舎のベットの上でちえちゃんは「よー来たな」と言って、ラムちゃんから借りたメガネをかけ、カンニングの練習をしていた。受験でカンニングなんてマジか?と思ったが、フザケていたのだろう。そんなちえちゃんを横目で見ながら、私は明日行く原宿に思いを馳せドキドキしていた。イメージトレーニングは、ばっちりだ。マーフィ博士も応援してくれるだろう。

当日はスカウトのメッカ原宿のラフォーレを何度も往復した。

 カンニングに失敗したチエと、怪しいキャッチすら声をかけてくれなかった私は、失意の中、列車を乗り継ぎ三重まで帰ってきた。

東京に行けばなんとかなると思っていた。神様はそこまでお人好しではないし、世間は甘くない。田舎で育った私は、世間知らずでアホやったから、自分というものを客観視できなかった。

 寝ている間に アイドル歌手になれると思っていた私は、進路を決めていない。友達が行くことになっているスチュワーデス専門校の2次募集に慌てて受験する。中学校3年生の時TVドラマ「スチュワーデス物語」が人気で女性の憧れの職業ナンバーワンだった。アイドル歌手になりたいなんて、恥ずかしくて言えなかったが、スチュワーデスになりたいねぇとは、一人の友達限定で言い合えた。公言するには、やはり恥ずかしい。

 田舎者の宿命か地味に努力できないものの宿命か、はたまた自己肯定感が低いためか、とにかく華やかなものに憧れ、認められたい欲求が強かった。同時に自分には無理だと、どこかで諦めていた。自分で自分を認めていないのだから当たり前だと納得出来たのは、ずっと後になってからだった。

 4月、福岡にあるその専門校に入学することになったが、どうしても行きたくなくなってきた。そんなこと両親に言えない…。行かなければ学費を返してもらえるかもしれないと、ほのかな期待を抱く。そこで、押し入れに隠れて、福岡に出発したフリ、すなわち学校に行ったフリをしようと思い立つ。両親は、働きに出ている。日中は私一人だし、楽勝だ。両親が帰ってきた時だけ、押し入れに隠れればいいのだ。とにかく現実から逃げたかった。

 逃げていた。大人になることに、何も考えず気楽に過ごしていた毎日から、いきなり背中をドンと押され、自分で考え、選択して道を切り開いていかなければならなくなった。

どこを歩けばいいのか、道を指し示してくれる大人がいない。

考えることをしてこなかった私は、ポツンと取り残され、時がいたずらに流れていくのを気づかないふりをし、それで済まされなくなった今、逃げるしかない。現実を目の当たりにしても何も考えていなかった。先のことなんて考えられない。

 家の間取りは3DKで自室があった部屋の押入れは、家の真ん中に位置している。私は息をひそめ一晩すごした。朝、両親が出かけると、私は押入から出て、大きな伸びをし、部屋でくつろいでいた。

そこに看護婦をしている姉が夜勤明けで帰ってきた。「あーーーーお姉ちゃんが居ること忘れてた!」慌てたが、もう遅い、逃げも隠れも出来ない。息を殺し「どうか部屋に入ってきませんように・・」と祈った。普段私の部屋に入ってくることは、ほとんどない。しかし、姉はドアを開けた。

そこに、いるはずのない私の姿..目を見開いて、固まったままの姉。

「あんた・・・どうしたん?」

「・・・・・・・・お父ちゃんには黙ってて!」

 

こんな生活続けられるはずがないと、心のどこかで思っていた。もう観念するしかない。姉と母は、父に内緒にしてくれた。私は翌日、大阪からフェリーに乗って福岡の学校まで行った。

 暫くして実家から荷物が届いた。荷物の中に母と姉からの手紙が入っていた。

「ゆり、げんきですか?

最近はそうでもなくなったけど、以前までは病院から帰ったら、真っ先に、ゆりの部屋の押し入れを開けていたものです。じろじろじろ

ゆりはバイトで忙しいことだろうと思います。

たしになるか、どーかわからないけど、ちょっとしたものを送ります。

またね   

姉より」

 

「百合へ

元気ですか、ちゃんと食べて生活していますか?

ゴールデンウィーク真っ只中ですが、アルバイトに精を出しているのですか?

