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ヘリコプターで帰って来い! その②

Image by Olia Gozha

91歳で亡くなった祖母の葬式はとても和やかだったそうだ。

86歳まで一人で暮らしていた祖母。一人娘の母が心配して、家族全員で、祖母の住む別府に引っ越してきたのは私が小学校5年生の時だった。


同居はせず、別世帯の家を建て、祖母の部屋も準備したが、泊まることはほとんどかった。


私は両親と住む家でなく、祖母の家に住民票を置き、校区外の小学校、中学校に通って帰りがけに祖母の様子を見守ることになった。


実際には両親の家から学校に通っていたので、朝からバス通学をしていた。今だったらヘルパーさんがしている仕事を小学生から毎日していたことになる。


その後、私は進学の為東京に出て、母や妹が続けていた見守りが、祖母の大腿骨の骨折で、看病とリハビリに変わった。


退院しても当時手術後のリハビリに通っただけでは一人で住んでいた祖母の自宅に一人で戻ることは出来なかった。


母と妹の住む家に初めて寝泊まりしてリハビリに通った。


自宅に戻りたいと言う祖母の懸命な努力でだいぶん回復した頃、また捻挫して寝たきりになり元に戻るという繰り返し。


入院したり退院したり、転院したり退院したりを繰り返していた。祖母も母もけんかしながら頑張っていた。


約、5年程の入退院ののち、最後は

眠るように亡くなった、と母が言った。


ボケる事もなく、ただ眠る時間が増えていった。


寝たままでも良いから生きていて欲しかった、と、しみじみ母は語っていた。


アメリカから戻って来た私は、母と一緒に祖母の葬式の香典のお返しを買いに行ったり、お喋りして祖母との昔話を聞いたりして過ごした。


祖母の財産の手続きも母と一緒にあちらこちらに出かけて回った。


湾岸戦争が起こり、アメリカに戻らないで、と言われたり、雲仙普賢岳が爆発してテレビにかじりついて九州で起こっている災害に一喜一憂したりしながら過ごしていた。


そうして、また、アメリカに戻る日が来て私は母を残し旅立った。


が、次には母が入院して私は再び帰国した。


続く


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