「75円切手三枚と、収入印紙800円分です」
「わかりました。ありがとうございました」
通話ボタンを切ると、私は一息ついた。
裁判所に電話をしたのは人生で生まれて初めてだし、もし千円少々でこの書類が受理されるのなら、内容の重さの割にずいぶんと安い気がする。
私が手にした書類は、”名前の変更許可申請書”だ。
名字ではなく、氏名のほうを変えるための申請書。
30年以上、読みづらく伝わりにくいキラキラネームに不便を感じてきたことに加え、この名前で生きていくことがしんどくなった。
名前という、自分が自分であるというアイデンティティの核を失って、私は一体誰になろうとしているのか。
生きているのがあまりにつらくて、この世界に愛されていない気がした。
ただ苦しむために生まれたのかと、ずっと思っていた。
ああ、でも、たとえそうだとしても、私は叫ばすにはいられない。
この世界に私という人間が存在したという爪痕を残すため。
私の苦しみも悲しみも無駄ではなかったのだと。
自分の存在を叫ぶ。問う
身を削って、血を吐いても。
この叫びは、私の喉をつぶすだろう。
けれど、誰かの心に届くだろう。
ならば私は、世界に対して屈服してはいけないのだ。
死は甘い誘惑に見える。いつだってそうだった。でも私は生きてきた。そして生きていく。これからも。
負けるものか。
最後のカウンターパンチを繰り出すまで、私はこの人生に敗北を認めない。
●世間の壁
幼いころ、自分はとても幸せな存在なのだと思っていた。理由は簡単で、周囲の人間が私にそう言ったからだった。
だがその割に私の心はいつも不安定で、ゆらゆらと頼りなかった。小学生のころから「死にたい」と口に出すようになった。
私の人生を語ることにおいて両親の存在を省くことはできないのだが、両親のことを語ることによって逆に理解されなくなるというジレンマがある。
簡単に言えば、私は経済的にとても恵まれていたのだ。私の話を対等に聞こうとしてくれた多くの人が、私の親のことを知ると私に対する嫉妬を感じ、親に肩入れしたい気持ちになる。自分が持ちえなかった裕福さを持つ人間が、その裕福さを与えた親を非難するなんて、甘やかされた人間のわがままに聞こえるのだ。
平和な家庭で育った人にとっては、家族を、ましてや親を非難することそのものに抵抗があるだろう。今、家庭と子供を持ち、育てている「母」である人からすれば、親の苦労も知らないで、という気持ちになる。
私の親は人の命を救う仕事をしている。人から尊敬される職業についているような人間が、自分の子供に対して本当にそんな扱いをするのだろうか。いや、そんなことはあってはいけないと彼らは思う。
よって、親を非難することがタブー視されているこの国で、それでも相手を信じてしぼりだした私の声など、秒でつぶされる。
「子供を愛していない親なんていないから大丈夫」
子供愛していない親がいないなら、児童虐待のニュースなんて存在しないだろう。虐待なんてものはテレビの向こうのフィクションみたいに思っていて、それが自分の周囲に発生しているなんて、考えたくないのかもしれない。あるいは、そういう面倒そうなものにかかわりたくないのかもしれない。
世界は大変なことはたくさんあっても、それなりに平和なのだと、彼らは信じている。
その価値観に亀裂を入れそうな存在は、やんわりと彼らなりの言葉で包んで、なかったことにしてしまう。
実際には、右のほほを殴られた人間は、殴った相手を国ごとフルボッコにするし、加工食品会社は、それが人の健康を害すことを知っていても、お金のためにより依存性の高い商品を開発する。
製薬会社も化粧品会社も、たいして成分が変わらないものに新しい名前を付けて新発売といって売り出す。そのために、犠牲になる実験動物がたくさんいる。メディアはスポンサーのために存在するから、スポンサーに不利になる情報は流さない。政治家は自分の息子を自衛隊に入れない。
世の中には残酷な真実が吐いて捨てるほどあるのに、それをどうして見ないようにしているのか私にはわからない。人間の性質は本来善いものだと信じられる人のことは。
いいものだったら、戦争や犯罪は起きない。それらを抑制するための法律はいらない。配偶者を裏切らないという契約も必要ない。ちがいますか?
この世界は嘘つきだらけだと思うようになった。
上手に嘘をつけることが、大人になることなのだ。
前置きが長くなってしまったが、世界は平和だと思っていたい多数のために、少数の痛みはゴミ箱行きになる。多数派の勝利でこの世界は構築されている。
だから、私はゴミ箱の中から叫ぶ。
痛い。つらい。なぜ。どうして。どうして!
死にたい。でも負けたくない。
この痛みを、同じように苦しむ誰かに届けるまでは。
きみには幸せになる権利があるって。その権利を今は不当に奪われているだけなんだって。きみは生きていていいんだって。
今もきっと、家庭という閉ざされた空間の中で、自分が痛いこともわからず生きているこどもがいる。親のために自分を犠牲にしているこどもがいる。かつての私がいる。
私がきみの声になる!