未だに、あなたの部屋を開けるたびに百合がポツンと座っていたらどうしようとドキドキします。

あなたが行ってから、まだ3週間にもならないのにすごく長く感じます。勉強に精を出して心身ともに素敵な女性に成長してくれるよう願っています。

身体に気をつけて、何ごとも頑張ってください。

母より」

手紙の他に、お菓子や生活に必要な物が入っていた。私は胸が熱くなり、とても申し訳ない気持ちになった。というのも私は早々に、この学校に通っていてもスチュワーデスにはなれないと悟った。OGの先生一人が主たる教師で、あとは校長と事務職の男性のみだった小さな専門校。学校出身者からスチュワーデス採用試験に合格した人がいないのも引っかかる。

福岡に来るまでに一騒動あったのに、来て数ヶ月でやめるとは言えない…。

 実家からの仕送りは寮費のみで、バイトに明け暮れた。

寮費の5万円を支払うのがバカらしくなり、寮を飛び出し、友達と先輩が暮らすアパートに転がり込む。学校をサボり、ロウソクの火を見つめ、性懲りもなく新たな方法で、潜在意識を開発しようとしていた。

本が積み上がっている納戸に格安で住まわせてもらった。そんなある日、本を枕に寝ていたら、校長がいきなり来て、「本に対して失礼や!」と説教される。


 結局学校はやめて実家に戻り、ゴルフ場のウエイトレスやキャディをしながら鬱々とした日を過ごしていた。

ある化粧品購入をきっかけに知り合った女性に、宗教に勧誘され、あっさり入信。魂を浄化させると運がよくなると言われたからだ。自分の努力はそっちのけで、運が悪いと運勢のせいにした。元来世間知らずなものだから、見事に宗教にハマっていく。「魂を清め、徳を積むのだ」と人から言われるままに夢中になっていた。

 冬の寒い中、街頭で布教活動、夏の暑い日に布教合宿。

「人を幸福にしなければ、自分は幸福になり得ない」と英語で印字されたトレーナーを着て「あなたの幸せをお祈りさせてください」と街ゆく人々に声をかけるのである。かなり怪しい。1日何人の人に声を掛ける目標と入信勧誘ノルマがあった。 

オウム真理教が明るみになる以前だったので、それほど嫌悪されることはなく、世間の人の対応も優しかった。「スローガンの英語の文字はいいね!」と声をかけてくださる方もいた。大阪の叔父が入院していると聞くと、魂を清める除霊をしに行く。除霊すると重い病気の人も治るらしい。信じて疑わなかったので人の目は気にならなかった。よくやっていたなと思う。

 自宅から1時間以上かけて、奈良にある支部に通うために 奈良で事務職の職を得る。 世間はバブルなのに、そして、20歳~22歳の輝かしい時代に私は、地味な仕事をし宗教にハマるのである。バブルの恩恵は1ミリも受けていない。

 そんな、ある日 帰宅途中に1枚のビラを受け取った。三浦綾子著「塩狩峠」の映画上映の案内で、近くの公民館が会場だったので見に行くことにした。雪がちらつく寒いクリスマスの日だった。古い公民館の畳部屋に座布団が置かれ、数名が座っていた。年代物の映写機でカタカタと途中何度か止まりながらの上映会だった。

映画に感動した私は、これを機に三浦綾子作品を読むようになる。

 新興宗教に入信し、一生懸命布教活動はしていたものの、三浦綾子の説くキリスト教に、しだいに感化されていき「神様は無理強いはしないはずだ」と献金の強要、ノルマ、先生方への行き過ぎた接待に矛盾を感じ、次第に足が遠のくようになっていった。

 毎日のように支部に日参していたのが行かなくなると、封じ込めていた“このままではいけない“というふつふつとした気持ちが湧き出できた。

 専門学校中退後に受けた、スチュワーデス採用試験の一次に、まぐれにも合格し、あわてて英会話のマンツーマンに100万円支払って習いに行く。他にスチュワーデス短期講座も受講した。英会話教室の講師は外国人教師ではなく、帰国子女でもない、短大卒の女性講師、バブル時代のせいなのか月謝はベラボーに高かった。週1度の6ヶ月コースに大阪まで片道2時間かけて通う。安月給ゆえローンを組んだ。

 その後も英会話は習っていたが、お金がかかるばかりで上達しないのが悔しくて、現地にいけば、話せるようになるだろうと短期留学を決める。決意してから昼も夜も働き必死に貯めた。アメリカは学費が高く、留学先はイギリスになった。湾岸戦争が始まりポンド値上がりの為、私の予算では、期間3ヶ月と短くなった。

 私は何に対して、こんなにもがいているんだろう。三重の田舎で、ほのぼのと暮らすのも悪くないのかぁ...と考えたこともあった。

 ふと思い立って占いに行ってみる。家族と離れて住むほうがいいと言われた。自立しろと当然なことを言われたまでであったが、イギリス行きの後押しをしてくれたように思うことにした。

何でも占いに頼ってしまうほど、自分の心の声を聞く余裕も、本当に何がしたいのか考える力もなかった。

 初めての飛行機。一面銀世界のような雲が眼下に広がる、ふわふわ幻想的で、今まで見たこともない景色に心を奪われ、飽きることなくずっと雲を見ていた。

そして、スチュワーデスの仕事をずっと観察した。元スチュワーデスの先生は「あんなの高級ウエイトレスよ!私に娘がいたら絶対ならせない」と鼻の穴を膨らませて言っていたが、テストに落ちた私達を励ますつもりで言ってくれたのだろう。体力と気力勝負の大変な仕事だ。私は表の華やかな部分だけを見て、裏を見ていない。

