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よく生まれてきたもんだ

Image by Olia Gozha

自分の人生は平凡平坦だと思っている。

 何か特別な能力があるわけでもないし、何かに優れているわけでもない。

 結構生きにくいと思っていたことが多くて、多分それは思い描いていた自分と現実の自分に大きな隔たりがあったからだと思っている。

 それでも、自分の人生を振り返ってみたり、親から話を聞いたりしていると、「あれ?私の人生ってちょっとズレてる?」と感じることがちょこちょこあった。

 そもそも普通に(何をもって普通とするのかわからないけど)生きていれば、もっと安定している人生だったんじゃないかと思う。

 小さい頃に漠然と思っていた大人の自分というのは26歳くらいで結婚していて、今の年齢には3児の子持ちで少し子育てから余裕ができて、セカンドキャリアを視野に入れているか、すでに足を突っ込んでいるくらいにはなっていると思っていた。

 まあ、現実はそうはいかなかったわけだけど。

 そうは言っても、自分の選択を間違いだったとは思わないし、過去をやり直したいとも思わない。

 なぜなら今が楽しいからだ。

 小さい時に思っていた大人とは違うが、違いすぎて面白い。それでいいと思っている。

 自分が好きで、世界は面白くて、人生って楽しいと思えるようになる日が来るとは思っていなかった。足ることを知っていればいいから、自分の世界も人生もそれなりに平均点を取れているくらいなら許容範囲と思っていた。

 自分は大嫌いだったけど。

 多分昔の自分はヒーローになりたかったんだろうな。だけど、そんな特別な存在になるには色々と平凡すぎて無理で、その隔たりが許せなかったんだと思う。

 そういう自分も含めて、今では面白い人間だなと思っているし、やっぱりどこかズレてるとも思う。それが私だし、それでいい。そんな私が好きだなって思う。

 自分が好きだって思えたのは30歳を超えてからで、本来なら3人くらいの子供がいるいい大人だったわけだが。

 そうなるまでは紆余曲折、小さなことがあったのだ。

 それでも、やっぱり私は生まれて来た瞬間が多分一番人生で詰んだ時だったんじゃないかと親の話を聞いて思うことがある。

 私は一人っ子で、年の差8歳くらいの姉さん女房の両親だ。この両親のちょっとした馴れ初めは父の死後、父が書き記した赤面ものの独白日記が見つかった。私の妄想癖はこれを受け継いだんだなと思ったり思わなかったり。

 母は今でこそ当たり前になっているが当時は晩婚(今の私と同じくらいの年齢)、さらに9年くらい子供ができなかったのもあって、私が高齢初産であった。

 だからこそのすったもんだなのだろうが、よく私はすくすくと成長したものである。

  祖父母が中華料理屋を営んでいたこともあり、母は身重でそこに手伝いにいくことがあった。

 当時祖母は祖母で更年期であり、末っ子で唯一の男である父が結婚してしまったもんだから割と母へは当たりが強かったらしい。いわゆる子離れできていない親に近かったのかもしれない。それは父の死後も「〇〇(父の名前)がいたら…」だとか「〇〇が言ったから」など言ってもやってもいないことを父の名を出して言うもんだから、私はさらりと否定した上で、すでにいないことを強調するのだが。

 そんな感じだったもので、母は手伝いに行く電車の中で気持ち悪くなることもしばしばあったらしい。それが増えてからは文句を言われようと何しようと自分と腹の子を第一に考えるようにしたと言っていた。

 それは正解だ。

 というのも、検診に行くたびに散々だったらしいのだ。

「お腹の子育ってない」から始まり「心音が聞こえない」や「高齢出産になるから」と先天性の病気なども心配されたらしい。

 その度に母は打ちひしがれたのだそうだ。

 それはそうだろう。やっと授かったと思ったら「育ってない」だの「心音が聞こえない」だの言われ、挙句に「覚悟しておいてください」くらいのことまで言われたらしいので。

 ただ、産婦人科の先生も注意に注意を重ねた結果のどストレートな言葉だったということだけは注釈しておきたい。

 むか喜びをさせないという点で、母は慎重を期すことができたのだから。

 それでも、爪が甘いのが母である。

 高齢初産など諸々あり帝王切開での出産ということで、入院する日が決まっていた。

 何を思ったか、母は入院する前日に父が料理した時に包丁が切れないと困るだろうからと包丁を研いだそうだ。

 なぜそこで自分のことに慎重にならずに父を慮ったのだろうか?今考えると「わからない」と母も言うが、わからなくてもなんでも包丁を研いだのは事実だ。

 どうなったか。

 少し破水した。

 そこで生まれるというわけではなかったが、擦り傷ができて血が滲むような感じで破水したらしい。

 そんなわけで入院が少し早まったわけだが、すぐに帝王切開で出産というわけにはならなかった。手術の日取りは決まっていたとしても少しであっても破水している状態で日を置いた。

 その理由が、その日が「仏滅」だったからである。

 先生が神頼みした瞬間である。

 それだけ母子ともに心配してくれたということにもつながるが、次の日の「大安」に望みをつなげたのだ。

 本来はその大安の次の日が正式な出産日であったということだけお伝えしておく。

 結果的に、一日早まって帝王切開は行われた。

 母は全身麻酔でうとうとしている中で夢を見たのだそうだ。

 とても美しいお花畑に天使らしきものが飛んでいる。その彼らが言うのだ。

「女のお子さんですよ」

 と。


 その間、生まれた直後の私はというと、真っ青でなかなか産声を上げなかったため、助産師さんにケツをしきりに叩かれていたのだそうだ。

 それでも、「育ってない」だの「心音が聞こえない」だの言われたのに奮起したのか、生まれた私は「3010グラム」

 見事に平均値を叩き出してこの世に生まれてきたのだ。そりゃ、しぶといわけだ。

 その後も、母乳がうまく吸えず、母に激怒したり(母曰く、「干しぶどうは吸いにくかったんだろう」とのことらしい)、ひどい便秘や皮膚炎に悩まされたりしたようだが、そのおかげか、歳を重ねるごとに生命線が3本くっきり入るような手相を持つ元気な人間に育った。 

 子供の頃は咳を3回すると気管支炎になるような子で、病院通いと処方薬が欠かせなかったが、今では病院って付き添いで行くところでしょう?くらいに自分のために行くことがない。

 おそらく、幼児期で一生にかかる病気のほとんどにかかり浄化したのかなと思っている。

 そんな風にして生まれた私だが、生まれて2ヶ月経たないうちに父の思いつき(父は計画していたと言っていたが)で雪深い飛騨の方へと引っ越すことになるのだ。


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