●父と母
親はえらいのだと多くの人は思っている。子供を産んで、育てれば。
どんな育て方をしたのかは問われない。子供が犯罪者にでもならない限り、成人まで子育てした親は立派だということになる。それ以降の子供の人生がどのようになろうとも、子供の責任だ。
確かに、子供の気持ちに寄り添い、子供の興味関心を伸ばす愛情深い親は素晴らしいと私は思う。
だが、反対に子供を自分のアクセサリーのようにしか思わない親もまた存在する。
私の幼いころの話をさせてほしい。
私は周囲となじむのが下手な子供だった。幼稚園は通っていない。
だから、小さい頃の大半は祖母の家で遊んで過ごしていた。母と父と過ごす時間よりも祖母の家にいるほうが楽しかったのだと思う。
あるいは幼いながらも、両親と暮らすのがつらいと感じていたのかもしれない。
幼いころの記憶は、のちに母に聞かされた話ばかりだが、たとえばこんな話がある。
泣き止まない私に父が怒り、怒鳴った。大声を出されて余計に泣いた私の腕を父が引っ張り、私は肩を脱臼してしまった。
母が風邪で寝込んでいても、仕事から帰ると「俺の飯は?」と聞く。
自分の実家には盆暮れ正月と妻子を連れて帰省するのに、母の実家にはほとんど顔を出さない。
戸籍上ではいないことになっている祖父がいる。
母は「お父さん」の話をよくした。
私にとっての祖母、「お母さん」をだました酷い男だと。
結婚する前提で祖母と恋愛関係になり、祖母は母を妊娠したのだが、「お父さん」には他に家庭があったそうだ。
母には会ったことのない腹違いの兄と姉がいる。
お父さんは、お姉さんのことは可愛がっていて何でも買い与えるのに、母には何も与えなかったらしい。
大学に行くにも、「女に学歴はいらない」と学費は出さないし、就職して車が必要になって、「お願いします」と手をついて頭を下げた時もとうとう買ってくれなかったと何度も言っていた。だが、母のお父さんは、母の「お姉さん」を四年制の大学に行かせたらしかった。
母は「お父さん」を憎んでいた。
若くして亡くなったが、死んでも悲しくなかったと。
だが、子供は本来、親が大好きなものだ。
それが捻じ曲がるほどの苦痛を受けてきたのだ。
生まれただけでいい。ありのままの自分で愛されているという無条件の肯定がなく、大地にしっかりとした根を張れないまま育ち、誰かに認められることや愛されることに飢えている。
結果を出すことで愛情(に思えるもの)がもらえた。がんばらなければ自分の存在に意味がなくなる。
最低限の装備品しか与えられないまま、社会に冒険に行かなければいけないのだ。
心の防御力は低いまま、批判やストレスにも弱くなる。そこを自分の努力で補っていかなければならない。生きることそのものがハードな難易度だ。
母の話に戻ると、祖母は決して夫の悪口を言わなかった。
自分を苦しめる父親がいる。だがその父親に母親は従っている。
彼女は母をまぬけだ愚図だと罵倒しながら育てた。
母の整った顔立ちや、本が好きなところを「お父さんにそっくり」と言った。察していただけると思うが、これは決して好意的な意味ではない。祖母の嫌味だ。
自分が一番憎んでいる人間が、自分の父親だという事実だけでも十分つらいのに、顔まで似ているとなると自分の顔が嫌いになる。そこを人に褒められても何もうれしくない。だけど、異性はそこで自分を好きになるし、同性は嫉妬で自分を嫌う。
心がどんどん歪んでいく。
私もそうなのだ。散々母と祖母に父の愚痴を聞かされた後で、「あなたはそっくり」だと、「あなたのからだにはその血が流れている」と言われる。血が入っているから、他人に冷たい、将来はボケる、とか。まるで呪いのように。
私は鏡を見るのがつらい。化粧するのがつらい。顔立ちに父や母方の祖母に似た雰囲気を見つけてぞっとする。自分を愛せない。
表に浮き上がる印象深い話の後ろに無数のぼんやりとした話が存在するのなら、母が自分の両親に対して語ったことは一部でしかない。だが、その無数の話だって心にダメージとして蓄積していくことに変わりはない。
父の家も家族構成がよくわからない。幼くして亡くなった兄弟が二人いたらしい。養子のような存在もいるし、私が父に対して知っていることなんて、母から伝え聞いた不確かな情報だけだ。
近所の公園で、お父さんと子供、あるいはおじいちゃんと小さい孫が遊んでいるのを目にすると不思議に思う。
あれはなんだ?
あの光景こそ、私にとっての幻想だ。目の前の現実でありながら、それはまるで映画のよう。
私はああいったふれ合いを知らない。
父と公園で遊んだことも、祖父と手をつないで歩いたこともない。
知っているのは、白衣を権威のようになびかせて歩く父と、勉強しているかとしか聞かない祖父と、父と祖父母に馬鹿にされて委縮する母と、そのうっぷんを実家でいつまでも愚痴っている母と祖母。
運動会、ピアノの発表会、当たり前のように父の姿はない。
父は個人医院を開業しているから、日曜を休みにしようと思えばできたはずだが、その必要はないのでそうしなかったのだと思う。
父は私が何年ピアノを習っていたかも知らない。何が好きなのかも知らない。どんな友達がいるのかも知らない。今日学校で何があったのかも知らない。そんなことは、父の世界には何一つ必要のない無駄な情報だから。父が私に興味を示すのは、私のテストの点数と、クラスの順位と、成績表の5の数だった。
テストでいい点をとっても、それは当たり前。
医者の子供なんだから、もともとの頭の出来が違うと思われる。努力しても。
いい結果を残さなければ、医者の子供なのにどうしてかしら、と思われる。
私は私である前に、「医者の娘」だった。
田舎の公立の小中で、私は友達の輪に入るために、あえて変な言動をとるようになった。
「あの子って恵まれたうちの子だけど、でもちょっと変わってるよね。デブだし」