飛行機は乗ってサービスされる側がいい。

 イギリスに着くや早々に、私は女優になりたかったということに気づく。中学時代はNHK「おしん」の物まねをずっとしていたし、学芸会で演じるのも楽しかった。そういえば小学校時代は演劇大会があって、作・演出をしたっけ・・・・気づくの遅すぎや・・・。

 女優というのは、ある限られた特定の選ばれし人しかなれないと思っていた。東宝シンデレラガールやホリプロタレントスカウトキャラバンでグランプリを取らないとなれないと思っていた。なれないのになりたい、この矛盾する思いからずっと逃げていた。

 ふとしたきっかけで小劇場の存在を知り、にわか演劇少女が出来上がる。小学校時代は、飽きもせず吉本新喜劇をずっと見ていたから、全くジャンルは違えども舞台に対しての親しみと憧れはあった。

 イギリスにいる間、上京する決心を固めていた私は、帰国後、英会話学習雑誌に募集が載っていた「外人宅でベビーシッター兼お手伝い」に応募。

仲介業者に紹介料を支払い、面接することもなく、自由が丘にある、シンガポール人宅に住み込みの仕事が始まった。いきなりである。

英会話でコミュニケーション、初めてのベビーシッター、初めての家事。

ある日ベランダで水遊びの準備をしていると「この子は我が家の大事な跡取り息子なの、気をつけてね」と言い奥様は出かけられた。1才児の跡取り息子は、泣きじゃくった。どんなになだめても、何をしても泣き止まない。オロオロしていた私は、悲しくなり、泣いている跡取り息子を尻目に、オイオイ泣いた。そんな私に圧倒され、跡取り息子は泣き止み「どうしたの?」という顔をしてきた。とても良い人達だったが、人の命を預かるプレッシャーにギブアップ。

 1ヶ月ほどで実家に戻る。実家は私にとって居心地の良いものではなかったが、帰る家があるということに甘えていた。ここではないどこかに行きたがっているのに、負け犬のようになって戻ってくる。私は負け犬だ。自分の人生に責任がもてない負け犬。自分を見つめ、自分の頭で考えることを怠っている負け犬だ。

 伊賀にある忍者屋敷で、くノ一のバイトなどをしながら上京する機会を伺う。求人情報誌「とらばーゆ首都圏版」を東京から取り寄せ、仕事を探す。右も左もわからない東京に一人住むのは恐ろしい、ましてや仕事が決まっていないと不安だ。住居を用意してくれる会社に、就職することにした。

 ようやく晴れて東京で暮らすことになった。

俳優養成所などのオーディションを受けつつ、入団可能な劇団を探すため、芝居を見て回るが、なかなか見つからず、上京してから1年が過ぎていた。

観劇している中で一番感動し、面白かった「home」を上演した山の手事情社の入団テストを受ける。

テストは、「自分の身の回りにいる人物を真似してください」という内容。・・・できそうにない、できる気がしない、考えても浮かんで来ない・・・テストを受けるのを断念しようと何度も思った。が、どうしても入りたい劇団だ。審査員は元となる人物は知らないはずだからと、いちかばちかのやけくそでテストを受ける。

 春の陽気が柔らかな日に入団した。

座長の安田氏は、早稲田の演劇研究会出身で、大学に行っていない私にとって早稲田大学は雲の上の存在、早稲田大学行きのバスに乗るだけでウキウキしていた。

新入部員は私を含め4名、挨拶もそこそこに早稲田の大隈講堂周辺で、マラソン及び身体訓練、輪になっての発声練習。続いて行われる先輩のエチュードにツッコミを入れる安田氏は最高に面白く、稽古は夢のようだった。

週に3日の練習に加え、課題が月に2つあった。

1つは表現の言語化のトレーニングとして、見た芝居の感想レポートを書く。レポートを書くのが初めての私は、段落のあけ方も分からず、相当バカにされ恥ずかしい思いをした。

2つ目は「面白い人を演じる」発表会が1ヶ月に一度。毎回頭を悩ますが、次第に恥ずかしさもなくなり、面白くなってきた。

 当時私はパチンコ屋でバイトをしており、開店時、軍艦マーチが流れる中「え~いらっしゃいませぇ、本日もジャンジャンバリバリ出してくださいませぇ」と店長がマイクでアナウンスするのが面白くて、このアナウンスを“峰不二子風”に色っぱく言ってみたらどうだろうかと、自分に出せる最大限の色っぽさで(伝わってなかったみたいだが)発表したら、ネタ評価は良く、秋の公演に取り入れてもらえることになった。

