その年が明けて、冷たい空気がまだ緩む気配も見せない頃、豊はビザを申請するために、東京へ行った。
豊は、改めて母をスゴイと思った。
きっと行かせたくない気持ちはあっただろう。
その一方で、豊と同じように、突然、この世からいなくなってしまった兄のことを想い、豊には悔いのないように、行きたいところ、見たいところ、やりたいことをさせてやろうと考えてくれたのだろう。
母は、「関西のおかん」を地で行くような人だった。
口うるさく、豊を追いかけまわして小言を言った。
それでも、豊が幼稚園の年少の春、近所の公園でダンゴムシをたくさん拾って、自慢げに母に見せた時、母は「あらぁ、いっぱい採ったんやねぇ。すごいねぇ。」とほめてくれた。
小学校2年生の時に、豊はなぜかそのことを思い出して、豊の小さな手のひらをうずめてうごめくダンゴムシをほめた母を、ええなぁ と思った。
スゴイ家に生まれてきたな…と思った。
スペインへのサッカー留学は、旅費、1年分の滞在費と食費などすべてを支払う。
豊も、はっきりとは覚えていないが、ざっと200万円くらいはかかったと思う。
母は、その費用を、兄の保険金から捻出したのだろうと、豊は言う。
兄は、どこまでも豊の支援者だった。
その分、夢を見てこい…と言うメッセージを、豊は、母の行動から汲み取っていた。
中学の卒業式が終わり、春休みが始まると同時に豊はスペインへと旅立った。
出発の前日、母は、豊に、キューピーやピングーのバッグチャームをスーツケースにつけていけと言い出した。
神戸市に住んでいた頃、母は生命保険のセールスレディをしていたことがある。
おそらくその当時の販促物なのだろう。
「ほら、つけとき。何もなかったら寂しいやんか。」
「なんで、今さら、つけらなあかんねん。好きでもないのに…」
「ええから、つけときって。な、ほら。」
母は、半ば無理やり豊のスーツケースに、キューピーとピングーのバッグチャームを結び付けた。
キューピーとピングーのチャームが揺れるスーツケースを引っ張って、翌日、豊と母と姉は、成田まで行った。
見送ってくれたのだ。
特に感動的な別れのシーンがあったわけではなかったが、15歳の少年に不釣り合いなキューピーとピングーのチャームが、初めての海外へ、残る一人だけの息子を送り出す母の精一杯のはなむけであることは、豊にもよくわかった。
スペインの首都 マドリードのバラハス空港に到着するには、日本から半日以上かかる。
なかなかの長旅だが、豊は疲れよりも高揚を感じていた。
これまで、何度となく繰り返してきた国の名前「スペイン」…想像するしかなかったその土地へ、今、自分は向かっている。
本当に着くのだろうか…いや、着くしかないだろう…着かなかったら…そんなわけないやん…わけのわからない会話を自分の中で繰り返しながら、飛行機はマドリードに到着した。
入国管理で並び、スーツケースがベルトにのって出てくるのを待ち、税関を通って、空港のアライバルホールに出た。
空港には、スペイン在住の日本人の世話人が迎えに来てくれていた。
豊は、彼に連れられて、すっかり暗くなったマドリード市内のホテルへと滑り込んだ。
ここまで、空港のオフィサー以外、一般のスペイン人とは接触がなかった豊は、ホテルのフロントで部屋の鍵を渡してくれたスタッフに「グラシアス」と声をかけた時、自分が最高に調子に乗りまくっているなと感じた。