相手の子を安心させるような私でいることが、友達とうまくやることだと感じていた。
自分をネタにすることで笑いを取り、変な子だからかわいそうという同情を抱かせて敵意をやわらげた。私は肥満児だったから、女の子たちは自分が家柄や頭ではかなわなくとも、見た目で自分が優れていると思えた。当時は友達が多かった。こういう努力のたまものだ。
振り返ると私は、ピエロだった。
●母の教育
動物愛護に熱心だった母は、心の空洞を埋めるようにたくさんの動物を飼っていた。血統症付きは嫌いで、皮膚病で衰弱していたり、おなかに虫がいたり、エイズにかかっている猫をよく拾っては病院に連れていき、かいがいしく世話を焼いていた。
道路で引かれている猫を、回収しては埋めて弔った。
猫は常時十匹以上いた。それだけ多頭飼いすると、テリトリーの問題で彼らもストレスを抱え、マーキングをするようになる。
電化製品は度重なるマーキングでさびていく。床には嘔吐物や排泄物がない日はない。きれい好きの人だったら気が狂いそうな環境で育ってきた。
本好きな母は、本を買い込んでは積んでいたので、家は本の山。
それ以外に服も、コスメも、食料品も、何もかもがあふれすぎていた。買ったけど気に入らなくて、捨てられない服、もう電源が入らないのに何年も隅に置かれたままの電化製品。モノ、モノ、モノ。
どこもかしこもモノだらけで、視界に入る情報量の多さに私の頭はいつもパンクしていた。
母の独自の価値観で、牛>豚>鳥の順で食べてはいけなかった。母は一切食べないので、私はお肉を食べるとき、罪悪感をおぼえるように育てられた。自分が食べること、母に調理をさせること、お肉をおいしいと思うこと。誰かに育てさせて殺させた命の存在を嫌でも感じていた。生きているだけで罪深いと思った。
CMをしているような大手の製薬会社は動物実験をしているからと、おしゃれな洗剤は何も買ってはもらえなかったし、動物園に連れて行ってくれることもなかった。
私がわがままだったり、成績が悪かったりすれば、父は母の血が混ざっているからだと母を罵る。それが悔しくて私を優秀でいさせたかった母の気持ちもわからないでもない。だけど母は母で、祖母と一緒くたになって、父のことを罵る。父に対する恨みを、小さい子供を傷つけることで解消する。
泣いた私の顔を、「面白い顔!」と祖母と母はわらって写真を撮って、アルバムに貼った。その神経がわからない。
高カロリーなお菓子やジャンクフードを次々食べさせるのに、それで太っていた私の体型をポストみたいだとわらう。
傷ついて怒ると、「パパの血が入ってるから頭がおかしい」と言った。
私は中学生になるまで、坊ちゃん頭の肥満児だった。男の子みたいだった。母は私に女の子の格好をさせたがらなかった。そういうのは似合わないしダサいといわれ続けて、女の子らしいことにあこがれるのは悪いことだと思っていた。
下着はいつもベージュ。デザインはおばさん風。娘が女になるのを、母は認めたくないようだった。
私は、父からの悪い血と、母からの悪い血でできている、悪いものだと思っていた。父が母をなじるのも、母が父をなじるのも、変わらない。両方私をなじることに変わらない。
なんで生まれてきたんだろう?
父は跡継ぎになるような男の子が欲しかったって言っているし、母だって、子供が欲しかったわけじゃなくて、できたから産んだだけっていうのなら。
私の存在そのものが、間違いなんだ。
父と母の仲が悪いのは、生まれたものが間違っていたからだ。
私がすべて悪いのだ、と思っていた。
それはとてもつらかった。
●裏切りと病気
学生時代、クラスで何番だったとか、同業者の医師の息子が都会のいい塾に通っているとか、熱心に子供を送り迎えしている奥さんがいるとか、そんな話しかしない父に比べて、母はまだ私からしたら話の通じる相手だった。
母のことが好きだった。母は美しくて、本をたくさん読んでいるから知識が豊富で、だけど父に日々暴言を吐かれていて、私が守らなければならないと思っていた。
私が中学生になったころ、母の様子が少し変わった。夜になると駅前のカフェに出かけていく。隣で寝ているはずなのに、真夜中にいなくなる。探すと、トイレで電話をしている。当時は持っている人のほうがまれだった携帯電話を買っていた。バイクに興味持って、教習所に通い、友達とスキーに行くといって数日留守にした。
母がカレンダーに何かを書いていて、何気なく見せてほしいと言うと慌てて隠した。スキーに私も行ってみたいというと、断固拒否した。夜、姿の見えない母を父が不審に思い、私に居場所を聞いた。私がカフェのことを言うと父は車を飛ばしていってしまった。その後、カフェで父が母を罵倒し、公衆の面前で頬をはたいたと聞いた。私が母の居場所を黙っていればこんなことにはならなかったと、自分を責めた。
ある週末、私は中学でできた友達の家に遊びに行っていた。中学のグラウンドに行ってみようかという話になり、その子と一緒に行くと、私を車で送ってくれたはずの母がまだそこにいた。不思議に思って近づくと、運転席の母は携帯電話で誰かと話しながら、私のほうは見向きもせずに車を走らせて行ってしまった。
歩いて帰宅すると、父が写真を見せてきた。スキー場でほほ笑む、母と男性の写真だった。父にこの男を知っているかと聞かれた。知っている。その男は私の小学校の担任だ。
不自然だった点の数々が線になった。
私は母と一緒に父と戦っているつもりだった。だけど母は早々に逃げ出していた。
母が担任との個人面談を、私を通してやたらと希望したのはそういうことだったのか。
母は娘よりも男を選んだのか。
裏切りは、教師と、母と、信頼していたふたりから。
スキーは楽しかったですか。その男と寝たんですか。私の担任と。
……どんな気持ちで?