 公演名は「コーラーっぽいの」

主要俳優2名が抜けたばかりで作風が大きく変わることになり、はじめての試みであった。

コラージュのような演劇。皆、手探り状態で、演っている本人達も何が何だかよく分かっていなかった。私は出演できるというだけで、有頂天になっていた。

舞台衣装作り、舞台稽古用スタジオでの稽古、本番。

ロボットのように行進したり、芝居が進行している片隅で“峰不二子風”パチンコアナウンス。そして、客席を駆け回る。何もかも新鮮で無我夢中だったが客席からどう見えているのか不安だった。

 先輩の知り合いで公演を見に来ていた人達と飲みに行くことになった。公演の話になり

「私も出てたんですよ~」

「どこに出ていたの?」と聞かれた。

「“峰不二子風”パチンコアナウンス…全くインパクトなかったんや」私の練習不足というのも否めない、発声もまだまだだし..。

しかし、華がない、存在感がないっていうことではないのか?人の記憶に残らないなんて、演る意味あるのか?俳優として絶望的なのではないか・・・・。

「向いてないな・・」セッカチであるがゆえに結論を急ぎすぎた。何様のつもりだったんだろう・・・。

 「やめよう」

続けていけば、存在感は出てきたであろうに、はたまた存在感のなさを売りにできるかもしれない。何にせよ続けることが大切なのだということが、まだ分からなかった。

 劇団をやめようと思ったが、誰かに後押ししてもらいたくて、またもや占いに頼る。ネットがない時代、情報はananなどの雑誌に頼るしかない。雑誌に載っているような占い師は、ものすごく高い。お金もないのに大枚はたいて見てもらいに行った。

「あなたねぇ、色気がないのも存在感がないのも、彼氏がいないのに問題がある。彼氏をつくりなさい!」

「ちゃんちゃん。終了~」

占いに行くより、ゲイバーのママに相談するほうが良かったかもしれない。

 

公演後の休みの期間、占いに行ったり、アルバイトに精をだしていた。そのアルバイト先で「スピード」という映画が、とても話題になっていたので見に行くことにした。

主演のキアヌ・リーブスが大画面に映るやハッと息を飲んだ「なんてかっこいいんだろう。世の中にこんなに、こんなにかっこいい人がいるんだ」・・雷に打たれたような衝撃を受けた。まさに一目惚れである。

映画を見終わった後、魂を抜かれた人のようになり、道行く人々はモノクロに見えた。残像に残っているキアヌ・リーブスだけがカラーなのだ。

それからというもの切り抜きを集め壁に貼っては、眠りにつくとき「ひと目でいいから会いたい」と思い焦がれるようになった。

無意識のうちに、潜在意識アクセス法を実践していたのである。マーフィ博士のことはすっかり忘れていた。

 程なくして、キアヌ・リーブスが参加するバンド「ドッグスター」がライブのため来日した。キアヌに会える。生キアヌ!こんなに早く夢が叶った。私の夢の規模はどんどん小さくなっている。努力を伴わない夢は叶いやすい。

 上京してからというもの次第に大阪に対する気持ちが強くなって来ていた。大阪ローカルテレビが東京では放映されていない。やしきたかじんも探偵ナイトスクープも上沼恵美子も見れなくて、寂しい思いをしていた。華がないから諦めたのに、大阪ローカルならなんとかなるのではないかという、甘い期待を少し抱いていた。自分は何をしたいのか、混沌としていた。

とにかく東京から離れて大阪に行きたかった。大阪に行くことを、占い師は賛成してくれた。情けないことにまた、後押ししてくれるものが必要だった。逃げていることも、自分が弱いことも、他の土地に行くことで誤魔化していた。

 東京を引き払い。一旦実家に戻り、大阪で住むところを探すことにした。

大阪に引っ越しするまでの間、シアトルに留学しているのりちゃんに会いに行く。初めてのアメリカ。着陸する時、この都市のどこかにキアヌ・リーブスがいるんだ・・・と感慨深かった。のりちゃんの弟がロスアンジェルスに居るというので、ラスベガスに行くついでに会いに行くことにする。

シアトルからロス空港に到着後、空港の荷物受取り場所で、荷物が来るのを待っていると、身振り手振りで陽気に話している人がいた。「酔っぱらいがおる~」とおもむろにその人を見るとなんとキアヌ・リーブスではないか!!!

のりちゃんに言うと「まさか~そんなはずないよ」。周りの誰も気づいていない。確かに、服装もボロく無精髭もはえていて、心なしか太っている。しかし、私はファンである。キアヌの声を間違うはずはない。ちょっと曇った感じのこの声絶対キアヌだ!

