彼は、きり子にできるだけきれいに死んで欲しいと思った。
できれば、かつて目にしたことがある「世界でもっとも美しい死体」として知られる女性のように。
眠るように静かに目を閉じ、手袋をはめた指を胸のあたりに休ませ、両石を踵のところで交差させた女性。一九四七年五月、アメリカのライフ誌に掲載された有名な写真だ。
もっとも、摩天楼の頂上から飛び降りた彼女の肉体は、その下にあった黒塗りの車の屋根を押し潰し、その奇妙に捻れた車体は、めちゃくちゃになった彼女の人生そのものを表していたが。
彼はきり子に、そのように死んで欲しかった。もとより、きり子がどのように死ぬかを決めるのは彼の仕事ではない。しかし彼はパートナーに、その最後の瞬間、そしてクライマックスにおいて美しくあって欲しかった。
きり子は、ベッドの上に仰向けに倒れ、両手を天に向けて差し出し、そうして息絶えた。
彼女の魂と入れ違いに部屋に入った彼は、死体を見て嘆息し、傍らに置かれていた、彼女の手紙を取り上げて、声に出してそれを読んだ。
――愛する方へ。
幸せには、ある種の旋律があるのだと、あなたが教えてくれたのは、いつのことでしたでしょうか。それは、春の光のように暖かく、風にそよぐレースのようにふんわりとして、聴く人の心を包み込んでくれるものだと。
私はまだ幼過ぎて、あなたの言う事が半分もわかりませんでした。けれども、今になってみれば、その旋律は、片時も休むことなく、絶えず私の意識の底を流れていて、今も流れ続けているのだと確信できます。
星の宴であなたと出逢ったときから、いや、それよりもずっと前に、あなたと私が、この地上での生命を越えた遥かな、非時間的な次元で宿命付けられたときから、ずっとそうだったのです。
人は、過去という時間は、もう存在しないと言います。けれどもそれは正しくないことを、私は知っています。過去は、現在や未来と同じように、私たちの集合的な魂の物語の中に存在するのです。十年の時も、四十億年の時も、同じように。幸せの旋律は始源から鳴り続け、永遠に消えることはありません。
愛しい方。お別れはひとつの幻想です。それは、私たちから幸せを奪うことはできないのです。私は、あなたとともに永遠に生きます。幸福の旋律に、耳を澄ましながら。
彼は手紙を置き、空の彼方を見遣る。
幸福の旋律――、まさに、そのメロディが、彼を取り巻いている。
赤い砂漠を、三つの月が照らす。彼は、女の亡骸を抱く。甘い旋律が、やがて壮大な音楽となって空間を揺るがして響き、四方八方から眩い光が、抱き合った二人の若者の体を照らす。そして、すべては、青黒い闇の中へと消えていく。
◆◆◆◆◆◆
ステージに明かりが戻り、空席の目立つ観客席から起こったパラパラという心細げな拍手に深々と頭を下げて応えたあと、再び暗転するのを待ち、「テムジン」こと玉垣秀雄は、他の役者たちと一緒に客を見送るために小屋の出入り口に向かった。きり子はベッドに倒れ込んだときに踝をテーブルにぶっつけたようで、歩く時、ああ痛っ、と言って舌打ちをした。
冷え冷えとした空にひとつだけ月が浮かび、風は冷たかったが舞台で火照った体には心地よかった。
「二十五人か。まあ、悪い数やないな」
悪の権化、スビドゥラ星人を演じたツーやんが隣でつぶやいた。
「半分は身内だけどね」
テムジンが応じた。
客は三々五々、芝居小屋を出てテムジンたちに会釈したあと、夜の街へ消えていく。
三か月の稽古と二日間の本番を終えた楽日の最終公演。
あとは打ち上げでひたすら飲むだけだ。
そして、その後は、また数日間、途方もなく空虚な気分に包まれる。
バイトをして、パチンコを打って、次の芝居の打ち合わせをして、バイトをして、パチンコを打って、そうして日々が過ぎ去っていくのだ。
小劇場を活躍の場としているテムジンのようなアマチュア役者は多い。だが、彼と違って、多くが東京をねぐらとしている。そして、東京の役者とテムジンたち地方の役者の違いは、東京だと、万に一つ、あるいは百万に一つ、あるいは、米俵に火箸を突っ込んで、その中に一粒だけ入った黄金の米粒を射抜くぐらいの確率で、演劇を職業にできる可能性があるのに比べ、地方の役者には、そういった機会がゼロだということだ。
「商業演劇に出来んことを、好きなように演じてたらええんや」
テムジンの先輩たちは、そんな風に言い、実際そんな風に生きている。そもそも、今回の芝居の配役名一覧を見ても、「テムジン」、「ツーやん」、「タンゴのきり子」、「ポイポイ」など、芸名の付け方からして、メジャーになろうなどとはハナから考えていないのがわかる。
しかし、とテムジンは考える。