母は実家に帰っていて、父と祖父母が母を責めに行ったみたいだった。
私はその場を知らない。蚊帳の外だった。中間テストの時期だったので、私は学校に行っていた。
担任にも妻と子供がいたが、母と一緒になりたいと言ったらしかった。父は離婚だと怒りくるい、母の不貞を病院のスタッフに吹聴して回った。だが、いざ本当に離婚の手続きになったとたん、父は母を手放したくなくて、やり直してほしいと頭を下げたと聞いた。
これは全部、聞いた話だから本当のところはわからない。
私ははじめてもらった卒業アルバムの、担任の教師の顔をマジックで塗りつぶした。
担任は、父によって不貞を学校にばらされて、左遷されていった。
帰ってきた母は、憔悴しきっていた。死人のような顔だった。うつ病だと言われた。
母は毎日寝込むようになった。学校から帰ると、暗い寝室の中で布団をかぶった母に、ただいまと言う。そんな母のことを、だれに相談することもできなかった。母のことを守りたかった。目はうつろで、首を細かく振っている母を、おかしい、怖いと思いながらも。
私を裏切ったことを憎みながらも、その恨み言をぶつけたら母が自殺してしまいそうで怖かった。私は母を憎いと思った気持ちを、墓場に持っていこうと思った。心を殺すことにした。代わりに、そこまで母を追い込んだ父と、母を誘惑した教師を憎もうと思った。
果てのない憎しみは、私の心を蝕んだ。
●進学校の落ちこぼれ
高校は、両親に入れと言われるまま地元の進学校にした。女子高だった。すべり止めの私立に落ちていたので、公立の発表まで、母はこの世の終わりのような顔をしていた。大検を取らせることも考えていた。
子供が進学校に落ちるのがそんなに悲しいか? と私は冷めた目で見ていた。
受かってからは、勉強のことはどうでもよくなった。テストで10点以下の点数をとることもあった。地域の優等生があつまるその学校で、そんな点数を取る人間はいなかった。
家からは一駅離れているにもかかわらず、クラスの子に、「あなたのお父さんって医者なんでしょ?」と問い詰められた。ちがう、ととっさにうそをついてしまったが、なぜこんなことを聞かれなければならないのかと思った。
父はPTA会長になった。やめてくれという私の懇願を無視して。「落ちこぼれのお前が卒業できるように、校長先生に頼んでおいたからな」と哂っていた。
学校が終わると部活もせずに家に帰って、ずっとテレビゲームをしていた。
私は小さいころから、ゲームオタクだった。ゲームの中には、優しい世界があった。家族や仲間との友情も愛情も、私はそこから学んだ。大切な世界だった。きっとこういう心のあたたかい人間もいるはずだって、画面の向こうでだけは、安心していられた。
ゲームのキャラクターが死んでしまい、悲しいと泣く私に、母はこう言った。
「そんな作り話で泣くなんて、馬鹿じゃないの!」
年頃で少しH な漫画に興味を持った私を、母は汚いものでも見るような視線を向けた。私は集めていた漫画を、庭で燃やした。
声優になってみたいと言った。
「声優になるような子は、若くして劇団に入るものだ。厳しい世界で芽が出るとも限らない。ひとり都内で下宿するような、そういった覚悟はあるのか」と言われて委縮してしまった。
ゲームを作る人になりたいとも言った。
「そういう学校は大学を卒業してからでも遅くない。」
絵を描くのが好きだった。ピアノを弾くのも好きだった。
そういったことを、両親がほめてくれたことはない。
気づけば、褒められた記憶そのものが少なすぎて思い出せない。
大人になって、絵も音楽も料理も手芸も、褒められることばかりで驚いた。
発表会では母の好きな曲を弾いた。私のピアノは、ピアノ自体が高いからいい音だと言われた。
父は、自分の代でこの病院はつぶれてしまうんだと自嘲した。私がじゃあ医者を目指すというと、お前じゃ無理だと一蹴した。母は、人生をかけて不幸な犬猫を減らしたい、私が獣医になったら猫をたくさん避妊手術してあげられるのに、と言った。
雪が降ると楽しみにしていたり、台風が来るからワクワクしていたりすると、外で暮らす猫がかわいそうだと思わないのか、と非難される。
母は政治の話もよくした。この国はいずれ戦争になるし、未来は絶望的だということを繰り返し聞いた。
両親は犬猫が好きだった。ごはんをあげていれば自分たちを慕ってくれるから。
ただ中には神経質な犬もいて、父とは折り合いが悪くて、父はその犬をスリッパで殴っていた。母はあきらめて止めることもしなかった。多頭飼いの環境に慣れず家出する猫もちらほらいる。彼らのことは一応探すが、そのうちにあきらめる。自分たちのやり方に従わない子はいらないから。
フードは大体安いものを与えていた。人間の食べ物も気にせずあたえた。塩分が入っていようが、たまねぎが入っていようがお構いなかった。焼き魚もから揚げも、パンも牛乳も、刺身もチーズも、何でもありだった。
数が多すぎて都度ごはんをあげるわけにいかなくて、いつもフードは山で置かれていた。食事量のコントロールができない子は肥満になっていった。晩年はどの子も歯槽膿漏になって、口が痛くてよだれを垂らして苦しんだ。
原材料にこだわった700円の猫のおやつを買う私を贅沢だという。自分には3万円の服を買うのに。
定期健診も予防注射もまめにしない。そこまで面倒を見られないから。
可愛がるのは、より自分たちに従順な子だけ。なついていて、顔がかわいい子だけ。
疑問は常にあったが、異を唱えることは許されなかった。
あの家では、父と母が法律。
私もペットのようなものだ。
口答えするし言うことを聞かない分、私は猫よりも愛されていなかった。
具合を悪くした猫の面倒をかいがいしく看る両親を見るたび、私の心は暴れた。
そんなふうに私にやさしくしてくれたことなんて、ほとんどないくせに、と。
●限界、そして崩壊
高校3年になり、進路を決める時期になった。冬になったころ、私は決めた。浪人して医学部を目指すと。父に認められたい気持ちが再燃していた。
予備校の、医歯薬獣医コースに入学した。義務教育と違って出席を取らない予備校は気楽だった。ただ勉強に身が入ることはなく、成績も伸び悩んだ。
私は結局三年間浪人するのだか、途中心身の不調で学校に通えなくなった。
精神科に行き、適応障害と診断を受け、薬を飲みながら勉強した。医学部や獣医学部は無理だったが、文系の有名私立大学に合格した。集中して勉強したのは、実質試験前の4カ月。私はこの短期間で、偏差値を50から70まで上げた。
母が行きたかった大学だった。全日制のその大学と、興味があったほかの大学の夜間を併願していたが、私は母の希望を飲んだ。
大学にはなじめなかった。都内出身のお嬢様のクラスメートたちは、エスカレーターで進学してきていて受験すらしていない。彼女たちはキラキラしていて、まぶしかった。