 「私より英語できるんやから聞いてみてよ」 

「嫌だよ~私そんなにファン違うし~」

声をかけてくれそうにないので、えいやっ!と思い切って、たどたどしい英語で聞いてみた。

「キアヌですか?」

「そうだよ~」

「ファンです!写真一緒に撮ってください!」

「いいよ~」

酔っぱらって陽気になっていた彼は快諾してくれた。 

そして、私の腰に手をまわし、できるだけ近づいて写真に収まるようにしてくれた。

「うううううわーっ、こ、ここ腰に手!!!」 もっといろいろ話したかったが、私の英語力ではどうすることもできず。キアヌは早々に荷物をピックアップして立ち去って行った。

この信じられない、夢のような出来事に、私ものりちゃんも、迎えに来ていた弟くんもしばらく声を失っていた。

 のりちゃんのおじさんがヨシモトで働いているということで、ヨシモトに入りたいと頼んでみたが、この話は消えていってしまった。

心のどこかで無理だと思っていた。オーディションを探すことすらしなかった。あの頃、いやもっと早くにNSCの存在を知っていたらと思う。

高校を卒業した時点で入学すれば、NSC5期生で同期は、吉本新喜劇の座長辻本茂じぃだったはずだ。なんて惜しいことをしたのだろう。NSCに入っていれば、押し入れに隠れ、母と姉をビビらせることもなかっただろう。情報を入手できないということは、可能性が絞ることなんだと痛感する。

いっぱい、いっぱい後悔してきたが、あの時ああしとけば良かった、こうしとけば良かった。という後悔は意味を持たないらしい。その時その時自分にとって最良の選択をしているはずなのだということを聞いたことがある。今は理解できる。

 大阪での一人暮らしはラクではなかった。

近所の歯科受付のバイトだけだと生活が苦しい。アルバイト情報誌で職を探すが、時給の良いバイトはお水。そのお水のバイトも一日でクビになり、トボトボと歩いている時、別のお店からスカウトされた。捨てる神あれば拾う神あり、声をかけてくれたオーナーは、命の恩人であり、本当に感謝している。時給もクビになったところより格段にいい。

 北新地で働くことになった。お酒も飲めないし、人見知りも激しい、気のきいた話題も出来ない、せめてもと経済新聞を購読したり、クビにならないために頑張った。

お酒も飲めず、おべんちゃらもいえない私は、さぞ使いづらかったろうと思う。

着ている服も貧乏くさく「なんやそのかっこは?!ホステスは客に夢を売る商売やねんぞ!」とお客さんに説教されることもあり、トイレに駆け込んで泣くこともあった。

しかし、働く人は様々な事情を抱えて働いている人も多く、そのせいか、オーナーの人柄も反映してか、ママを初め お姉さん方は優しかった。

ママは、洋服を譲ってくれたし、お姉さんはご飯をごちそうしてくれたりした。

接客業は気を使うし、ストレスはあるものの、大阪という土地、北新地が合っていた。

 大阪の地下街を通って、新地に通う。

大阪の地下街は、JR・地下鉄・私鉄の駅が地下で接続し、さらに複数の地下街や百貨店が連結しているためとても広大で地下迷宮みたいで楽しい。そこを縦横無尽に人が歩く。ちょっとした坂の上から人々を見下ろす時、人々をピンに見立てて人間ボーリングをしたくなる。爆弾ボールを持った私が、ボールを転がすところを想像してみる。言いようもなく虚しく、鬱積した思いを抱えていた。私は病んでいた。

 秋が終わる頃、バイトから帰ってきた私は寝るのが惜しくて、深夜放送されている映画を見ることにした。「遠い夜明け」という聞いたこともない映画だった。

南アフリカ共和国のアパルトヘイト問題を扱ったこの映画を見終わったあと、ボー然となり、今まで鬱積していたものを吐き出すように、しゃくりあげるほどに私は泣き続けた。

何が、私の琴線に触れたのか。

自分の叶わぬ思い。

人の世の不条理さ。

自分のことしか考えていない、自分の浅ましさ。

世の中に対しても、自分に対しても、何もかも情けなくなった。

ひとしきり泣いた後。

「そうだ、大学に行こう」と思った。

人の役に立ちたい、それにはあまりに不勉強すぎる。大学に行っていないコンプレックスもあった。

インターネットが普及していなかったので、次の日急いで本屋に行き、受験が出来る学校を調べ、すぐさま願書を取り寄せたのが11月、試験は12月だった。

映画の衝撃が冷めやらぬうちでの行動だったので、迷いはなかった。

国際経済協力コースがある立命館大学に、社会人入学枠があるので、そこに絞り受験。受験科目は、小論文と面接。

 面接では、「発展途上国の人達の役に立ちたい」鼻息荒く言ったところ、面接官から「なぜ日本ではだめなのですか?日本にも困っている人はいっぱいいます」と言われ、「あ、ほんまや・・・・」ぐうの音も出ない。

「そうですね・・・でもよろしくお願いします!」と答えるのが精一だった。これは落ちたな・・・面接を思い出すと、自分のアホさが恥ずかしくて叫び出してしまいそうだった。