それでいいのだろうか。こんな、糸の切れたタコのような人生で、本当にいいのだろうか。
「タマちゃあん」
いきなり耳の傍で低く囁かれて、テムジンは反射的に飛び退いた。
傍らに、いつの間に忍び寄ったのか、黒ずくめの格好をしてカウボーイハットを被った、背の高い男が立っていた。仏光寺山水という、初老の男だ。
「今回のお芝居も、とてもよかったわよ」
テムジンは、「うス」と軽く頭を下げて謝意を表す素振りをした。いい齢をした男のオネエ言葉は、常に何か含みがあるようで苦手だ。
「で、公演の後お疲れでしょうけど、ちょっとした即興芝居、やってみない?」
「即興……、ですか?」
「そう。でも、ギャラが出るのよ。ほんのちょっとだけど」
即興演劇と聞いて、テムジンは興味をそそられた。実験的なものは嫌いではない。
「何だか面白そうですね。じゃあ、山水さん。打ち上げで、じっくり聞かせてください」
「それがねえ」
山水は密談をするかのように辺りを注意深く見回した。すぐ傍らに、スビドゥラ星人を演じたツーやんがいるが、彼は客と話し込んでいて、山水やテムジンにはまったく注意を払っていない。
「今すぐなのよ」
「今すぐ?」
山水は、『先代萩』の奥女中が見得を切るようなポーズで顎を引き、二度頷いてみせた。この男は、たまに芝居の台本を書いたりもするが、演劇にどっぷり漬かっているわけでもなく、あちらこちらで何だかわからないような請負仕事をして回っているようだ。酔うと劇団の女優を片っ端から口説いたりするので、単にこういう喋り方をするだけのスケベ男なのかも知れない。
「今すぐは無理っすよ。だって、これから打ち上げですから」
山水は顔をぐっと近づけ、これ以上ない程真剣な表情でテムジンを見据えた・
「人ひとりの生き死にがかかってるのよ。お願いだから、協力してちょうだい」
山水の吐く息は屁のように臭かった。テムジンは時計を見た。これから反省会をやって、すぐに打ち上げだ。
「勘弁してくださいよ。ツーやんじゃ、だめなんですか?」
「だめ。だめだめだめだめ、だめ」
オネエはピンと立てた人差し指を振り、それに合わせて首を横に振った。
「うまくいけば、十分か、十五分ぐらいで終わるわ。そしてギャラは」
山水の掌がぱっと開く。
「五万円。十分で(ぱっ)五万円よ。一分(ぱっ)五千円。悪くないでしょ」
「まじすか?」
「まじす、まじす」
テムジンは再び時計を見た。十分で終わるなら、打ち上げにも十分間に合う。
「どういうプロジェクトなんです? 教えてもらえませんか」
「いいわよ、タマちゃん」
山水は黄色い歯を見せて笑うと、テムジンの肩に腕を回し、<ある男がベッドに横たわっていて、死神が彼の上に覆いかぶさっている>という、謎々のような言葉を耳元に囁いた。
ある男がベッドに横たわっていて、死神が彼の上に覆いかぶさっているの。
石原八郎って名前。浅草かどっかの、売れない役者みたいでしょ。まだ七十そこそこなんだけど、心臓病で、もう、いつ逝ってもおかしくない状態ってわけ。
で、この八郎さんには、一人娘がいてね。あずみちゃん、ていう子。大学で美学やってて、ドクターまで行ったけど、ホント、運のない子なのねえ、滋賀県の小さな美術館でキュレーターに採用されたのも束の間、予算不足で閉鎖されちゃって、今は本屋さんでバイトしてるわ。もう三十七、八になるんじゃないかしら。
八郎さんにとって、あずみちゃんが唯一の心残りなのね。だって、アラフォーで、結婚もせず、定職にも就かずだからねえ。
そこで、あずみちゃんは、せめて父親が亡くなる前に、自分が立派な男と婚約しているってところを見せて安心させてやりたいわけよ。
とはいっても、実際には婚約なんてしていないわ。だから、ここは一つ、演技力があって、そこそこイケメンで、頼り甲斐のありそうな人物に一芝居打ってもらってさあ、この死にゆく八郎さんを大往生させてあげようって、そういう話なの。ね、ツーやんじゃあ、務まらないって、おわかりでしょ。花婿があんなカメみたいな顔じゃあ、八郎さん成仏できないわ。
「それって、詐欺になったりしませんか?」
山水は、詐欺どころか、これ以上ない人助けだと力説した。うまくいけば、遺族に感謝されるだけじゃなくて、テレビの仰天ニュースに取り上げられるかも知れないとも言った。
「テレビなんて、出なくていいですけど。でも、人を騙すんでしょう」
山水はため息を吐き、嘘も方便とは、こういうときにこそ使う言葉だとオネエ言葉を荒げた。
