
しかしホテルに着いて夕飯を食べ、しばらくすると、今度はマリの体調が悪くなりだした。体がだるくて少し気持ち悪いという。僕は風邪をうつしたのかもしれないと思い、心から申し訳ない気持ちになって、しきりに心配した。
「大丈夫?寒気はない?」
「寒気はないわ。大丈夫よ。少し寝かせて。」
そういうと彼女は、僕の寝ていたベッドに入ってしまった。僕は何か出来ることはないかと考えたがどうすることもできず、隣のベッドに腰掛けて、寝ている彼女の背中を見守っていた。しばらくすると彼女の寝息が聞こえたので、僕はやることもなくなり、仕方なく本を読み始めた。
ずっとしゃべり続けていた彼女が寝てしまい、部屋は静まりかえった。彼女の寝息だけが聞こえる。本を読みながら、時々彼女を見た。彼女は向こうの壁側を向いて寝ていた。昨日会ったばかりの女の子。静かな部屋でふと我に返ってみると、不思議な気持ちになった。いつの間にこんなことになっていたのだろう。
2、3時間も過ぎた頃、僕も眠たくなってきてしまった。このまま明日を迎えてしまうのだろうか。翌日の朝、僕はまた長距離列車で廬山というところに行く予定だった。彼女とはお別れになってしまう。そう思うと焦燥感に駆られた。彼女は中国に、僕は日本に住んでいる。当分会うことは難しいだろう。出会ったばかりだというのに、風邪をひいている僕の世話をしてくれたマリ。寝ている彼女の背中を見つめながら、すでに今日一日のことが懐かしくなっていた。あっという間の一日だった。もっと彼女と話をしたいと思った。
「 彼女のことを、何も知らない。」
でも、体調の悪い彼女を起こすわけにはいかなかった。あきらめて、寝る前に明日の出発のための準備を始めた。
そうこうしているうちに、マリが起きてしまった。
「あつい」
彼女は背中を向いたまま起き上がって、セーターを脱ぎ、キャミソール一枚になった。そしてまた寝ようとした。僕はマリに、
「そこは俺が一昨日から寝ていたベッドだから汚いかもしれないし、風邪のウイルスがたくさんいるかもしれない。ベッドを交換しよう。こっちの新しいベッドで寝なよ。俺はそっちのベッドで寝るから」
と言った。しかし彼女は「大丈夫」と言って動こうとしなかった。僕はあきらめて電気を消し、寝ようとした。するとしばらくしてマリが、
「じゃあそっちに行くね」
と言って僕のベッドに入ってきた。僕はマリが寝ていたベッドに移ろうとしたが、マリは
「一緒のベッドで寝よ。でもくっつかないでね」
と言った。
僕はどうしていいかわからず、じっとしていた。
同じベッドで、お互いの人生の話をした。どんな生い立ちで、どんなことを経験してきたのか。明日には別れてしまうという焦りの中で、早くもっと相手のことを知りたい、自分のことを知ってほしい、という思いに駆られていた。早くお互いを伝えあわなければ、朝が来て、もう会えなくなってしまう。
マリは高校を卒業した後、親の都合で中国に渡り、親族の経営する日本料理店で働き出したという。だからこそマリは、割と自由に働いていたのだ。この日も仕事があったが、僕と会うために急に休むことにしたらしい。
「私、こっちに仲のいい日本人がいないの。中国人の友達はいるけど、やっぱり日本で育ったから日本人が一番落ち着くのよね。文化も全然違うし。お店に来るのもビジネスマンが多くて。日本に戻りたいなぁ、寂しなぁって思ってた時に、あなたが来たの」
また、マリは中国人のハーフということで学校でいじめられたことがあり、子供のころは死にたいと思っていたという話をした。気丈なお姉さんのようにふるまっていた彼女だったけれど、悲しい過去があるらしかった。彼女は上を向いたまま、子犬のように寂しそうな顔をして、「私には居場所がないの」と言った。