 数日後、受け取った合格通知を何度も何度も見た。

 まだまだ肌寒い、桜がちょうど満開の頃入学。大学生活は新鮮さと嫉妬に満ちていた。

昼間は大学、夜は新地で働いた。不景気で首になってもおかしくない状況なのにオーナーは大学に行くことを応援し、私を早く帰らせてくれた。

 親のお金で進学してきている生徒たちが羨ましくてしょうがなかった。しかも、現役で。私は、地頭が悪い上に、年齢もいっている負い目がありひっそりと通う決意をする。親睦会にはもちろん不参加、しかしあとで激しく後悔することになる。

 立命館大学は1学年時クラスがある。担任の先生もいれば、役割分担もある。親睦会で皆、親睦されて和気あいあいなクラスになっていて、私は浮いていた。

この乗り遅れた感じ・・・どうしよう。「ひっそりしようと思ってるし、友達作りに来たんちゃうし・・・」自分から話しかけるタイプでない私は、割り切れない気持ちで悶々としていた。ほどなく実施されたテスト前合宿に参加することで挽回。うまく溶け込めた、いや溶け込みすぎた。自分の年齢のこともすっかり忘れている。

 仲良くなった同級生と「やっぱ大学入ったんやから サークル入らななぁ」とサークル巡りをする。いろいろあり過ぎて、決めかねている時、河内弁がかわいいユキが「うちな~テニスサークルに勧誘されてん、よさげな感じやから今度見学行こ~」と言ったので、見学に行くことにする。他に見学に来ていた子達と挨拶を交わしていると、私を見るなり「むっちゃ浪人しはったんですか?」と質問してきた子がいた・・・30歳と言うと、みんな引くだろうな。むっちゃ浪人っていうと24歳くらいかな?24歳ってことにしとこ、と歳をごまかす。

なんとなく成り行きで、そのテニスサークルに同級生達と入部することになった。

夏休みはサークル合宿に参加し、なんとか親交をはかっていた。

 私はこの歳になるまで、きちんと男の人とお付き合いしたことがなく、人並な生活をし始めると、人並なことがしたくなる。

彼氏が欲しい!欲しい・・・10歳離れた同級生達とキャーキャー言い合いながら、期待に胸を膨らます。しかし、皆かなり年下なので、自分から好きになったり、告白とかはあり得ないな・・・。

言い寄ってくれる、物好きな人がいれば付き合いたい、それが例えどんな人であろうともと漠然と思っていた。

 夏休み真っ只中、サークルの先輩と水族館に行くことになった。

デート?なのか?デートなのだろう。

 私の手を繋ごうとしたのか相手の左手が宙を泳いだのが分かった。なんか、いきなりで嫌だったので、私はすかさず腕組みをしてみたり、カバンを持ち替えたりした。

日は暮れ残り、海沿いに建っている水族館の歩道はライトアップされとてもロマンティクだった。遊歩道を散歩し、途中の階段に座ることにした。男性に対して免疫がなく、潔癖なところがある私は、いきなりこういうシチュエーションになると、背中に何かが走るような、むず痒い感じになる。

 ロマンティクな雰囲気にならないために「暑いね~私、あし、くさいねん!困るわ~」とおもむろに履いていたサンダルを臭ってみたりした。

 夏休みも終わりに近づき、誕生日にどこか行こうと誘ってくれた。

誕生日一人で過ごしたくない病の私は、二つ返事をした。この病になった訳は、8月31日という学生が最も嫌う日に生まれたからである。計画性のない私は、もちろん夏休みの宿題なんてしないので、毎年8月31日は泣いている。毎年、毎年「宿題してない~」と母親に泣きつく日である。

いつだったか誕生日会を催すのが流行っていた時に、私も例外になく誕生日会を開いた。だが、誰も来てくれなかった。それ以来トラウマとなった。

とにかく一人で過ごしたくない。いや一人で過ごすにしても家にいたくないと、熱海に一人行って過ごすこともあった。二つ返事はしたものの、前日に行きたくなくなってきた。高校時代の同級生ふっちゃんに「行きたくないねん。どうしよう・・・」と相談すると、ふっちゃんは「しない後悔と、する後悔やったら、する後悔のほうがいいと思うよ。行っておいで~」と言ってくれ、行くことにした。

 当日福井に行くことになった。ドライブ中トラクタにー激突する事故を起こし、私達は付き合うことになった。ハプニングが起こると恋が芽生えやすいと聞いたことがあるような気がする…。

事故時の対応が紳士だったし、背中から感じる、早い鼓動にキュンとした…。

 あんなに熱い想いを持って入学した大学なのに、本来の目的を忘れてしまい、遅すぎた青春を謳歌していた。私の細胞にまで蔓延しているお気楽さは、そうそう改まることはなかった。

