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逆ビリギャルの逆襲〜ゼロからつくる肩書き

Image by Olia Gozha

こんにちは。

はじめまして。

ほっとです。


はじめてSTORYに投稿します。

2018年9月にエンタミナというトークイベントで「女性の働き方・生き方」について

登壇させていただいた内容の続編になります。






現在、ファッション誌CLASSYにてライターをしながら

株式会社HOTMILKというPR会社を立ち上げ、代表をしています。

個人ではSNSの講師などのイベント登壇、企業向けにSNSコンサルタントを行っています。



ファッション誌CLASSYでは、モデルの宮城舞ちゃんや、石井美絵子ちゃん、雑誌で活躍する

トップのスタイリストさん、プロのフォトグラファーに囲まれながら、

大好きなファッションに囲まれて、每日楽しく過ごしております。


おかげさまで、instagramのフォロワーは4万人を超え、インフルエンサーの活動もちょこっとだけ、やらせていただいております。

インフルエンサーの活動は、レセプションパーティーなど様々な華やかな場に参加させていただく機会をいただき、大変光栄です。





逆ビリギャル

ただ、タイトルにある通り、私は「逆ビリギャル」です。

というのは、15歳の時、偏差値が70から35に落ちました。

まさに「逆ビリギャル」です(笑)


別に遊んでいたわけではありません。

ある日、体調不良を訴え、病院へ行ったら

そのまま入院を余儀なくされました。

医者が放った言葉で覚えているのはたった2つ。

「高校卒業は諦めてください」

「10年は闘病生活です」




それまで、病気はドラマや映画の中だけで起こる、自分とは無縁の出来事だと思っていました。

当時は薬剤師になりたくて、薬学部のオープンキャンパスに行ったり、模試を受けて偏差値を見て一喜一憂したり。学校から帰ったらZ会で自宅学習、たまに塾。そんな日々の繰り返し。平凡だけど、悩みは偏差値のことか、彼氏のことかどちらか。真面目に勉強さえしていれば、薬学部に入れて、薬剤師になれる。そんなに欲張りな夢ではないと思っていましたが、人生とはうまくいかないものですね。



ある日を堺に、手にしていると思っていたものがゼロになりました。


学歴なし(女子高生ですらなくなるw)

体力なし(学校に行けない、というか車椅子生活w)

人脈なし(友達にも会えない、頼れる身内いないw)


です。


みんなゼロになる瞬間がある


今回のお話は、私が大変だったんですーという、同情を煽りたい話ではありません。

私の場合はたまたま15歳の時に肩書きゼロになりましたが、皆、肩書きゼロになる瞬間ってあるんじゃないかと思うんです。


例えば、就職活動の時。(いい大学出てないから、使える肩書きないなーとか。)

転職の時。(特に実績ないし、肩書きない、とか。)

婚活中。(生まれも育ちもよくないし、武器になるものゼロだな、とか。)

離婚とか、親と喧嘩とか、詐欺にあったとか。


人生にはゼロになる落とし穴がたくさんある。

うまく避けて通れたらいいけれど、もし、うっかり落ちてしまったら。

それはきっと、そんなに珍しいことじゃない。

みんな格好つけたいから、言わないだけで、ゼロになるのは、私含め、みんなあると思います。


だからぜひ、自分にはやりたいことも好きなこともない、世の中で闘える武器もない(=ゼロ状態、or肩書きコンプレックス)と思う人にこそ、自分ごととして読んで欲しいです。