部屋はあいかわらず静かで、時々車の通る音がするだけだった。僕はマリをゆっくりと抱き寄せた。中国の大都市上海の、小さなホテルの狭い一室で、僕らは静かに柔らかく抱き合っていた。そのまま動かないでいると、お互いの心臓音が聞こえた。僕は激しく動悸していたが、それは彼女も同じだった。彼女のか細い首筋にてを触れると、脈が波打つようだった。僕は口付けをし、彼女はそれを受け入れた。僕は自分を抑えるのをやめ、彼女の体に触れた。僕らはカーテンの淵から白い光が漏れ出るまで、寝ずに抱き合った。
翌朝、彼女は元気になったようだったが、僕はまだ少し体調が悪化した。おかゆと同じく、中国の代表的な朝ごはんである揚げパンを買って食べたのだが、駅で吐いてしまった。マリは僕の背中をさすって心配そうにしていた。そんな中、出発の時が来てしまった。マリは別れ際、電話番号を書いた紙を渡してくれた。
「もう会うことは難しいだろうけど、体調がよくなったら一度だけ電話して。心配だから。」
しかしそれから、彼女と話すことも会うことも、二度となかった。廬山に着いた後、渡された電話番号にかけたが、かからなかったのだ。番号を間違って書いてしまったのだろうか。フェイスブックもスマートフォンもなく、ウェブメールや携帯電話がやっと普及し始めたばかりの時代。一度連絡先が分からなくなってしまえば、二度と会うすべはなかった。マリは正しい電話番号を渡したつもりで、電話を待っていたのだろうか。待っていたのだとしたら、電話をかけてこない僕に対して、どう思っただろうか。
そして6年後、僕はもう一度上海に来ていて、彼女が働いていた日本料理店を目指している。もしかしたら、彼女がまだ働いているかもしれない。そうでなくても、彼女の履歴が、その後の消息が、店に行けばわかるかもしれない。6年もの月日が流れてしまったけれど、もうそれしか手がかりがないのだ。
道の途中、子供のホームレスが缶を置いてその前に正座していた。道路に向かって座っていて、横から来る僕のことは見えていなかったし、他に歩いている人もいなかったのに、何度も何度もお辞儀をし、床に頭を打ちつけていた。僕はその缶にお金を入れた。子供は僕を見もせずに、ただただ何かを呟きながら頭を打ち付けていた。マリがいたらなんて言うだろうか、と頭をよぎった。
さらに歩いていると、上海雑技団を上演しているビルの前に来た。あたりの景色のことはあまり覚えていなかったが、少し変わっているように感じた。それでもおぼろな8年前の記憶を頼りに、近くを探した。
「確かこのビルの中にあったはずだ」
僕は目星をつけていたビルの中を探したが、日本料理店は見つからなかった。自分の記憶があいまいになっているせいだと思い、近くのビルの中を片っ端から探した。それでもやはり、日本料理店は見つからなかった。
マリを探す手掛かりはなくなってしまった。あっけない終わりだった。
あの出来事以来、僕は何度も彼女を思い出した。でも何年かすると、記憶の中のマリの顔は、もやがかかったように朧げになっていった。一緒にいたのは一日だけだったし、写真も撮らなかったからだ。残っているのは上海の豫園で、僕が一人で写っている写真。でも撮っていたのは、確実にマリなのだ。その写真にマリは写っていないのだけど、虚ろでありながら、それでいて確かな存在感がそこにはあった。
「私のことは撮らないでいいの。あなたの旅なんだから、あなたをたくさん撮ってあげる。」
僕は顔を思い出せなくなった今でも、時々彼女の「存在」を思い出す。日本料理店で、豫園で、静かな部屋の狭いベッドの上で、鮮烈な時間を一緒に過ごした女の子。今頃何をしているだろう。彼女も僕を思い出すことがあるのだろうか。