「四の五の言ってるうちに、八郎さん死んじゃうわよ。間に合わなくってもいいの? 死にゆく老人を落胆させて、あずみちゃんがこれから先の人生を、スティグマを抱えて生きていくことになってもいいの? あなたそれでも男? あなたそれでも役者? いや、役者である前に、あなた人間? ゴドーがどうとか、訳の分からない芝居ばっかり年中演ってて、世の中の役に立ってんのかしら。一度くらい、人の役に立つ芝居をしないさいよ。もしあなたが人間ならば、するかしないか選ぶ自由はないわ。来るのよ。この芝居をお演り!」
何にせよ、断言する人間は強い、とテムジンは思った。それが宗教であれ政治であれ、断言ほど人を動かすものはない。芸術は、常にアンビバレントなものの上に成り立っている。そこには命令も断言もなく、果てしないクエスチョン・マークの連続があるだけだ。
「何をごちゃごちゃ考えているの。さあ、行くわよ」
山水はテムジンの手首を掴み、いやがる驢馬を市場に曳いていくように、歩きだした。
石原あずみは、病院の休憩室で待っていた。
丸顔で色は白く、黒髪をおかっぱのように散切りにして、黒縁のメガネをかけていた。山水がテムジンを紹介すると、深々と頭を下げ、よろしくお願いいたします、と小さな声で言った。
テムジンたちは、あずみに先導されて、ひと気のない病院の廊下を歩いた。古ぼけた、幽霊の出そうな個人経営の病院だった。廊下の突き当りの病室の扉が半分開いていて、明かりの下に何人かの人影が見えた。
病室の中央には、いくつもの管でつながれて横たわる、痩せた男の姿があった。髭は伸び放題で、薄くなった頭髪は乱れている。目を閉じて、酸素吸入器の下で辛うじて息をしていた。周りにいるのは親族だろう。テムジンたちが入室すると、みな控えめに、というか、どこか気まずそうに目礼を投げて来た。山水は、いつの間にか姿をくらましている。
「お父さん」
死にゆく男の耳元で娘が囁いた。
「お父さん、わかる? あずみです」
男が目を開く。瞳は半分ボイルされた魚のそれのように、灰色に濁っている。
「あ、あずみ」
親族たちの間からすすり泣きの声が漏れた。
「お父さん。会ってほしい人がいるの。この人」
石原あずみは、黒メガネの下の二重まぶたの大きな目をテムジンに向けた。
「その……。シンイチさんよ。私たち、結婚しようと思って、お父さんの承諾を貰いにきたの」
何で「シンイチ」なんだ、と思いながら、テムジンは、今、自分が、このベタなシチュエーションのもとで芝居をしなければならないということを思い出して息を飲んだ。
「結婚? あずみ……、け、結婚、す、するんか?」
瀕死の男は、うつろな目をテムジンに向けた。
「玉……、玉木シンイチです。はじめまして」
あずみの父、石原八郎は、無表情のままテムジンを見据えた。品定めをしているのだろうか。やがて、老人はベッドから体を起こし、酸素吸入器をむしり取ると、顔をテムジンの方に近づけようと動かした。傍らにいた看護師や親族たちが、あわてて八郎を支える。
「あ、あんたさん、あ・ず・みを、貰うて、く・れ・ますのンか?」
「お父さん……、と、お呼びしても、よろしいですか?」
テムジンは、八郎老人のほうに屈みこんだ。老人はテムジンとあずみを見比べ、点滴のチューブの入った腕を動かして、細い節くれだった人差し指をテムジンに向けた。
「え、え・か、え・か、えか…」
「絵描きとは違うんよ、今度は」
あずみが諭すように父に向かって囁いた。
「シンイチさんはねえ、IT企業の社長さんなんよ。すごいお金持ちで、六本木ヒルズに住んではるの。堀江さんとも、自治会でしょっちゅう会うてるんよ」
「だ…、誰・や・て」
「お父さん!」
テムジンが父娘の会話に割って入った。
「僕は、ぜったい、かずみさんを…」
「あずみです」
「あずみさんを…、何があっても幸せにします。きっと、世界で最も幸せな花嫁にしてみせます」
石原八郎は、死にかけとは思えないぐらいの力強さで、いきなりベッドに半身を起こし、テムジンの手を両手で掴んだ。点滴のチューブが外れて、液体が飛び散った。
「あ、あ・ず・みを嫁がせるんやったら、あんたみたいな、人が、ええなと、いっつも、思ってましてん。絵描きは、あかん。役者は、もっとあかん。あんたさんみたいな、ま・と・も・な仕事をしてはる人に見初められて、この娘は、きっと、幸せになれます。イチローさん」
「シンイチです」
「もったいない、もったいない……。こんなごみ溜めの、カスみたいな家の娘を、嫁にしてくれるやなんて」
「やめて下さい。もったいないのは、こっちのほうです。きっと幸せにします。結婚式は、ホテル・オークラの、一番高い会場で挙げようと思っています」
「の、の・り、の・り…」
「そう、ノリカが挙げた大ホールです。あの後、すぐ別れましたが」
「い、いつでっか? け・結婚式は、い・つ……」
「来月の二〇日です」