2つの約束


さて。15歳の時の私に話を戻します。

とはいえ、15歳の苦労のくの字も知らなかった私は、突然入院を告げられて、

薬剤師の夢をすぐに諦めるなんてできませんでした。


周りの友達はみんな当たり前のように学校に行き、

当たり前のように勉強をする。

将来なにをやりたいか、あれこれ悩み、考え、一生懸命目指している時期。

大手企業に入りたい人は早慶上智など有名大学に進学をしていく、

医者になりたい人は医学部へ。

私は夢を追う資格もない、と言われている気がしました。

なぜ私だけがこんな目に。




何を嘆いても仕方がないので

2つ、自分に約束をしました。


「絶対に好きなことを仕事にする」

「言い訳をしない」




武器はきっと他にある


この約束は、言うのは簡単ですが、実行するのは

なかなか大変で、

何度も心が折れそうになりました。


そもそも好きなことや自分の武器だと思えるものって、そんなに簡単に見つるものでしょうか。

私には大難題でした。

やりたいことなんて、わからない。

たぶん今でもそうです。


そしてうまくいかないことがあれば、他人のせいにしたり、

自分の生まれや育ち、運命のせいにしたくなります。

人ってそんなに強くない。


だけど、高校の時の友達が、有名大学に進学して、

有名企業に就職して、夢を叶えていく姿を見るたびに

悔しくなった。


自分の強みなんて、まったく思い当たらないけれど、

いっそのこと馬鹿になって

武器はきっと他にある、と根拠なく信じて探すことにしました。


歌は下手でカラオケじゃタンバリン担当。

運動は跳び箱も飛べない運動オンチ、

せめて勉強くらいは、、、と思っていたものができないなら

さて、私の好きなことはなんだろう。

できることはなんだろう。



ここから、

『やりたいこと(=武器)探し』の長い旅が始まりました。



とにかく経験、行動

わからないから、とりあえずなんでもやる。

アルバイトを含め、20以上の仕事をしました。


マクドナルド

寿司屋

携帯の販売員

居酒屋

ガールズバー

スーパーのレジ




営業

フォトグラファー

オウンドメディアの運用

モデル

エキストラ

ライター

インタビュアー

バイヤー

HP制作ディレクション

イラスト・デザイン

会社設立



とにかくなんでもやってみる。

やるっきゃない、ただ一身でした。


営業職は人材広告の営業。

飛び込み営業や電話営業をする

割と泥臭い仕事。


同期が多い会社で、先輩にも恵まれ、それなりに楽しい每日を送りました。

でも、かなりの体力仕事で、

その時もまだ完全に体調が復活しておらず

週5日稼働が難しい。(心配されたくないので、隠し通す)

しかし、ノルマは皆と一緒(当たり前ですが)

そもそもやりたい仕事なのか、と考えると、やりたいことではありませんでした。




写真を撮ることは、昔から好きでした。

旅行はもちろん、日常の何気ない空や道や人、シャッターをきっているだけで、

楽しかったし、写真を友達に褒めてもらうことも多くありました。

よし、フォトグラファーならやりたいことだ、と

なけなしのお金を払って、カメラを購入しました。

本体2台とレンズ3つ。

なかなか良いお値段しましたが、機材がないと始まりません。

かわいいお洋服も旅行に行くお金も我慢して、カメラに資金をまわしました。

「無料で撮影します!」とSNSで告知して、集まった女の子を撮らせていただき、

ポートフォリオ作成→企業に売り込む

をひたすら繰り返しました。

実力はやりながらつける。フォトグラファーの知り合いにいろいろ聞いて学びながら、

なんとかフォトグラファーとして、やっとこさ食べていけるようになりました。



実際にやってみてると、現実と理想は違うもの。

ぶち当たった壁は2つ。

その道のプロを目指すなら相当な覚悟が必要ですし、

専門職だからこそ、技術により、仕事の領域の差がとてつもなく大きい。

なんとか踏ん張って、ギリギリ食べていける程度にはなれても、CMや広告、雑誌のフォトグラファーとなると、プロのアシスタントに数年就いたり、カメラの専門学校を卒業していたりする人には叶わない。