都内への通学には往復5時間かかった。朝は早く、夜は遅く。一人暮らしは許されず。
その理由は、母が「自分も何時間もかけて大学に通ったから」いうものだった。その時は納得したが、自分がした苦労を子供にもさせたいというのは、少しおかしくはないか。その大変さがわかるなら、子供には苦労をさせたくないと思うものじゃないのか。
門限は23時で、その時間に帰宅することを逆算すると、サークル活動で遅くなることもできなかった。
門限があるといったほうが、周囲にはきちんとした家の人だと思われるという理由だった。
2年生になるころ、私は欠席が増えた。電車に乗ると腹痛と下痢になる。過敏性腸症候群だった。朝の満員電車の中、人身事故で電車が長く止まった。私はおなかの痛みを我慢し続けた。脂汗が浮いた。駅について、目の前が真っ白になって、ホームにへたり込んだ。トイレで吐いた。限界だと思った。
父は私に、いい成績を取るように言った。
下痢のことを相談すると、下痢止めを一錠だけ、出した。それで私は便秘になった。生理は二年くらい止まっている。毎日37℃の微熱のからだを引きずって授業に出て、授業が終わると電車に飛び乗って地元に帰り、バイトに行った。
家は病院で、父は医師だ。そのことが逆につらかった。
つらさを訴えても、検査一つ、お金の無駄だとしてくれない両親にとって、私とは何なのか。
毎朝、高層マンションを見上げては死ぬことを考えた。駅のホームで横を特急電車が通り過ぎるたび、飛び込んだら楽になると思った。
でも恐怖もあった。死にたいと漏らすたびに、母に「自殺が失敗したらその先どれだけ悲惨な人生が待っているか」と説かれたし、「今まであなたの生命を維持するために犠牲になった動植物の命を無駄にする気か」と言われていたから。
母の本棚にある、『完全自殺マニュアル』とか、『自殺のコスト』とか、そういった本も読んだ。夫婦関係やモラルハラスメント、女性の生き方に関する本もたくさんあった。ただ、たとえ食卓にそういう本が置いてあっても、父は気にも留めなかった。
私は大学のカウンセリングルームに通った。カウンセラーの前で泣いて、腫れた目で授業に出た。
そのころ、初めて恋人ができた。
恋人に可愛く思われたくて女の子らしい服を買うと、案の定母に目を付けられて散々似合わないと言われた。料理を作って行こうとすれば、相手がつけあがるからやめなさいと言い、デートに行くにも出かける場所や帰宅時間を詳細に告げていかなければいけなかった。デート中には監視するように何度もメールが入る。
束縛がしんどかった。母は私に好きな人ができることも、私を好きになる人がいることも望んでいない。
自分のそばでいつまでも、従順な娘でいることを望んでいる。母という美しい花を引き立てるわき役でいることを。私は母といるといつまでたっても人生の主役になれない気がした。母の趣味の外出に付き合い、母の愚痴を聞き、母の作品や母のファッションを称える。私は母より幸せになってはいけない。
苦しくて、ますます私は彼氏といる時間を求めた。母のメールに返信しなくなり、門限も破るようになると、母はメール攻勢をぱったりとやめた。言うことを聞かないならもう勝手にしろ、ということらしかった。
夜、心配だから早く帰れとあんなに言っていたのが全くなくなって、今度は先に寝ている。酷いときは、家にいないなんて知らなかったと、玄関にロックをかけておく。家に入れない私がチャイムを押せば、寝ていて不機嫌な顔をした父が出てきて無言でチェーンを外す。
わけがわからない。
私は荒れた。飲みに行っては強いアルコールをあおった。
彼氏の悪口を吹き込む母も、一切無関心な父も、なんだっていうんだ。
大学にはだんだん通えなくなった。家にひきこもるようになったが、それを父に知られるわけにはいかなくて、自室に引きこもっては息を殺して生きていた。父の足音がすれば隠れる、気配を察するために耳を澄ませる。自分の生活音がしないように気を配る。人の気配と物音に過敏になった。乱れた呼吸をどうすれば音にせずに整えられるかとか、足音をさせない足運びとか、そんなものを自宅で覚えた。
精神科の通院を再開した。
そのうち、自傷を覚えた。自分のからだを自分で傷つける人の気持ちなんて、わかるはずがないと思っていたのに。腕を切ると、赤い血が流れる。私の中の悪い血が流れる。心の痛みが体の傷として可視化できるのと、脳から頭をぼんやりさせる物質が出るようで、心の痛みが一瞬まぎれる。
私は自傷を繰り返した。最初は猫のひっかき傷程度だったそれは段々深くなり、床には血だまりができるくらい斬った。縫合が必要なレベルの傷だが、病院に行ったことはない。近くの病院は父の知り合いだからだ。何百回切りつけたかわからない腕はもうボロボロだ。私は夏に半そでを着られなくなった。
父と母はうんざりしていた。
痛いだけでいいなら、切ったところに塩でも塗りなさいよと言われて、私はそうした。
馬鹿みたいだと思ったと、あとで母から聞いた。
反抗すると父に頬をはたかれた。「殴ればいいと思っているでしょ」とにらむと、父は「ああ思っているよ!」と言い、私をもう一度はたいた。
死んでやる、と近くの踏切に走れば、父に乱暴に腕をつかまれて戻された。抵抗した手が、父の顔面にあたって父のメガネが吹っ飛び、怒った父が私を殴ろうとする間に母が割り込んで「やめてよ!」と泣いた。
薬を過剰服薬するようになった。一度、父の病院の薬剤室から、睡眠薬を何百錠と盗んで死ぬ気で飲んだ。病院に運ばれて胃洗浄をされたが、記憶はない。
自傷行為や過剰服薬をしないよう、私は家で手と足をひもで縛られて生活した。ある日、母が目を離した一瞬で私は外に出て、二階の階段から飛び降りた。
母は泣いていた。こんな娘を持った自分かわいそうで泣いていた。私の入院に付き添わなければならないせいで、家の猫の世話ができないと恨みを言った。私の前歯の神経は二本分、死んでしまった。
入院をすることになり、精神病棟の保護室に入れられた。
布団と、自分で流せないトイレしかない場所で一週間過ごした。
お昼ご飯の牛乳を全部飲まないことを女性看護師に怒られ、男性看護師には胸を触られた。夜に宿直になったその看護師は、私の病室にきて、自分の性器を私になめさせ、写真を撮り、精液を飲ませた。
とことん堕ちた気がした。でも、どうでもよかった。
私はそういう扱いがお似合いなんだと。
退院して、休学していた大学をどうするか考えなければならなくなった。年数的に難しく、私は退学することに決めた。がんばって勉強して入った大学をやめるのはつらかった。
退学しますと父に言うと、「これからどうするつもりなんだ!」と怒鳴った。
そんなこと、言われなくたって私が一番わかっているのに。
彼氏とは、その時期に別れた。
仲がいいと思っていた高校の友人たちは、私の入院の連絡を受けて、怖いと逃げた。