我ながら、よくこんな出まかせを言えるなと思いつつ、テムジンは、デタラメな話を次から次へと展開した。
「新婚旅行は、ハワイで一番のホテルに泊まります。そして、新居は、今度新しく建つ、六本木ヒルズよりも大きい、八本木ヒルズの最上階を予約しています。ねえ、お父さん。どうか元気になって、僕たちの結婚式に出席してくださいね」
親族の間から、再び嗚咽が漏れた。
「じゅうぶん、ですわ……」
八郎はテムジンの手の甲をカサカサの手でさすって言う。
「もう、これで、なんにも、思い残すこと……、おまへん。ワシの人生……、辛いことばっかりで……、ええことなかった。そやけど……、最後の最後に娘が幸せになってくれた。これで……、死ねます。安心して……、あの世に行けますわ。おおきに、おおきに……」
テムジンは老人の手を強く握り返しながら、壁の時計に素早く目を遣ったあとで、老人の耳元に囁いた。
「お父さん。僕は、物心ついた頃から、親がいませんでした。ですから、やっとお父さんと呼べる人が現れて、これから親孝行がしたいんです。何か食べたいものはありませんか? どこか、行きたいところはありませんか? 有馬温泉に行きましょう。神戸肉のステーキも食べましょう。幸せに、幸せに、暮らしましょうね。約束です、約束ですよ!」
テムジンの目から大粒の涙が、ベッドにこぼれた。
医師が呼ばれ、全員が固唾を飲んで見守る中、老人は幸福そうに目を閉じた。時計の秒針が、静まり返った部屋の中で時を刻んでいく。あとは、医師の最後の一言で締めくくられるという、芝居によくある展開だった。しかし、これは現実だ。テムジンは、これまで舞台以外で人の死に立ち合うという経験をしたことがなかった。さっきまで話をしていた、この老人の中から、何かが失われるというのか。死は、厳かなものだ。
十分が経過した。老人の呼吸は不規則だったが、まだ続いている。
医師は、少し様子を見ましょうといい、親族たちは休憩室へと去った。あずみとテムジンだけが、老人のそばに付き添っていた。二人とも無言で、顔を合わせることもなかった。
入室してから一時間程経ったとき、ようやく、あずみがテムジンに目配せし、二人は部屋を出た。
「ありがとうございました。もう、大丈夫です」
メガネの下の目を伏せたまま、あずみは言って、ハンドバッグから封筒を取り出した。テムジンは、どうも、とだけ呟いて封筒を受け取り、気恥ずかしく、後ろめたい思いを抱えたまま病院を出た。
その夜、彼は打ち上げで、つとめて陽気に振る舞い、きり子を相手にどうでもいいことを延々としゃべり続けて、意識がなくなるまで飲んだ。
◆◆◆◆◆◆
一週間後、夜勤のバイトが終わり、間借りしている木造の古い民家の一階で熊のように眠ったあと、起き抜けのコーヒーを飲んでいるところに電話が鳴った。
「タマちゃん。今、いいかしら」
目覚めてすぐに聞きたい種類の声ではない。
「あの芝居さあ、続編があるのよ」
「何の芝居っすか?」
「石原八郎さんよ」
テムジンは少し考えて、ようやく臨終の老人を思い出した。
「まだ生きてんのよ」
「まじすか?」
「あれからどういうわけか元気になっちゃって、ピンピンしてんのよ」
「それは……、よかったですね」
「そうかしら。あのまま逝ってくれてれば、あずみちゃんも今頃、自由に暮らせたのにねえ」
「彼女は?」
「お父さんの看病に付きっきりよ。退院して自宅療養になっちゃったから。おかげで、仕事もできないって、嘆いてるわ」
「それで、続編っていうのは?」
「あなた、婚約者でしょ。親孝行するって、約束したんでしょ」
「じょ、冗談言っちゃ……」
「神戸肉のステーキが食べたいんだって」
テムジンの脳裏に、ピンク色をした霜降り肉の断面の映像が浮かんだ。
「六時に、『煉瓦館』に予約を入れてあるわ」
「ちょっと待って下さい。勘定は誰が払うんですか?」
「そりゃあ、タマちゃん、あなたよ。お金持ちの社長さんなんでしょ……、と言いたいところだけど、大丈夫。先方が、ちゃんと払ってくれるわ。あんたは、ただ婚約者の芝居をしながら、ご馳走になればいいのよ。悪くないでしょ」
たしかに悪くない。と、いうか、条件としては最高だ。この一週間、松屋のカレーしか口にしていない。先方というのは、親戚一同ということだろうか」
「それからさあ、ハイヤーを借り切って、迎えに行ってあげなさいよ。服装も、それらしくしてね」
それは困る、とテムジンは抗議の声を上げた。綻びのない服も、穴の空いていない靴も、この家にはない。いくらIT企業の社長がカジュアルな服装をしているといっても、さすがにこんな古着屋のキズ物みたいな服ばかりだとアウトだろう。