このままフォトグラファーとして働いて、収入が増える見込みは正直相当低い、と感じました。


更に、フォトグラファーは体力仕事。フルボディのカメラを1台持っても十分重たいですが、撮影につき2台持つのは必須。さらに三脚やレフ板、レンズなどを持つと、スーツケースが必要な大荷物です。フォトグラファーを始めた時は20代半ばでしたが、毎週整体に通っても肩こりと頭痛がひどく、体力的に、この先結婚や子育てをして続けられるか?と言われたら、疑問を感じました。





悩みに悩み、オウンドメディア運用も始めました。

自宅で作業できる仕事なら、今後結婚や出産をしても、自分のライフスタイルに合った仕事ができます。wordpressを使って、地域の情報を発信していきました。



仕事としては「好き」だし「ライフスタイルにも合っている」。

しかし、こちらは時間をかけても「マネタイズ」するまでに時間がかかりました。見切り発車で行動して、後からマネタイズを考えても、かける工数、予算に限りがあったその当時、軌道修正が効かなくなりました。「好き」だけでは仕事として成り立たないということを学びました。




自分らしくない肩書き

こうしてやりたいことが見つからぬまま、20代後半突入。いよいよ周りの女友達は、結婚をする人が現れ、収入が徐々に増え始めます。



やりたいことがわからないまま、焦りを感じる日々の中で、蒔いた種のひとつがSNSでした。

当時、家庭の事情で理由あって、神奈川県のはずれに住んでいました。

最寄りの駅までバスで20分というアクセスで、都内に出ると往復3時間半。

自宅から徒歩圏内にあるのは、スーパーとコンビニと、何故かGU。


暇をもてあました私は、每日のコーデをSNSに投稿することにしました。

正直、投稿していたコーデは、「普通」で、特別オシャレでもなんでもなかったのですが、

気がつくと、時代の波もあって、あっという間にフォロワーが増えました。

あれよあれよとフォロワーが1万人を超え、次第にインフルエンサーとしてのPRの仕事の依頼が来るようになりました。


やりたいことがずっとわからなかった私に、光が差した気がしました。なにも肩書きなんてないと思っていたけれど、これはもしかしたら、自信をもてる肩書きかもしれない、と。



インスタグラマーという仕事を少し頑張ってみようとしたのです。



、、、、が。

やればやるほど、向いていないことに気がついてしまったのです。

薬剤師として試験管をふっていたかった、向きな性格なのに、

自らの顔を出して、他人に見られるとか、すごく苦手。むず痒くて仕方がない。

地味な生活をしているのに、キラキラ演出することへの自分への違和感。


決定的だったのは、母からの一言。

Instagramに投稿する写真を撮ってほしい、と親に頼んだところ、

「あんなに引っ込み思案だったのに、インスタ!?どうしたの!?」と驚かれました。



その時、気が付きました。自信を持てる肩書きがなくて、肩書きにすがり過ぎていた自分。

そしてまたしても、本当にやりたいことではなかったということに。




1つの肩書きを3つに育てる

でも、こんな、何者でもない私のアカウントをせっかくフォローしてくれたフォロワーさんがいることには、感謝しかありませんでした。

普通に生活をしていたら、一生交わることがないであろう友達も、Instagram経由でたくさんできました。

今更instagramをやめるのは、フォローしている方に申し訳ない気がしました。



じゃあ、今、できかけた1つの肩書きを3つに育てよう、と考えました。


その際、今までやってきたことを洗い出し、

それを掛け算することにしました。

経験と経験を掛け算することで、自分にしかない肩書きをつくることができる、

と思ったのです。


例えば、インフルエンサーという肩書きを持っている人は

日本に2,000人ほどいるかもしれません。


インフルエンサーをしながら、人前で話す講演をする人は

少し減って30人くらいでしょうか。


更に、その中でwebのディレクション経験や営業経験がある人って何人いるでしょうか。


経験したモノとモノの畑(業界)が遠ければ遠いほど、希少性が増し、

「他にはいない肩書き」を作ることができます。

私が今食べている仕事は、すべてこの掛け算をした結果、できたものです。



・SNSコンサルタント

・SNS講師

・プロデュース業


です。


正直それぞれ上記の職業をしている人は、大勢います。でも、インフルエンサーを経験したSNSマーケティングの講師は、ほぼいません。

雑誌CLASSYで言えば、ほとんどが出版社の業界に長年いる人。SNSの仕事をしている人は異人に映るかもしれませんが、人と違う経験をしていればしているほど、人とは違う仕事ができ、価値が生まれます。