アルバイトを探した。
接客業に就職して一年近く頑張った。
しばらくして、職場で知り合った人と、付き合うようになった。母の監視と束縛がまたはじまり、逃げているうちに無関心に変わった。
彼ははじめてのデートで、私を置いてほかの女性のところに帰っていった。
実はバツイチで、前の奥さんといまだに一緒に暮らしていて、その奥さんが怒っているから帰るということだった。彼の家の前で降ろされた私は、一時間歩いて駅まで行って、帰った。おしゃれした服は雨に濡れて、惨めだった。
交際の話になったとき、私には精神疾患があるから恋愛はできないと断った。彼はそれでもいいと、私を望んだ。だから好きになった。その後で、このしっぺ返しだ。
彼は奥さんとの関係を清算して、私に再び交際を申し込んできた。自分で泣きながら私のことを振ったくせに、と思ったが、一度だけは許そうと思った。彼はのちに、私の夫になる。
●言葉のナイフ
26歳のころ、バイトは体調不良で退職して、私は家にこもっていた。
16歳で、死にたくて苦しくて、あと10年だけ生きてみようと思って実際に10年がたった。相変わらずつらかった。二十歳になる前に拾った猫が心の支えだった。
冬。父の収入で買った食べ物を口にする気にはなれなくて、水以外口にせずに2週間くらい過ごした。
その間、私の部屋に両親が来ることはなかった。
横になって涙を流しながら、いつまでも来ない、ノックの音を待っていた。
彼氏は穏やかな家で育った人で、子供を愛してない親なんていないと私に説いた。それがもとで喧嘩になっていた。
夕飯の時間帯、リビングで両親はテレビを観ている。バラエティだろうか。
バイト代でお酒を買った。酔った勢いでリビングに行った。
どうして心配してくれないんだって、泣いた。
いつか私を裏切った、教師の名前を出した。
父と母がなかったことにしているその人物の名前を出した。
その男のことが忘れられないのは、誰のせいなんだと叫んだ。
父は言った。
「酒なんか飲みやがって。いつまで親にパラサイトしているつもりなんだ。そんなに死にたければ樹海に行け! 死ね!!」
パラサイト。寄生虫。
私は家を飛び出した。持ち物はコートに入った携帯電話一つ。12月も後半。寒い日だった。
酔った頭で田舎道を歩いたせいで、何度か道端のどぶに落ちた。濡れて、汚れて、どこか斬った。
駅前の踏切にきて、力尽きた。
人は心が破壊されると、足にも力が入らないんだなと思った。ヒビが入ったスマホの画面のように、私の全身にひびが入っているのを感じる。今にも粉々に砕けて割れそうだ。
彼氏にメールをした。
もう人生を終わりにしたいって。
彼氏はちょうど仕事上がりで、車で私を拾いに来てくれた。
そのまま自分の家に連れて行ってくれたが、私をお風呂に入らせたあと、寝てしまった。
あれから、6年。
希望と、絶望を繰り返し、傷ついても這い上がり、私はまだ、生きている。
●新しい街
家を出て三日後くらいに、母からメールが入った。「どこにいても母はあなたの幸せを祈っている」と書いてあった。その間、心配をして連絡をくれていた知人から、母の言葉を聞いた。「〇〇さん、あなたも娘に死ねって言ってくれればよかったのに」という内容だったそうだ。
前の奥さんを追い出したばかりの家は、奥さんのものであふれたゴミ屋敷のようになっていた。彼女が彼に飲ませたかったのだろうマカのサプリや、お料理DSのソフトや、彼女の使用済みのナプキンや、榊の飾ってある祭壇のようなものや、ありとあらゆるものを片付けた。
ローンを組んで購入した分譲マンションでの夢にあふれた暮らしと、その果てを見た気がした。
着るものも何もなかったので、荷物を送ってほしい旨だけ連絡すると、私のものがぎゅうぎゅうに詰められたダンボールが毎日何箱も届いた。いるものもいらないものもすべて。家から私の存在を消してしまいたいという怒りを感じた。
それなのに、私が大切にしていた友人の年賀状だけは絶対に送ってくれなかった。
住民票、国保、戸籍の分籍。こういった手続きをひとりでやるのははじめてだった。保険はともかく、年金は支払えなくて、未払い期間が今でもある。
希死念慮にさいなまれながら、生きることだけを目標にした。大声で泣く日も、腕を切って耐える日も、薬局の睡眠薬を数日分一気飲みする日もあった。そんな私を見捨てなかった彼氏に信頼を覚えた。
たとえ私の傷だらけの腕を、血は怖いと放置したとしても。私の両親にたいして、酷いと怒るとか、そういう否定的な感情を見せなかったとしても。私が死にたいと泣く朝、普段通りに出勤していくとしても。私を愛してくれる人は彼しかいないと思うと、些細な違和感など我慢しなければと思った。
有休をとってくれたことはない。早退もない。彼の仕事に傷がつくようなことは。一緒に過ごしたこの6年で数回、1時間程度の遅刻をしてくれたぐらい。仕事に行けば忙しくて私のことは忘れてしまう。
彼のお給料だけでは経済的に苦しくて、せめて有休がとれる仕事に変えてほしいと頼んでも取り合ってくれなかった。話し合いにならなくて、仕事のことを言うと目が据わってしまう彼に、期待した分、失望を感じた。
彼に養ってもらっていると思うと、文句は言ってはいけないと思っていた。彼が平気でマンションの前に路上駐車をしたり、お店の店員さんに冷たくしたり、他人に迷惑をかけることを何とも思わないのを目にしても、はじめは注意することもしなかった。
新しい街で通い始めた精神科医が、両親を治療にかかわらせたいと言った。直接連絡を取ることが怖かった私は、医師に連絡を取ってもらうことにした。自立支援で減額される診察はともかく、臨床心理士のカウンセリングは保険適応外で、とても払えるような額ではなかったから、治療費だけでも出してもらえるならありがたかった。
両親は医師の医院まで足を運び、その場は和やかに終わったらしい。治療費も出すと言ったそうだ。ただ、娘に直接お金を渡したくないので、必要経費を病院に払うということだった。
しかしその後、医師から、電話が通じなくなったと言われた。携帯電話の着信拒否ではない。固定電話が変えられていた。私も電話をかけた。かつて自宅の電話番号として十年以上使ってきたその番号に。
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません」
そこまでするのか。そこまでして、私を拒絶したいかと思った。私は唇をかみしめながらその無機質な音声を聞いた。
●結婚
彼氏と暮らして一年が過ぎるころ、入籍する話になった。親に伝える気はなかったが、彼の両親からの強い勧めで仕方なく連絡を取った。彼の両親には何度か会っていて、いくら親子関係がつらかったことを話しても、「でも親子なんだから、ご両親はあなたを愛してるに決まってる」という価値観を押し付けられて終わった。