そんな彼の困惑をよそに、山水は電話を切り、静寂に閉ざされた部屋の中でテムジンは時計を見た。もう午後四時を過ぎている。タクシー会社に電話をすると、ハイヤーは事前予約が必要とのことだったので、とりあえず普通のタクシーを使うことにした。料金は先方に払ってもらおう。それからテムジンは、劇場に衣装を借りるために出かけた。
◆◆◆◆◆◆
石原八郎の住居は、国道四十三号線の南、海のすぐ間際にある震災復興住宅だった。
公道でタクシーを待たせて、八郎の住む棟の九階へエレベータで上がった。ドアのブザーを鳴らすと、あずみが戸口に現れた。少し化粧をしていて、明るいブルーの服に、ネックレスを付けていた。やはり目は伏せがちで、テムジンの顔をまっすぐに見ようとしない。
家の奥から、外出用のコートを着込んだ石原八郎が、廊下の手すりにつかまりながら、笑顔でゆっくりと歩いて来た。
「お婿さん、ご苦労さんです。忙しいのに、えら、すンまへんなあ」
老人の回復ぶりは驚くべきものだった。髭も剃り、髪もきちんと撫でつけているため、一旦は死の淵まで行った人間とは思えないぐらい元気そうだった。
タクシーの中でも老人はよくしゃべり、あずみが生まれてから、成長していった過程を事細かく描写し、時折あずみが恥ずかしがって止めさせようとしたが、聞かなかった。
「煉瓦館」は、創業70年の老舗で、元町駅から南へ下がったところの、アジア的混沌とも言うべき雑居ビルの五階に店を構えていた。
テムジンたちが着くと、街を見下ろす窓際の席に通され、ウエイターが肉の部位と焼き加減についてオーダーを聞きにやってきた。テムジンは、牛と魚の違いぐらいは判ったが、牛肉の部位となるとさっぱりだった。
「この店で一番人気のあるものを」
鷹揚に構えて、彼はメニューを開きもせずにウエイターに渡した。あずみも、黙って頷いた。
「ちょっと待ってや」
八郎老人は、ウエイターの手からメニューをひったくり、指の先を唾で濡らしてページを開き
「イチボ肉二〇〇グラム、ミデアムレアで。それから、ワサビ菜とルッコラのサラダ、トリュフ添え。
ほんで、ワインはやねえ」
老人の手がワインリストをめくる。テムジンとあずみは、怯えたような表情でその様子を見つめた。
「ああ、これしょ。ええと、ボルドー、グラン・クリュ、シャトー……」
「お父さん、お酒は駄目でしょ」
あずみがワインリストを父の手から取り上げようとするが、父は抵抗した。テムジンが、そっと娘を制して、「好きな物を飲ませてあげれば」と口添えした。
一瞬、あずみが、今までに見せたことのないような形相でテムジンを睨み付けた。
料理が運ばれてくると、八郎は旺盛な食欲を見せた。テムジンも、これほど旨い食べ物は今まで口に入れたことがなかったので、二〇〇グラムの肉を、ほぼ一瞬で平らげてしまった。あずみだけが、ゆっくりと、一口ずつ味わいながら悲しい顔で食べていた。ワインが男たちを饒舌にした。八郎はテムジンの背中を愉快そうにぽんぽん叩いて、さいしょは「婿はん、婿はん」、次に、「婿よ、婿よ」と呼び、さらには「おい倅」と話しかけ、テムジンも赤い顔をして、「お父さん、お父さん」と応えていた。
食事が済み、タクシーに乗り込むと、八郎は急に結婚式場が見たいと言い出した。
「車の中から見えるわ」
あずみは、まだ暗い表情をしていた。
「いや、違うねん。中に入って見たいと、こない言うとうねん。なあ、婿はん、あんた、相当金払うたンやろ。中ぐらい、見せてもろてもホテルは文句言わんのとちゃうか。減るもんやなし」
テムジンは、一旦お茶でも飲んで酔いを覚ましましょうと、タクシーを道路沿いの喫茶店の前に着けて二人を下ろし、席に着かせておいて、山水に電話をかけた。なかなかつながらなかったが、やっと電話口に出た山水に、事のいきさつを説明すると、山水は、一時間程度時間をかせぐことができたら、誰かを支配人に仕立て上げて、ホテルのロビーで待たせる手筈を取ると約束してくれた。
喫茶店で談笑したあと、待たせておいたタクシーに乗り込み、三人はホテルへ向かった。
ロビーに入ると、鼈甲のメガネをかけて口髭を生やした、森繁久彌のような人物が、立派な黒服を着てにこやかに彼らを出迎えた。テムジンは、それがツーやんであることに、しばらく時間が経ってから気付いた。
「これはこれは、社長、もう少し早くお知らせいただければ、えー、ご休憩できる部屋をご用意いたしましたのに」
「いいんだよ、支配人。こちら、僕のフィアンセのお父さん。式場を下見したいんだって」
ツーやんは一行を先導し、堂々たる歩きぶりでロビーを横切り、すれ違ったコンシェルジェの女性に何かすばやく耳打ちするような小ネタまで披露しつつ、エレベータに乗り込み、屋上に上がった。