SNSマーケティングに携わる人は理系脳で、PR関係に従事されてきた優秀な男性が多いです。ただ、机上でロジックは組めても、企業にコンサルティングはできても、いざインフルエンサーの中の世界で何を感じ、何が起きているのか、を知り、女性目線のマーケティングを語れるか、と言うと、途端に人数が減ります。


今ではSNSのコンサルティング運用企業も増え、タレントさんや大手企業様のコンサルティングを任せていただけるようになりました。先月ははじめて月収100万円を超えることができました。


偉そうに言える数字ではありませんが、肩書きゼロだった私としては自分を褒めてあげようと思えた瞬間でした。


そして今、会社を起こし、PRの領域で海外に出れるよう、活動しています。


夢を見ること


今回の私の話は、

別にわざわざ他人様に伝える必要のない話だと思います。

偉そうなことを言える、実績でもありません。


黙ってキラキラぶっていたらいい。私、今、大好きなファッションの仕事ができて、レセプションにも呼ばれて、每日幸せです!!って言っていたほうが格好がいいかもしれません。私の過去がなんだろうと、皆様は興味もないでしょうし、関係ありません。



ただ、私が伝えたいのは「夢を見ることの大切さ」です。

私が15歳の時辛かったのは、病気になったからではなく、

「夢を見ることができなかったから」です。


きれいごとでもいいです。やりたいことがあって、それを追うことができるのは、ただそれだけで素晴らしいことだと思います。


15歳の時、追う夢はなにもないと思っていた私は今、大きな夢を見ています。会社をつくって、仲間をつくって、大好きなファッションの仕事をして、まだまだ道半ばでも、もっと人生を楽しめると、本気で思っています。


ゼロはチャンス


もし、今、自分ってゼロなんじゃないか、って思う人がいたら、

伝えたいです。


ゼロからは、何者にでもなれます。

そしてそれは、最初から1を持っていた人を超えていける可能性だってあります。


大手企業に勤めていること、

有名大学を卒業していること。

自分の肩書きにすがって、動かない人より

時代に柔軟に対応していく人が求められる、と先日読んだニュース記事に書いてありました。


ゼロの人こそ、チャンスだと思います。

何も失うものがないのですから。

人がやっていない経験を積んで、積んで、

できたそれぞれの点と点(経験)を掛け算して線にしていく。

そうすることでオリジナルの肩書きが作れると思っています。



人の本質を見る世の中に

今まで出会った人の中に

肩書きだけで私を見ずに、

私を信じて仕事をくれる人がいました。


私に背中を叩いて「頑張れよ」って言ってくれました。

私も皆様と背中を叩きあって励ましあえる人になりたい。

だから、私も、前に進みます。



今でもよく挫けそうになるし

言い訳したくなるのはしょっちゅう。

結局自分は何がしたいんだっけ、って悩むことは多いですが、

この先また、ゼロになることがあるかもしれません。

それでもまた、きれいごとでもいいから、夢をもてる人でありたい。

それだけで同じ1日が輝き、

周りも世の中も少しずつ前向きに、明るくなっていけるような

気がします。

STORYSを訪れる皆様が、

それぞれの人生で夢を持ち、

それぞれの人生ストーリーを楽しめますように。



長文・駄文ですが

最後まで読んでいただきまして

本当にありがとうございます。


ほっと


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