私はそんな義理の両親に対する信頼を失いつつあった。お父さん、お母さんと慕っていい人ができるんだという期待は、だんだんと失われていった。
あなたたちの可愛い息子さんは、人に迷惑をかけないという一般的な感覚を持たない。私は彼のギャンブル、お酒、たばこ、乱れた交通ルールなど、ひとつひとつやめさせていった。
お金はなかったから、結婚指輪はなかった。結婚式場のビジネスはぼったくりだから払いたくないという彼の理由で、結婚式も新婚旅行もなかった。もちろん結納もない。
連絡した父は、結婚するというと勝手にどうぞ、と言った。
数日後に現金書留で20万が送られてきた。まるで手切れ金だと思った。
結婚生活はだんだんうまくいかなくなった。私は夫を責めるようになった。夫はそんな私にうんざりしていた。性生活は身勝手で、それに傷ついて意見すると今度は一切そういう行為をしない。努力して関係を改善しようとするのはいつも私のほう、夫は面倒だと逃げてしまった。
そのうち、夫は会社で浮気をした。相手は私の友人でもあった、子持ちの既婚者の女性だった。
またか。また私は、愛した人と信じた人に、二重で裏切られるのか。
世界で一番大切な人が、私のことが苦しくなると、女や男に逃げてしまう。
母も、夫も。
私も誰か別な男性と恋愛をすればいいのか。セフレでも作ればいいのか。
いや、それはできないし、したくない。
親の不倫や配偶者の不貞が、どれだけかかわる人を傷つけるか知っていて、自分がそれをすることはできない。
やり場のない苦しみは、私を食事や買い物に走らせた。
夫と暮らすようになって私は、30キロも太ってしまった。醜い自分の姿にますます鬱になり、すれ違う人がみんな私を哂っているような気がして外に出られず、通販で買い物をした。
乱れた食生活と、夫の仕事に合わせた夜型の生活でますます不健康になった。
毎日の微熱は38℃に近くなり、頭痛は死にたくなるほど酷く、生理は何年も止まったまま。美容院に行くお金も元気もない。睡眠薬を飲まないと眠気が来なくて、4日くらいは起き続けてしまう。かといってうまく薬が効かないと、頭がもうろうとして過食してしまう。
死んだほうが楽だと毎日思っていた。ただ、死ぬにしても、痩せてからじゃないと首を吊っても紐が切れるんじゃないかとか、変死扱いで警察に写真を撮られるのが嫌だとか、投身は迷惑だからダメだとか、そんな風に考えた。死ぬ勇気もない自分が情けなかった。
●ターニングポイント
きっかけは何だったか、と言われれば、ある人が配信している、人生を変える動画を観るようなったせいかもしれない。その人は、メンタリストのDaiGoさんだった。私は彼のことは、ババ抜きを当てる人としてしか知らなかった。彼の動画をYouTubeで偶然目にしたことからはじまった。
彼の動画を見て、できることからやっていった。実行できなくてつらいこともあった。どうしたらできるようになるかを科学的に分析して教えてくれる彼の動画を観ると、できない言い訳をすることができなかったからだ。
彼の尊敬する、パレオさんと呼ばれる人のサイトや本も見た。
彼らの教えてくれる知識をもとに、精神科の薬を減らしつつ、ハーブなどのサプリメントを取り、生活リズムを正し、毎日公園に散歩にいくようになった。
体重が10キロ減った。自分の力を信じてみようという気持ちになって、学生時代に好きだった英語を、10年ぶりくらいに勉強しなおした。2カ月で英検2級に合格した。やればできそうな気がした。
ピアノの発表会にも出てみた。どうせ暗譜するのだから、裸眼だっていいや、と両眼0.03の視力で舞台に立った。目標を共有するSNSでグループリーダーになり、YouTubeに動画を載せてみた。
世界は広がった。
実家からこっそり連れてきた愛猫が15歳で病気になり、心の支えが失われてしまうことを嘆いていたけれど、前を向こうと思った。
被害者をやめようとも思った。
つらくて苦しんだ経験は、誰かの生きる力を手助けするためにあるのだと思うようになった。
どんなにつらくても、非行に走らず、憎しみに染まらなかった自分を認めた。
許そうとし続けたこと、いつだって、簡単な道より困難な道を選んできたこと。
楽して稼ごうとか、適当にやろうなんて思わなかった。いつも真剣だった。
100点をとるなら120点を取るつもりで努力するのが信条だった。
そのストイックさが周りとの軋轢になったことはある。足並みを崩してしまうのだ。だから、チームプレイは苦手だ。
だったら個人で勝負すればいい。今はそれができる時代なのだから。
違いは、人が挑戦してないことを、恐れずにやるか、やらないか、それだけ。
自分の思考回路や行動をひたすら紙に記録するうちに、発達障害の傾向が見えてきた。私は大人の発達障害、ADHDだろうと思われた。医師ははっきりと診断をしてくれなかったから、自分が何なのかわわからないまま通院を続けていた。
働きたいと思った。私の申し出に医師はしぶしぶ、精神障害者手帳の申請書を書いた。
障害者のある、かわいそうな人として生きるつもりはない。平均的な人に比べてできない部分がある代わりに、障害があるからこそ優れている部分があるのだと確信している。
そういう力を生かしていくビジネスをしたい。そのためには資金が必要だ。
記録を続け、自分の欠点を書き出して、夫にも協力を求めた。一緒に考えてくれると思っていた。
でも、夫は逃げてしまった。自分を律して英語の学習に励む私を、居心地悪そうに見ていた。
一日家に引きこもってゲームしているような私が好きだと言った。
そんな生活、私は苦しくてたまらなかったのに。
自分の無力さと社会から隔離された孤独を感じて、ジャンクフードや惰眠や、テレビゲームで毎日の暇をつぶすだけの生活。健康だって最悪で、毎日どこか痛かった。そういう私を望むのか。
自分よりダメな存在が身近にそばにいることで、自分はここまでダメじゃないと、思いたいのだと思った。それは、母と同じだった。私の成長や自立を喜んでくれないのは。
知ってしまったら、やり直せなかった。
私は今年の一月の終わり、夫に離婚届を強引に書かせて、提出した。
私が私の力を信じて生きるためには、この人とは一緒にいられないと思った。
突発的な離婚を、医師は責めた。貯蓄も収入も見通しもない、愚かな決断だと。患者のくせに、どうして自分の言うことを聞かなかったのだ、という怒りを感じた。待合室で受付の人と話している私のそばを、医師は無視して通り過ぎた。ああ、父にそっくりだな、と思った。
ぎりぎりの精神状態で自分の人生を生きるために下した決断を、さらに上から責められ、お世話になっていた薬剤師は、「それでも先生はあなたのことを想って言ってくれたはずだから、優しい言葉に変換してみましょう」と言った。
傷ついた患者が、医師にやさしくする?