チャペル、宴会場、日本庭園と、ツアーは、かなり時間がかかったが、八郎は疲れた様子も見せず、偽支配人の嘘八百の説明に、いちいち頷いていた。
一通りホテルを見終わったあと、テムジンたちはツーやんに礼を言って再びタクシーに乗り込み、八郎の住む公団住宅に着いたときには、もう夜の十時を回っていた。
きょうの勘定は、すべてあずみがこっそりカードで払っていたのを、テムジンは知っていた。団地の方へ八郎の手を取って歩かせながら、テムジンは、タクシーのルーム・ライトの下で、あずみがクレジット・カードを出すのをちらっと見た。本当に、親戚一同で分け合って払うのだろうかと、しなくてもいい心配をついしてしまう。
自宅に着くと、さすがに老人も疲れたように腰を屈めて玄関の手すりにつかまっていたが、それでもテムジンの手を握って、「おおきに、おおきに」と何度も礼を言った。父を奥の間に連れて行ったあと、あずみが戻ってきて、目を伏せながらテムジンに封筒を渡し、お礼もそこそこに戸を閉めた。
前と同じぐらいの厚みがあった。階段の踊り場に隠れて、素早く封筒を開けると、中には千円札が五枚入っているだけだった。前と比べると十分の一だ。しかし、滅多に味わえない神戸ステーキをお腹一杯食べて、ワインまで飲ましてもらったことを思うと、少ないとは言えなかった。
ふと、彼は自分の両親のことを思い出した。弁護士になりたいと言った彼の希望を叶えるために教育を授けてくれた両親の期待を裏切って、アングラ役者などという外道の人生を歩んでいる自分は、何たる親不孝者だろうと考えると、なぜか赤面した。こんな暮らしにケリをつけて、ITの勉強でもするべきだろうか。
そう思いながらも、足は無意識に酒場のほうに向いていた。
◆◆◆◆◆◆
さらに一週間ほどたったとき、山水からラインが入った。
「八郎さんが、また何かしたいことがあるみたいよ。付き合ってあげてね」
そして
「今後は、あずみちゃんと、直接やりとりして頂戴。半月ほどパリに行くから、よろしく・ネ 山水」
しばらくすると、あずみからメールが来た。初めてだった。
「今週の週末に有馬温泉に行くことにしました。玉垣さんのご予定はいかがでしょうか?」
テムジンは、スケジュールを見て、バイトが入っていないことを確認したあと、「了解です」と返事をした。すると、その後、続けてメールが入った。
「車、あります? 父は、お婿さんの運転する高級車で有馬に行きたいと言っています。正直、殺してやろうかと思います」
テムジンは、八郎がワインを注文するのを彼が許したときの、あずみの、あの恐ろしい形相を思い出した。
「車か……」
スマホで、「高級車レンタカー」と検索してみた。安いものならキャンペーン料金で、二四時間二万円弱で借りられることがわかったが、問題は運転免許だった。テムジンは免許を持っていない。運転免許を持たないIT企業の社長なんているのだろうか。
けっきょく、またもや、ツーやんの手助けに頼ることにした。
「あのなあ、この間、お前ら帰ってから、俺、ホテルの警備員に捕まったんやぞ。挙動不審やちゅうて。そりゃそうやろ、黒服来て、胸に「支配人」ってバッジ付けてるねんから。『どこの支配人やねん』と思うわな。『三宮のキャバクラの支配人じゃ』、って言うてやったけどな」
「頼むよ、ツーやん」
ツーやんは十歳ほど年上だが、テムジンはいつの頃からかタメ口で話している。
「太閤の湯の入湯券あげるからさあ。親孝行のお手伝いじゃん。人助けだってば、人助け」
「助けてほしいのは、こっちじゃ」
◆◆◆◆◆◆
愚痴りながらも、当日ツーやんは、それらしい帽子を被り、手に白い手袋までして、黒澤の『天国と地獄』に出て来た忠実な運転手に成りきり、借りて来たレクサスで山道を運転してくれた。
八郎は、ますます元気で、車中でもうすでに缶ビールを口飲みしていた。
「遠足みたいでんな」
あずみがメガネの奥で暗い目をしているのを、彼は視界の端に感じていた。
着いたのは高級旅館だった。廊下はヒノキの匂いがし、歩けば絨毯に足音が吸い込まれて行くようだ。壁一面の窓からは、紅葉した木々の間をせせらぎが流れるのが見えた。
上品な着物を着た仲居さんに案内されて入った部屋は眺望もよく、部屋代は間違いなく高額だと思われた。
「晩御飯は、七時に、こちらのお部屋で召し上がっていただきます」
旅館の部屋食というのを、テムジンはテレビのグルメ番組でしか見たことがない。宿泊施設での食事というのは、プラスチックのトレーに皿を載せてウロウロするものだと思っていた。
「家族風呂に、皆で入るんか?」
八郎は真顔で言った。あずみは真っ赤になり、浴衣と丹前とタオルを持って、さっさと湯に行ってしまった。
