8月6日が来る度に、実家の近くに住んでいた年金暮らしのじいちゃんばあちゃんを思い出す私。山田だったか、山下だったかで、私は、その二人を「山じい」と「山ばあ」と呼んでた。私は、山ばあが好きで、いつも学校が終わったら山ばあのアパートに遊びにいった。山じいは少し呆けていたので話がイマイチわからなくなってたけど、山ばあはまだしっかりしてて、戦後の広島市内で助産婦をしていた頃の話をよく私にしてくれた。私の中で唯一、戦争を知ってる大人だった。
原爆の後生まれた子供は、顔の一部がない、足が変形してる、手がくっついてる子なんてまれにいて、それはそれは酷いものだった。産み落とすたびに母親のすすり泣くこえが聞こえたよ。
その中には、人間とは思えない姿をした化け物みたいな子も沢山いてね。そんな子は、体が弱いから5分放置すればすぐ息を引き取った。だから、私はいつもそういう子がほっといたら死んじゃうって分かっていながら放置したんだ。息をしてないのを確認したら、私はその子を包帯でぐるぐる巻きにして、ワタを入れ子供の形にして母親に抱っこさせたよ。母親には死産だったよと伝えてね。母親はおいおい泣いたけど、私はそれで良かったんだよと自分に言い聞かせる毎日だった。
自分を正当化させたいんじゃなくて、ほんとにそうするしかない時代だった。
自分達が生きていくのも危うい時代だったから。
助産婦をしてるとね、この子はあとどのぐらいの命か、健康状態を見ればなんとなくわかるもんでね。だから悲しい思いをするのは私だけでいい。こんな怪物を産み落とした現実を母親に知らせる必要はないってね・・悪いのは母親じゃない、私なんだって。
私はいつもそんな気持ちで懺悔してたんだ。
それぐらい酷いもんだった。
でもね。今こんな幸せな時代になって、ふと考えるんだよね。
私のやったことはほんとに正しかったのかね。。って。
山ばあは、いつもその話をする度涙目になった。
その度、私はいつも山じいに、山ばあを泣かせたな!と無実の罪を着せられて怒鳴られた。
でも、後悔を隠しきれない山ばあが切なくて可哀想でならなかった。もしかしたら山じいも呆けてはいたが山ばあの気持ちがわかっていたのかもしれない。
5年前山ばあが亡くなった知らせを聞いたとき、正直私はようやく山ばあも幸せになれる日が来たなと思った。
山ばあが抱えていた罪の意識や、自責の念からやっと解放された日。
どんな意味を持ってしても、人の命を殺めたことに対する山ばあの懺悔は一生続くもので、それと向き合う度に山ばあはいつも苦しんでいた。
多分、世の中が幸せになればなるほど、山ばあには、生きにくく、苦しかったに違いない。
テロの被害は、テロよりもその後遺症の方が大きいのと同じで、多分戦争の被害者は、ほんとは、その後に生き抜いた山ばあみたいな人達を言うんじゃないかな。と思う。
8月6日 原爆の日。
山ばあ、悪いのは山ばあじゃないよ。
悪いのは戦争だよ…
どうか、山じいと山ばあが天国で幸せに暮らしていますように…。