 大学4年時結婚し東京へ。

結婚に対する憧れは、小さな頃からなかった。

自分の気に入らないことがあると、母や私に暴力を振るう父を見てきたから。結婚するならお父さんみたいな人とは絶対したくないと思っていた。

しかし、私は完全に舞い上がっていたので、そこの所を冷静に判断する目を持ち合わせていなかった。付き合った人が、ロクでもない奴だったら、身も心もボロボロになっていただろう。たまたま、最初に付き合った人が良い人だった。これは奇跡だ。本当にラッキーだった。きっと今までの人生、辛いことが多かったけどへこたれなかった私への、神様からの最高のプレゼントだったに違いない。

 結婚当初、アルバイトはしていたが、二人の収入が少なすぎて、アパートの入居審査にパスしなかった。会社からの補助もあるので、そこをなんとかと拝み倒して入居させてもらう。東京は家賃が高く、収入の半分は家賃に消えた。

暫くして妊娠そして流産。

友達も知り合いもいない、旦那は仕事で帰りが遅く、孤独だった。

ベランダから見る空は、雲に手が届きそうなほど近く、息が詰まりそうで、ある時「ワーーーーーーッ」となってベランダでお皿を叩き割った事もあった。

 結婚後も、このままではいけないという焦燥感が常につきまとっていた。自分は何のために生まれてきたのだろう。生きる意味とは何なのだろう。自分探しの旅が始まる。

 派遣で働いたり、国際協力NGO団体でバイトをしながら、占い、スピリチュアル、自己啓発セミナー、これはと思うあらゆるものに手を出す。表現したい欲求からフラダンスにハマった。

 料理教室に行っても、フラダンスの教室に行っても「あなたは何ができるの?」「何か特技はある?」と聞かれた。何もないから教室に通っているのに・・・何故かそういう質問をされる。イギリスでも聞かれた質問である「あなたは何をやっている人なの?」

 私は私を語るものがない。

 何もないと生きている価値がないように思えてくる。

 東京の生活にも馴染めず、何もやる気がでない・・満員電車が怖くなってくる・・。軽い鬱になってしまい、仕事の出来ない状況からのあせりから、株に手を出して大損。脂汗の出る状態が続く・・過食に走り、家にいる間ずっと何かを食べていた。食べている間は何も考えなくていい。後悔に押しつぶされそうになる。鬱症状もひどく、私ダメかも・・と思っていた時、リトリートに参加。その後、座禅、瞑想に打ち込んでいく。

 京都の奥深い丹波に瞑想センターがあり10日間、携帯もノートも本も持ち込み禁止。テレビもラジオもない所で誰とも口を聞かず、ひたすら瞑想をする、瞑想会に参加。

暑い夏で、京都市内は過去最高気温を記録していた。

クーラーもない部屋で、1回1時間の瞑想の間は決して動いては行けない。食事とトイレとお風呂と寝る時間以外はひたすら瞑想する。足は痺れ、意識は朦朧としてくる。

人と全く口を聞かなくて良いというのは心地よかった。

 終了後、参加者達と話していると、「今陶芸の学校通ってるねん。おすすめやで」と言ってきた女性がいた。私が生まれ育った、伊賀上野は伊賀焼の産地である。実家には伊賀焼の壺もあったので、馴染みはある。

 「これだ!」

早速、彼女が通っているという愛知県にある学校まで見学に行く。職業訓練校でもある窯業学校は競争率も高い。デッサンの勉強と、学科の筆記テストのため数学と国語の勉強をする。1年の準備期間を経て無事入学。

 陶芸の世界は奥が深い。土を練るのに3年、ロクロを習得するのに10年かかると言われている。職業訓練校の1年では、どうにもならず、更に勉強するために窯業の専門校に行くことにした。

 先生からは「何を今さら」と言われ、明らかな差別や嫌がらせを受けたり、必死になれば、なるほど鼻で笑い「そない頑張らんでも・・・」と言われた。

中年の私が若者に混じり、目をギラギラさせていたのはある意味不気味だったのかもしれない。

生徒の悪口を、他の生徒の前で平気で言うような教師に何度泣かされただろうか。威圧的な教師で、ヒットラーのようだった。2年の勉強期間耐えられるのか自信はなかったが、同じ思いを持つ仲間が居たからなんとか頑張れた。自由さのかけらもない、息苦しい教室から抜け出し、泣きながら卒業制作を作った。

なにくそという思いが集中力を生み出し、作り上げた作品は、物をつくるということの片鱗に、ほんの少し触れた気がした。この2年間を思うと、まだ心がざわつくが、感謝している。

 卒業後、今にも2階の床が抜けそうな、古い蚤小屋を改装した共同の貸し工房を借りることにした。愛知県の窯業地で、貸工房は珍しくはない。家賃は高いが、窯や道具を貸し出してくれるので、ありがたかった。

畳2畳分が自分のスペースで、肩を並べて皆それぞれの作業をする。専業の先輩方は個室を借りていた。夜遅く行っても、朝早く行っても、誰かが作業をしている。私も頑張ろうと励みになる環境であった。