「何、怒っとんねん、あいつ」
「まあ、お父さん。折角だから、ゆっくり湯に漬かりましょう」
湯も食事も素晴らしかった。
八郎はよく食べ、よく笑い、よく飲んだ。食事の後、老人はカラオケに行くと言い出した。
「男二人で行って来てちょうだい。私は、部屋でゆっくりします」
あずみは、テラスの籐椅子に座り、真っ暗なガラスの向こうを見つめながら言った。テムジンは、後ろ髪を引かれる思いをしつつ、千鳥足の八郎を補助し、カラオケ部屋へと向かった。
数時間後、飲み疲れ、歌い疲れて部屋へ戻ると、川の字に敷かれた羽毛布団の隅っこに、あずみが障子に顔を向けて寝ていた。
「わしは寝るさかい、あとは若い二人で、ほっこりしぃ」
八郎は、そう言って、あずみから離れた布団にもぐり込んだ。
「耳悪いさかい、声出しても聞こえまへんで」
老人は目を瞑ったまま言った。
テムジンは、しばらくバルコニーの椅子に座って、冷蔵庫にあった、市価の三倍はするビールを飲みながら、父と娘の水入らずの旅に紛れこんでいる楽園の蛇のような自分の立場について、堂々巡りの自問自答を続けていたが、やがて酔いに負けて、父娘の間に身を横たえた。
自分の右隣には、あずみがいた。彼女は目を開き、天井を見つめていた。彼女の瞳が窓から差し込む僅かな光源を受けて、キラッと光るのが見えた。左隣には老父が寝息を立てていた。
家族とは、こういうものなのだろう。やがて老父は消え去り、夫婦の間には子供が寝るようになる。テムジンにとっては、すべて演技だが、他の多くの人々は、そういう日常を現実として生きている。たまらなく悲しい気持ちに襲われ、彼は分厚い羽毛布団の中に顔を埋めた。
◆◆◆◆◆◆
有馬温泉への旅から、さらに一週間が経ったある日、テムジンのスマホにあずみからのメッセージがあった。
「結婚式の日程が迫っています」
そのあとに、汗をかいた丸顔の絵文字が、お決まりのように添えられていた。
「ナンノコトデスカ」
テムジンは、わざとカタカナで返信した。何らかの形で茶化さないと、その現実は恐ろし過ぎた。
「アナタガ チチニ イッタデショ。コンゲツノ 20ニチニ、ノリカミタイナ ケッコンシキヲ スルッテ」
あずみの精神状態も、テムジン同様混乱の極みをきたしていると考えて間違いなかった。
「ソンナコト、言ッタヤウナ、言ハナカツタヤウナ」
テムジンは、テキストを打ちながら体温が熱くなっていくのを感じていた。
八郎が、本気で結婚式に出ることを楽しみにしているとすれば、自分たちは恐ろしい罪を犯していることになる。―-それもこれも、あの爺さんが死なないからだ!
「モウ、イヤ! ワタシハ、モウ、ツカレマシタ」
「すぐ行きます」
そう返事を送ると、テムジンは自宅を飛び出し、自転車に飛び乗った。彼の家から、八郎たちの住む公団住宅までは、くねくねとした坂を下っていけば十五分ぐらいで着く。
団地の自転車置き場に自転車を放り込み、エレベータに飛び乗った。彼女が早まったことをしなければいいが。九階まで上がる途中、テムジンは、包丁で父を刺殺した後、建物のてっぺんから飛び降り、美しい死体となって燃えないゴミの上に横たわっているあずみの映像を含め、あらゆる恐ろしい状況を想像した。
ドアのブザーを鳴らすと、あずみが現れた。テムジンは、彼女の全身をさっと見渡したが、返り血を浴びているというわけではなかった。
「お父さんは?」
そう尋ねると同時に、部屋の奥から八郎の陽気な声が聞こえて来た。
「婿はんか。よう来た、よう来た。今、久しぶりにモーニングを引っ張り出して、ちょっと着てみたんや。昔、加古川の姉の結婚式の折に誂えた服やけど、さあ、あれから肉が落ちたさかい、着れるかどうか……」
あずみは、泣きそうな目をして、無言でテムジンを見つめていた。
「本当のことを、話しましょう。きっと、理解してもらえると……」
テムジンは、それだけ言うのがやっとだった。あずみは部屋から出て、扉を後ろ手に閉めた。空は曇っていて、六甲颪をまともに受ける吹き曝しの廊下は、凍える程寒かった。
「何とかしたいけど、もうお金が残ってないんです。貯金も全部使って、カードローンまでして……」
神戸牛ステーキと有馬温泉で破産する貧乏人というのも悲しいが、そこまでして親を思うあずみの志にテムジンは打たれた。
「じゃあ、形だけでも式を挙げますか? あのホテルの一番安いコースで。役者仲間を集めれば三十人ぐらいは来ます。予算って、だいたいいくらぐらいです? 二十万あれば、なんとかなりますか?」
「二百万ぐらいは……」
「今の話はなかったことにしましょう。ここは、正直にお話しするしかないでしょう。僕に任せてください」