父に死ねと言われて傷ついたことだって、「そんなこと言っても、お父さんはあなたのことを愛しているのよ」となるのだろう。
その言葉が、どれだけ当事者を追いつめるか知っていますか?
悪気はない。
知っている、私はこの言葉と戦い続けなければならないこと。
親はいつも、同じ親によって守られていること。子供は守ってもらえないこと。
傷ついても矢面に立ってやる。それで守られる子供がいる。かつて子供だった傷ついた大人がいる。ならば私は、彼らの代弁者になる。
夫と別れたとはいえ、行く当てもないので当面はまだ、彼の家で世話になる。
私は仕事を探した。5年ぶりに社会に出る。塾講師のアルバイトに就職することができた。英語の勉強が役に立った。
海外の人と交流できるSNSもはじめた。向こうの人は偏見なく、日本のオタク文化を愛してくれている。私はきっと、オタク文化に精通した通訳になれる! 民間外交官の資格を目指してみようと思った。
ゲームが好きなのだから、プログラミングを学んで一人で開発したって良い。絵を描いて、漫画で自分のつらさを作品にしたっていい。予備校に行くお金がない人に、講義動画を作って配信したっていいじゃないか。なんだってやってやる。
人の目はもう気にしない。
去年、はさみで頭を坊主にした。予想以上に寒かったが、慢性的だった片頭痛は治って、医療用のウィッグで髪型は自由に楽しめる。感覚過敏で、ドライヤーや美容院がつらいのだと気づくことができたのも、自分を地道に観察したからだ。
発達障害の本を読み、夫の言動に、ASDの傾向があるとも思った。父をASDだと思っていたので、タイプは違ってもASDの人を選んでしまったことがショックだった。そして、パートナーの共感性のなさに妻が苦しむカサンドラ状態に自分が陥っていることも知った。
でも、知ることができたおかげで、夫にはやさしい気持ちになれた。
先天的にできないことを、なぜできないかと責め続けても意味がなかったのだ。人の気持ちがよくわからないまま、ひとりの社会人として生きているのはどれだけ大変だろうと。
だからこそ、新しく仕事を変えるなんて、考えたくもなかったのだと。
よくがんばってきたね、つらかったよね、と夫の背中をさすると、彼は泣いた。
はじめて彼の涙を見た。彼の心に届いた。
こんなおれのどこが好きなのかと聞かれた。
いいところなんてどこにもないのに、と。
いいところや悪いところで好き嫌いになったんじゃない。
あなたがあなただから、好きだったんだ、と言った。
その気持ちは今もある。
つらいことばかりだったけど、恨んだり憎んだりしていない。
誰のことも、もう手放せている。
これから、貯金して物件を探し、生活保護の申請をして、障害を抱えて仕事を続けていく。
たくさんの困難が私の目の前に積みあがっている。
頼れる人はない。しんどい時もある。朝は憂鬱だ。
少しやせたけど、まだまだ肥満。鏡を見るのは変わらずつらい。
でも、何度でも這い上がろうと思う。生きてやろうと思う。
それが傷つき続けてきた過去の私に、報いる道だと思うのだ。
●さいごに
今、つらいきみ。
明けない夜はないという言葉に、逆に絶望してしまわないか?
その明けた朝だって、いずれ夜になるのだと知っているから。
そういう言葉は、一時しのぎの励ましだと思わないか?
絶望を知らない人の言葉だろう、それは。
きみがほしいのは、その夜に寄り添ってくれる誰かのぬくもりだ。
何回でも、何日でもさ。
そんな言葉で元気が出るほど、きみの絶望は軽くないだろう。
でも、そう言ってくれた相手のやさしさに、きみは孤独を隠して感謝を告げるだろう。
相手はきみを励ませたという満足でいっぱいだ。
きみはつぶれそうなむなしさで泣きそうだ。
わかるよ。私がそうだった。
負けるなとは言わない。負けたっていい。
生き続けることがつらいひとに、がんばれというのは、もっと苦しめって言ってるのと同じだから。
だけどその苦しみは、きみの繊細な心は、いつか誰かの光になる。
それをおぼえていてほしい。
そしていつか、きみに会うことができたなら、私はとてもうれしい。
その日を夢見て、私も生きる。
もしも会えたなら、仲間であるきみを、この腕で抱きしめたい。
よくここまで、がんばって生きてきたね、って。