木で出来た急な階段は、滑りやすく 一度頭からすべり落ちた時はヒヤッとした。出来上がった作品を、外の窯場に持っていくために、その階段を何度も往復する。

 工房にある共同の電気窯は、ボロボロで、焼成中に幾度となく止まった。

そのたびに、一度窯から生焼けになった作品を取り出す。窯に作品を詰める窯詰作業に1時間かかる時もあるので、うんざりした。

 急いで作品を仕上げなければならない時、午後8時に窯は止まった。締切がある作品だったので、慌てて知り合いに電話し、窯が修理できる窯屋さんを教えてもらい電話した。窯屋さんは、家でくつろいでいたにも関わらず、面識もないのに来てくれた。

 心底、自分専用の窯が欲しかった。

そう思い続けて、2年が経ち、家を探すことにした。

恐らく終の棲家になるであろう、その家の場所をどこにするのか、決めかねていた。

窯を購入すると、そう易易と引っ越しは出来ない。

夫の職場は東京から広島に変わり、また転勤があるかもしれない。次の転勤は、大阪か愛知県か。そんなあるかもしれない転勤を待ってはいられない。夫の母親も、私の母親も関西圏在住。大阪は大好きな街であるし、友人も大阪在住者が多い。

 関西近辺を探すが、しっくりこない。いろいろ考えた末、広島県で探し始めることにする。しかし、土地のことは全く分からない。希望条件は、景色が良い所、海が望めればなお良し。

不動産屋に相談する。

「景色?ですか?」

「景色なんて3日もしたら飽きるでしょ」と言われ、どこも「後で連絡します」と言われたきりであった。

 もうこうなったら自分で探すしかない。毎日パソコンにかじりついて物件を探す。頭がボーッとしてきて、目がチカチカするが止められない。

 広島は市街地を中心に、取り囲むようにして6つの川が流れており、市内は土地が少ない、よって高い。むちゃくちゃ高い。東京と変わらないと思えるくらい高い。市街地をドーナツの穴に見立てて、半径10キロ、20キロ、30キロと範囲を広げていく。ドーナツが円盤になっていく。海が見えるかどうかは、ネットに記載されていないことが多い。

 いっそ、街なかの極小住宅で便利に過ごすか、マンションなら海が見える所は多いかも、ゆっくり暮らしたいなら山奥でもいいかと思い始めたり、物件を見れば見るほど混乱し、無意識に消去法をしている「いやいや消去法って、そんな消極的な方法はあかん!」と我に帰り、振り出しに戻ったり・・・。

 現地まで気軽に行けない分、家探しは難航し、1年以上過ぎ、焦っていた。

現在入居している、貸工房は 取り壊しが決まっていて退去しなければいけない。焦るあまり、猫の額ほど海が見えるというだけで、決めてしまいそうになっていた。

見つからない、見つからない・・・もう諦めモードになり、目からは火花が飛び散り、頭から煙が出ていたので、暫くパソコンで検索することを止めていた。

 探すのを諦めてから1ヶ月ほどが経ち、ふともう一度探してみようと思い調べ始めると、「展望良好」という文言に、小さなボヤけた外観写真一枚だけの物件が目に止まった。

 「ここだ!ここに賭けるしかない」今すぐ購入してもいいと思えるほど、今まで見てきたどの物件よりも安かった。

現地を見に行った夫は良い感じだと言っていたので、

「もう契約してきてよ。愛知県から見に行く新幹線代もったいないし」

「ずっと住む家になるんやから、そこは見ておいたほうがいいんちゃう?」

「それも、そうか・・・」と見に行くことにした。

 

田舎の土地を大根を買うかのように、気安く購入するという記事を読んだことがある。

「いくらなんでも、そんなことないわー」と思っていたが、大根を買う時の方が迷うくらいだった。

現地に着くや否や「ここにしよう!」と即決。

物件の内覧もしてなかったので、不動産屋さんはびっくりして「と、と、とりあえず中を見てください」と言った。

とにかく景色が素晴らしい。来るまでの道中も、気持ちが良かった。快晴だったことも大きい。

 不動産もご縁だ。タイミングを逃してグチグチ思っていたり、金額が合わなくても無理して、身の丈に合わないことをしようとしたり、迷走している中パッと出会った。この巡り合わせも奇跡的だった。

時間とエネルギーを注ぎ込み、執念を持って望んだから与えられた、神様からのプレゼント。

 半世紀生きてきて、ようやく手に入れた家と工房。

私に染み付いた放浪癖に、終止符を打つ。

人生のカウントダウンも始まり、楽しむことを楽しみたいと思うものの、やはり何かに焦っている。これは性分なのかもしれない。

 神様は頑張ったものに、プレゼントをしてくれる。そうは言っても、頑張りたいのに頑張れない時もある。頑張っている人が、眩しすぎて、直視出来ないときもある。

頑張りは人それぞれ、幸せも人それぞれ、プレゼントも人それぞれ。

流されないように、惑わされないように、自分の心の声に耳を澄ませる。

 

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