扉に伸ばしたテムジンの腕を、あずみは一瞬片手で抑えようとしたが、すぐに目を伏せ、その手を引っ込めた。
奥の和室では、八郎がやせ細った体にダブダブのモーニングを着込み、鏡を前に苦労してネクタイを締めているところだった。
「何や、チャップリンになったような気分やな」
「お父さん」
テムジンは、八郎の背後から声をかけた。その後ろには、あずみが控えていた。
「何や、婿はん、あらたまって」
振り返った八郎の顔には、優しい笑顔が浮かんでいた。テムジンは、ジャンパーのポケットの中で拳を握りしめた。
「実は、お話ししたいことがあります」
八郎の顔から笑顔がすーっと消えた。彼は、テムジンとあずみをダイニングに誘い、テーブルに着かせた。お茶をいれようと立ちかけた八郎を制して、テムジンが告白を始めた。
自分はITの社長でもなければ、あずみの婚約者でもない。お父さんが好まないタイプのテント芝居の役者にすぎない。今まで嘘をつき通してきて、お父さんには申し訳なく思っている。しかし、すべては臨終の父を安心させようという、あずみの親孝行から出たことであり、彼女の純粋な思いが天に通じたがゆえに、お父さんも今こうして元気になられたのである。また、こんなことがなければ、父娘がこれほど水入らずで楽しい数週間を過ごすことはできなかったのではないか。彼女のような優しい女性には、今にきっと素晴らしい婚約者が現れて、きっと幸せにしてくれると自分は確信している。そういったことを、テムジンは一気にしゃべった。
八郎は、その間、ずっと肩を落として聞いていた。テムジンが語り終わったあと、かなり長い間沈黙が流れた。
「何もかも……、幻やったんか。あずみに婿さんができたのも、夢か」
八郎が口を開いた。消え入りそうな声だった。
「ああ、あのとき、死んどったらよかった」
突然、あずみが立ち上がり、何かに憑かれたように廊下を歩いて表の扉を開け、外へ出た。
一瞬遅れて、テムジンはその後を追った。
吹き曝しの廊下を、手摺壁に沿って、彼女は靴下を履いただけの裸足で歩いていた。右手には六甲連山と麓の街が広がっている。アルミ製の手摺支柱のあるところで、彼女は急に立ち止まり、体を九階の手摺から乗り出した。
あずみは、生と死の境目に立っていた。一歩踏み出せば、彼女の人生は終わる。一九四七年五月のニューヨークで、初夏の優しい光に包まれて死んでいた、あのブロンドの美女のように。
「動かないで」
テムジンは、彼女の背後に立ちすくんだ。六甲山から吹いてくる風がぴたりと止んで、不気味な静けさがあたりを支配していた。
「肩に……、蝶が」
「え?」
あずみは、自分が手摺壁の外側に立っていることに、今やっと気づいたかのような声を出した。
「右側の肩に」
彼女が首を右に動かすと同時に、何か白いものがひらひらと空へ立ち上った。
テムジンは彼女に駆け寄り、手摺を超えて後ろから羽交い絞めにした。二人の体は廊下に転がり、あずみはテムジンの腕の中にすっぽり入っていた。メガネの下で、彼女の黒い瞳は脅えたようにテムジンを見ていた。彼女がまっすぐ彼を見るのは、おそらく初めてだっただろう。
「飛び降りると、思いましたか?」
あずみが、喘ぐように声を出した。
「何というか……」
テムジンは、しばらく沈黙した。倒れた拍子に脇腹をしたたか打ちつけたので、呼吸が苦しかった。
「何が起こっても、おかしくない世の中ですから」
世の中は何が起こってもおかしくない。それは、世の中を作っているのが人間という、何をしでかしてもおかしくない生き物だからだ。
テムジンは、あずみの目を見つめ、そして少し開いた唇を見、再び彼女の目に視線を戻した。
「結婚、しましょうか?」
テムジンの口から出た声は、かすれていた。
あずみは、まだ無表情でテムジンを見つめている。
「ほんとうに、僕たち、結婚しましょうか」
しばらく、あずみは蝋人形のように微動さえしなかったが、やがて、その唇が、そして次に体全体が小刻みに震え始めた。
「変なこと言うようですけど、あなたのことが好きなんです。いや、好きというか、もっとその……、守りたいというか……」
「蝶が、ほんとうに、肩にとまっていたんですね」
あずみの目が、輝きを取り戻した。彼女はまだ震えている。
「ねえ、結婚しませんか?」
テムジンは、もう一度問いかけた。
彼女は目をしっかり見開いて、不思議そうな顔でテムジンを見つめていた。
一羽の白い蝶が、二人の人間の間に一片の花びらのように舞い降りて、あずみの前髪にとまった。
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